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親鸞会教義の相対化・50

清森義行様


 久しぶりに、私宛に書かれたコメントにお答えしておきたいと思います。
 沢山のコメントを頂いておりますが、誤った認識に基づく明かな虚偽に対する訂正や、不当な批判に対する反論を中心に書かせて頂きます。


★親鸞会教義の相対化・27
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-89.html#comment_area

>ヲタむけじゃないわけでさん

 この感想を書いてくださった友人は、花の中三トリオと同世代の女性であり、最近の「アニヲタ」などより遥かに長く深いキャリアを持つ「アニメファン」です。不十分な情報で人にレッテルを貼るのはやめてください。

 友人は、貴方のコメントを読んで非常に呆れていました。


★親鸞会教義の相対化・37
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-130.html#comment_area

>ななしさん
>暴想続さん

 渡辺先生は、例えば、

「真珠湾を攻撃するような態勢に追いこまれたから攻撃した!だから悪くない!」

というような、飛躍した論理展開を徹底して否定し、暴力などで自らの行動が制されそうになった時にも、決して逆上して自らも不寛容に陥るのではなく、平和的に解決する道を常に模索するべきである、という「寛容」の精神に貫かれた方です。

 清森問答をご覧いただいている方にも、そうした「寛容」というものについて考えて頂きたいと思ったのですが、少々場違いだったようですね。


★親鸞会教義の相対化・44
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-163.html#comment_area

>?さん

>>>
講師になるのは、自分が阿弥陀仏に救われるためなんですか?
講師になるのは、阿弥陀仏の本願を一人でも多くの人に伝えるためだと聞いた事があります。
自分が助かりたいだけなら、進むのは間違っているとも。
その点から考えれば、御文章を後ろの人にしっかり聞こえるように読むのは間違いではないと思います。

相対化を書いてる人答えて下さい。
>>>

 既に他の方が答えてくださっているので、私が更に言うことはないのですが、ご指名ですのでお答えしておきたいと思います。

 私は「一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように」読むことは否定しません。それはもちろんよいことです。

 しかし「後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめる」のは、明かな誤りです。

「聞法の縁のない時も、つとめて仏に親近し、親鸞・蓮如両聖人の
直のご説法を聴聞するよう、朝夕の勤行は欠かさぬようにしましょう。」
『Booklet2家庭の仏法』p.15

 親鸞会で出された一般向けに書かれた冊子に書かれたこの記述は、大変素晴らしものであると思います。一方、講師部の皆さんは、一般の方でもされていることをされないということでしょうか?

 そうであるならば、一般の会員さんよりも講師部の方の方が、阿弥陀仏に心を向けていないということになります。


★親鸞会教義の相対化・45
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-164.html#comment_area

>親子?さん

>>>
相対化は興味深く読んでますが、今回のはちょっと時代背景無視ではないでしょうか?
善導大師の時代の親子関係は、現代よりも余程厳格でした。
一つの家の中では、最上級のお客様以上に父親を大事にもてなしていました。
この内容については、合わないと思いますが、どうでしょうか?
>>>

 まず、私が紹介した言葉は、善導大師の言葉である「三縁の中の親縁」を解釈した法然上人の言葉です。

善導大師・・613年~681年
法然上人・・1133年~1212年

 次に、家長として父を大事に扱うことを私は全く否定しておりませんし、阿弥陀仏を粗末に扱っていいとは全く思っておりません。

 私が問題としているのは「お客様」のように、よそよそしく阿弥陀仏を扱う態度であり、その態度が阿弥陀仏との距離を遠ざけ、その結果、信仰からも遠ざかることになることを批判しております。

 興味深く読んでくださるのは結構ですが、今後は書かれていることを正確に、自分の中にあらかじめ存在している思想を先行させて読まれることのないよう、忠告させていただきます。



 以上、簡単ではありますが私宛に書かれたコメントにお答えさせて頂きました。

 今回『生活要領』を読ませて頂いて、親鸞会の講師部の皆様が、実践の「意味」「意義」よりも「形式」を徹底されていることが大変よくわかりました。

 そして何よりも大きな問題となるのは、その「形式」の中に「阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す」というのが見事に抜けていることであると思います。


>>>>
1)それ速やかに生死を離れんと思わば、
二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、
淨土門に入(い)れ。

(訳)
速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、二種の優れた法門の中で、しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)浄土門に入(い)らんと思わば、正雑二行の中に、しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
浄土門に入ろうと思うのであれば、正行と雑行の二行の中で、しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)正行を修せんと思わば、
正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
正行を行おうと思うならば、
正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
それは、阿弥陀仏の本願によるからである。
>>>>

