スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

親鸞会教義の相対化・47

つづき


<『除名処分』の対象となる言葉遣い>

×善に向かいます
×善に向かって進みます
×善に励みます
×善に向かって励みます

これは「親鸞聖人のみ教え」に反する言葉遣いです。
親鸞学徒は絶対に使わないよう気を張りましょう。

<正しくない言葉遣い>

×光に向かいます
×光に向かって進みます
×光に向かって進みたいと思います
×光に向かいたいと思います
×光に向かって頑張ります
×光に向かって頑張りたいと思います。

親鸞学徒は【光に向かって進ませて頂きます】でなければならない。
★ ★ ★ ★ ★

>>>
本願の念仏には、一人立ちをせさせて、助をささぬなり。
助というは、智恵をも助にさし、持戒をも助にさし、道心をも助に
さし、慈悲をも助にさすなり。
善人は、善人ながら念仏し、悪人は、悪人ながら念仏して、
ただ生まれつきのままにて、念仏する人を、念仏に助ささぬと云うなり。

(訳)
阿弥陀仏の本願の行であるお念仏は、それだけで価値のあるものであり、
他の「助け」を必要としないものである。
「助け」というのは、智恵を念仏の助けにするとか、持戒を念仏の
助けにするとか、
覚りを求めることを念仏の助けにするとか、慈悲の心を念仏の助け
にすることなどをいう。
『勅伝』巻二十一、「つねに仰せられける御詞」(昭法全四九三頁)

善人は善人のままでお念仏申し、悪人は悪人のままでお念仏申して、
ただ生まれつきのままでお念仏申す人を、念仏に「助け」を必要と
しないというのである。
>>>

法然上人の言葉です。

念仏は、阿弥陀仏自身が願われた「本願」の行であり、 私達
が選んだのではなく、阿弥陀仏自身が選ばれた「選択」の行で
す。 だから阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すならば、間違い
なく極楽浄土に往生することができます。

したがって、念仏はそれだけで間違いなく極楽浄土に往生すること
ができる行なので、それだけで十分な行であり、何か他の行を行っ
て、お念仏を助ける必要はありません。

だから、善人でなければお念仏申せないわけではなく、悪人でなけ
ればお念仏申せないわけでもありません。
善人にならなければお念仏申してはいけないということもなく、悪
人になれなければお念仏申してはいけないということでもありません。

善人は善人のままでお念仏申し、悪人は悪人のままでお念仏申す。
それがそのまま、阿弥陀仏の「本願」の行となり、阿弥陀仏が「選
択」した行となり、極楽浄土に往生することが間違いない、「正定
の業」となります。それが「助け」を必要としてない、お念仏の行です。

しかし、法然上人はその言葉に続いて、

>>>
さりながら、悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に
叶うべし。

(訳)
そうは言っても、悪を改めて善人になってお念仏申す人は、仏の御
心に適うのである。
>>>

と仰っておられます。

 すべての悪をなさないこと、善きことを具えること、
 自らの心を清めること、これが仏陀たちの教えである。
(諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教)
(『ダンマパダ』183、『法句経』大正蔵経 vol.4, p.
567b)

とあるように、仏様が悪いことを勧めることはありません。「罪を
犯せ」と勧めるような仏様はどこにもおりません。

私達が悪を改め善人になってお念仏申したならば、仏様がお喜びに
なるに決まっており、できるだけ善人になろうと努力することが、
私達が仏様の御心に適うことです。

本願寺に不当な枠組みを当てはめて「善の勧めを否定した」と紅楳
先生を批判をされた高森先生であれば、このことは良くご存じであ
ると思います。

「悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に叶うべし」
と仰っておられるのは、親鸞聖人の師匠である法然上人の言葉です。

「善に励みます」という言葉を使うと除名(=破門)されるような
団体の方が、はるかに「親鸞聖人のみ教えに反する」と思います。

つづく
スポンサーサイト

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。