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親鸞会教義の相対化・52

つづき

【pp.118-119】
 『旧約聖書』は、人間の苦しみの原因を、アダムとイブの造った
「原罪」と説く。
 人祖アダムと今日の我々は、明らかに人格を異にするにもかかわ
らず、アダムの罪が子孫たる全人類の罪だ、という。たとえ罪が遺
伝したのだとしても、その罪そのものが、神から与えられたもの。
 いや、与えたのではない、人間が神禁を犯して自ら墮落したの
だ、と言い訳しても、全智全能、創造主たる神は、墮落をくいとめ
ることもできたはず。それをしなかったのは神自身の意志に他なら
ないから、結局「原罪」の根本原因は神にいきつく。神の意志で
我々が苦しまなければならないことになる。
★ ★ ★

 渡部氏は「罪」と「原罪」の区別がついていないために、このよ
うな不当な批判を行っているようです。これに関しては、私が下手
な解説を行うよりも、井上神父の解説を掲載させていただきます。

====以下引用====
 キリスト教ではよく「罪人」という言葉を使いますが、これは法
律でいう「犯罪人」とは全くと言っていいほどちがう意味を含んで
います。犯罪(英語のcrime)というのが法律違反の行為で社
会に対しての責任を問われるものであるのに対して、キリスト教で
いう罪とは、もっと内面的な行為または状態をも意味していて(英語では
sinでcrimeとは明確に区別されています)、言わば神さまに
対して(神さまがわかりにくければ、多少問題はありますが、各自
の良心の前で、と解してもまあよいと思いますが)責任を問われる
行為であると言えましょう。
 『新約聖書』の中でよく罪をあらわすために使われているギリシ
ア語のハマルティアという言葉は、もともとは、弓矢の競技で「的
をはずす」とか「車が道をふみはずす」とかいうことを意味してい
る言葉で、『新約聖書』の記者たちが、これを罪をあらわすための
言葉として使ったのだと言われています。すなわちキリスト教にお
ける罪とは、【神との正しく美しい関係をこわしたり汚したりする
行為ないしは状態】を言うわけです。
 『旧約聖書』のはじめの『創世記』には、有名なアダムとエバの
「楽園喪失の物語」がのっています。これはユダヤ教文学の最高の
傑作に属するものと言えると思いますが、この物語の中で蛇がエバ
とアダムを誘惑するところがあります。神が園の中央にある木の実
だけは食べてはいけないと命じたことに対して、蛇がエバを誘う場
面です蛇は実にエバに次のように言うわけです。

「この実を食べると、善悪を知って【神のようになる】」

 人間が人間の与えられた場を忘れ、【神のように】なろうとする
こと―これがキリスト教でいう罪であり、神とその御手の中にある
人との調和の美を破壊する、ある意味では唯一の根源的な罪なのです。
 パウロはその手紙で、罪を単数の形と複数の形とに意識して使い
分けていますが、単数の罪(ハマルティア)は、アダムと同じよう
に、神のようになろうとすることであると述べ、それをこの罪がア
ダムから伝わってきているのだというふうに表現しています。この
罪を“盜むな”“殺すな”“偽証するな”というような個々の掟に
背く罪と区別して、キリスト教ではこれを「原罪」という言葉で呼
んできたのです。
 「楽園喪失物語」には、更に、木の実を食べたアダムとエバは、
そのとき裸であることに気づいて恥ずかしくなり、いちじくの葉で
前をおおったと記されています。これは、天地自然の姿を失って、
それぞれが個とエゴイズムの殼の中に閉じこもり、真の平和の美を
失ってしまったことを意味しています。この破壊された平和と連帯
の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死な
のだとパウロはその手紙の中で述べています。
 罪という語が複数形ででてきた場合には、これは“盜むな”“殺
すな”“偽証するな”といった掟に違反した罪をさしているわけで
すが、しかしこれらのいずれも結局はすべて隣人愛に背く行為なの
であり、エゴイズムの殼の中に閉じこもってしまった結果起こって
きたものであると言えます。