 これは、法然上人の唯一の著書である『選択集』最後の十六章に書かれた言葉であり、この文はその中でも実践的結論と言える部分です。

 この文は親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

>>>>
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
(浄土真宗聖典pp.185-186)
>>>>

とコメントされております。

 阿弥陀仏が何を本願にされ、法然上人や親鸞聖人が実践として勧めておられる行を中心に据えているならば、親鸞会の『生活要領』のような記述には、絶対にならないのです。

 最後に、高森先生の説法でもよく使われる法然上人の言葉を紹介させて頂きます。

>>>>
現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。

一所にて申されずば、修行して申すべし。
修行して申されずば、一所に住して申すべし。

ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
在家にて申されされずば、遁世して申すべし。

ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。

衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。

妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。

所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」(昭法全六四〇頁)

(訳)
この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
他の人に助けてもらいながら申しなさい。
他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
自分で生計を立てて申しなさい。

妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはい
けない。

領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。
>>>>

 この言葉は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものです。

>>>>
諸行の中に念仏を用ふるは、彼の仏の本願なる故なり。
『一紙小消息』

(訳)
様々な行がある中で、特に念仏を極楽浄土に往生するための行として用いるのは、
念仏が彼の阿弥陀仏が本願に誓われた行だからである。
>>>>

 阿弥陀仏に帰依し、極楽浄土に生まれることを求めたものは、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を申すしかありません。

 なぜならば、

>>>>
念仏の他の一切の行は、これ彌陀の本願にあらざるがゆえに、
たとひ目出(めで)たき行なりといへども、念仏には
及ばざるなり。

大方、その国に生まれんと思はんものは、
その仏の誓いに従うべきなり。
されば弥陀の浄土に生まれんと思はんものは、
彌陀の誓願に、従うべきなり。

『勅伝』巻二十五、
「太胡太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事」(昭法全五〇七頁)

(訳)
お念仏以外の全ての行は、阿弥陀仏が本願で願われたものでないので、
どんなに素晴らしい修行であっても、念仏には及ばないのである。

大体の所、仏の国に生まれたいと思うものは、
その国の仏の誓っておられることに従うべきなのである。
だから、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思うの者は、
阿弥陀仏の誓願に従うべきなのである。
>>>>

 阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことは、阿弥陀仏御自身が私達に願われたことだからです。

 だから、私達がこの世で生きている間は、阿弥陀仏が私逹に願われた通りに、お念仏が申せるように生きていくべきであり、お念仏を申すことの妨げになることは、徹底して避けていくべきです。


 そしてその生き方は、阿弥陀仏に限らず、釈尊が教え六方諸仏が証明された教えに従うということでもあります。

>>>>
阿弥陀仏は不取正覚の言葉を成就して、現に彼の国にましませば、
定めて命終の時は来迎し給はん。

釈尊は善哉(よきかな)、
我が教えに従いて、生死を離れると知見し給ひ、

六方の諸佛は悦ばしき哉、
我が證誠を信じて、不退の浄土に生ると悦び給ふらんと。
『一紙小消息』

(訳)
阿弥陀仏は、
「この全ての誓願が実現しなければ私は仏にならない」とまで誓った誓願を実現して、
いま現に、かの極楽浄土に仏として在(ましま)しているので、
(誓願はすべて実現しているので阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すならば、)
この世で命を終えようとする時には、阿弥陀仏が必ず迎えに来てくださるであろう。

釈尊は、
「私の『阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申しさい』という教えにしたがって、
人々が生死を繰り返す輪廻を離れることは、なんと素晴らしいことであろうか!」
と阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人をご覧になっておられるであろう。

六方の諸仏は、
「私達が『阿弥陀仏の本願を信じて専らに阿弥陀仏の名号を称えるものが、
極楽浄土に往生するということは、全く間違いない真実である』
と証明したことを信じて、
一度往生したならば、決して迷いの世界に戻ることのない極楽浄土に、
人々が生まれることは、なんと喜ばしいことであろうか!」
と喜んでおられることであろう。
>>>>

 法然上人がお示しになられた、どこまでもお念仏が申せるように生きていく生き方は、私達凡夫の勝手な計らいでもって作り出された価値観ではなく、私達をとりまく全ての仏が示してくださった、絶対的な価値観に従う生き方です。

 高森先生は、この「念仏」を「高森先生の話を聴聞すること」に置き換えてお話になっておられるようですが、私逹を救ってくださるのは高森先生ではなく阿弥陀仏なのですから、「高森先生が願ったように生きる」のではなく、「阿弥陀仏が願ったように生きる」べきであると思います。

 いろいろ申し上げて来ましたが、結局はこれに尽きると思います。
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COMMENTS

相対化

相変わらず読みにくい文章だね。

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