井上洋治著『キリスト教がよくわかる本』(PHP出版)pp.143-145
====以上引用====

 神の意志に反してしまう人間のエゴイズム・・「阿弥陀仏の御心
に反した行為をしてしまう凡夫」の自覚があるのであれば、全く理
解できないものではないと思います。

 もちろんキリスト教には、「神がこの世界を創造したにもかかわ
らず、なぜ悪や苦難が存在するのか?」「なぜこの世では義人が苦
しみ悪人が栄えるのか?」という神義論が古くから存在していて、
そのために私の友人は、キリスト教ではなく仏教(その中でも浄土
門)を生き方の指針としています。

 渡部氏の指摘はそれなりにポイントはついていますが、「遺伝」
などを持ち出しているので、創世記の記述を、象徴表現と受け取っ
ているのか、事実と受け取っているのか不明瞭であり、まずこれを
明確に規定する必要があると思い
ますし、創世記以外の他の箇所を検討する必要もあると思います。
 さらに神義論に関しては、キリスト教内部に膨大な蓄積があり、
それに対する批判哲学でも多くの議論がなされていますので、そう
した背景を押さえた上で発言しなければ、キリスト教に詳しい人の
失笑をかうことになるでしょう。

 それに神義論に関して言うのであれば、

===以下引用===
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
===以上引用===

という指摘を受けた某宗教団体のドグマに対しても、公平を期すた
めに渡部氏は同様の批判を行う必要があると思います。

つづく
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COMMENTS

No title

渡部氏の著作、論法が雑学レベルの知識によって構築されているエセインテリ本だということに気付いている会員は結構多かったように思う。
それでもそこを指摘しなかったのは、主張の内容云々よりも、そこに信順できるかどうかに価値を置く親鸞会教団の理屈に縛られていたからだ。
気になるのは、仏教用語と著名な学者の言動との”浅い融合”によって仏教の真実性を主張していたのは、清森氏も同じだったのではないか?ということ。これも無論、その主張の浅さに気付く者は多かったのだが、その毒のない人格に助けられ、あえて批判対象とはならなかったのである。
そのような過去をもっている清森氏であるのだから、自己と同類の他者を批判する際には、一言なりと自分の言葉で反省を述べるのが、正常な感覚だと思う。
世間一般の感覚に逆行することを示しながら、対親鸞会記事を掲載し続けるというのが彼のスタイルならば、それが何十年貫いてきた彼の生き方なのだろう。

No title

船場吉兆で客の食べ残しを使い回してたエセ料理人が
自分は口をぬぐって当時の湯木正徳前社長だけを非難するようなもの。

親鸞会の現講師も元講師も基本は同じエセ仏法者。
さすがぺテン師高森の弟子。
親鸞会会員は早く親鸞会関係から離れた方がよい。

たとえば、清森氏は親鸞会のダミサ勧誘を非難しているが、
何年も陣頭指揮でやってた清森氏本人がまず土下座して謝罪すべきこと。
指摘されてからやっと口だけ謝ったが、
親鸞会を離れてからだから生活は関係ないし、
ダミサ勧誘に批判的な人をとりこむ損得勘定もみえる。
慰謝料出したり謝罪広告出してはじめて「謝った」と言える。
口だけ謝ったのは、親鸞会がアホにする世間様では「謝った」と言わん。

謝罪のない親鸞会よりマシというのは論点がずれとる。
生活と関係ないから口だけ謝ったのであって、
親鸞会内に清森氏がおったらやっぱりダミサ勧誘の謝罪はなかったわけ。

清森氏は親鸞会をいろいろ非難しているが、
組織に対する疑義を提出したから除名になったのではなく、
親鸞会で異安心認定された上田氏を擁護したことなどで除名になってから、
後づけで親鸞会の組織批判がはじまったわけよ。
その証拠に、このブログ最初は上田氏擁護で、ダミサ勧誘の謝罪や
親鸞会の組織批判はずっと後。

清森氏の謝罪はこの程度。
彼のやっているのは、クビにした親鸞会への復讐でしょ。
「私の白道」もそうだが。
会社クビになったヤツが仕返しに裏情報リークするのは世間ではよくある。


>そのような過去をもっている清森氏であるのだから、自己と同類の他者を批判する際には、一言なりと自分の言葉で反省を述べるのが、正常な感覚だと思う。
>世間一般の感覚に逆行することを示しながら、対親鸞会記事を掲載し続けるというのが彼のスタイルならば、それが何十年貫いてきた彼の生き方なのだろう。

親鸞会は、高森をはじめ現講師も元講師も基本的にみな異常。
基本、謝罪も反省もないのが親鸞会スタイルであり親鸞会的生き方。

「恥づべし傷むべし」と懺悔なされた親鸞聖人とは根本的に異なる。

No title

組織に対する疑義を提出して除名になった上田氏を擁護するのは、
親鸞会から除名される覚悟がなければできません。極めて勇気のある言動だと思います。
そもそも慰謝料、謝罪広告なんて意味のないことしてどうするんですか?
厳密な慰謝料算定なんてできんでしょ。それこそ似非「元信者」が集まってくるだけです。
清森さんがこのブログを作ったのは、親鸞会において永きに渡り、学生勧誘の中心的な
役割を果たしてきた責任を感じてのことでしょう。
「異常な感覚が親鸞会スタイル」さんは、親鸞会教義を批判・分析するためにどういった
活動をされていますか?
清森さんに限らず、親鸞会において何年も活動をしていれば、一人や二人、人を
勧誘したこともあるでしょう。つまり、自ら被害者であると同時に加害者でもあるのです。
しかし、加害者の大半は、親鸞会脱会後、過去を隠して何事もなかったかのように
社会人としての生活を送り、時々2ちゃんねる等でカルト批判をする程度でしょう。
私自身、親鸞会には6年間おり、その間、数十人の新入生を勧誘しました。
その中には、活動にはまり親と絶縁状態になった人(その後、その人は退会されました。)や、
親鸞会講師になられた方もいます。

非常に悪いことをしたと思いながらも、清森さんのように精力的に活動ができていない
自分を恥じる毎日です。清森さんを批判するのは簡単ですが、あなた自身批判できる
ほど立派な人なのか、まずは冷静に自己分析してみてください。

ちなみに私は20年前、阪大で清森さん(文学部博士在学中と称されてました)に勧誘され、
親鸞会にどっぷりはまった6年間を過ごした者ですが、清森さんを全く恨んでおりません。
私自身、同じように人を勧誘してきた身ですから。

No title

私も親鸞会に十年以上在籍して退会しました。
その間、私が勧誘した人は何人もいます。
大半は辞めていますが、まだ在籍している人もいます。
講師部になった人はいませんが、講師を目指して、人生を狂わせてしまった人はいます。
しかし、清森さんのように、名前を出して謝罪することは中々できません。
個人的に謝罪する機会があれば、謝りたいと思いますが。
清森さんのやっていることは、親鸞会時代の清算なのではないでしょうか。
非難されるようなことではないと思います。

No title

なにやら論点がずれているが、

>そのような過去をもっている清森氏であるのだから、自己と同類の他者を批判する際には、一言なりと自分の言葉で反省を述べるのが、正常な感覚だと思う。

当ブログに対して率直に上記のように感じる、ということを言っています。
講師部内に横行している非常識 等の情報には、親鸞会に深く関わっていた人間の内部告発という価値が認められるのだが、親鸞会と比較する形で主張している清森氏の仏教観というものには抵抗を感じるということです。
(自身も非難している)親鸞会サイドにいた清森氏の立場で出来ることとすれば、「自分が主張していた内容についての懺悔」です。自分自身の誤りとして語るべきところを「顕徹氏の誤り」、「渡部氏の誤り」として語っているから読後の違和感が強いというのです。

>しかし、清森さんのように、名前を出して謝罪することは中々できません。

私も同じように思います。だからこそ もっと親鸞会関係者に影響をあたえる存在になって欲しくて、苦言を述べさせていただきました。

ん?

というか、この記事は浄土宗の人が書いた記事だろ?
だから親鸞会や渡部氏を批判しているのは、浄土宗の人だよね?

この記事で清森氏に文句を言うのはおかしいのでは?

この記事に関して清森氏にできるのは、「親鸞会や渡部氏を批判しているこの見解に賛同しますか?」「今まで貴方が教えてきたことと違いますが、訂正しますか?」と尋ねて、解答を求めることだけではないか?

オイオイ

はにゃ?> というか、この記事は浄土宗の人が書いた記事だろ?
はにゃ?> だから親鸞会や渡部氏を批判しているのは、浄土宗の人だよね?
はにゃ?>
はにゃ?> この記事で清森氏に文句を言うのはおかしいのでは?

オイオイオイ。
「若不生者」で親鸞会とぺテン師高森を批判してるヤツらが言うことかい。
あなたの理屈だと「あれは(株)チューリップ企画 サービス課 山田の
言ったことで親鸞会は関係ない。アニメのパッケージのどこに『親鸞会』とありますか。」
となるんだが、それは親鸞会的異常感覚なのよ。
チューリップ企画は親鸞会のダミー会社なんだから、正常な感覚だとそれは通らない。

この浄土宗の人は清森氏の友達であって完全な第三者ではない。
だから清森氏とは一切無関係と言うのが親鸞会的異常感覚で、
否定しない以上、清森氏も同意見とみるのが正常な感覚。
「友達の意見だけどそれはちょっ違う、誤解してる」と思ったら
普通の人なら 100% 自分の意見もそえる。
でないと同意見だと 100% 勘違いされるから。

もう少し親鸞会を知っていると、批判をかわすために
清森氏は浄土宗の人に言いたい放題言わせてるな、ということも透けてみえてくる。
だから自分の意見をわざと入れないのだろう。

ダミサ勧誘で培った親鸞会的異常感覚にまだ支配されていることがよくわかる。


横から> 組織に対する疑義を提出して除名になった上田氏

http://jomei2.exblog.jp
をみる限りそれは違うでしょ。
上田氏は批判的態度や異安心と認定されて除籍処分されたのでは。

「組織に対する疑義を提出」と私が言ったのは、
親鸞会の行っていることで明らかに親鸞聖人のみ教えと異なることを
書面に箇条書きにして、しかるべき人に提出したのか
ということなんだが通じなかったかな。

親鸞会のグチ言ってたのを「疑義を提出」とは言わん。
書面にして渡すから「提出」なんだけど。

-----------------------------------------------------------------
http://jomei2.exblog.jp/blog.asp?iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=6487284&dte=2007%2D07%2D13+13%3A27%3A02%2E000

2007年 05月 12日
清森義行さんまで…

 ところが清森さんも、上田さんの話を聞いていたことが発覚し、すぐにビデオ講師退任に
追い込まれてしまいました。長年、親鸞会の発展に尽くしてこられた方なのに、
これでは使い捨てではありませんか。生活の保障もありませんし、非人間的な仕打ちに、
強い怒りを覚えずにおれません。
-------------------------------------------------------------------

正直な気持ちだろうし、正当な怒りだと思う。
でも「使い捨て」「生活の保障もありません」「非人間的な仕打ち」に対する怒りであって、
親鸞会が親鸞聖人のみ教えを曲げていることへの怒りではない。

組織に対する疑義を書面にして提出すれば 100% 除名処分になることはわかるのだから
こういう話にはならないの。

親鸞会の組織に対する疑義は、後づけですよ。

はじめにあるのは、「使い捨て」「生活の保障もない」「非人間的な仕打ち」
に対する怒りとうらみで、それを煩悩と言うからやはり煩悩はなくならない。

それを「恥づべし傷むべし」と懺悔さされるか否かが分水嶺。

うん。

言いたいことはなんとなくわかった。

清森氏だけ安全地帯にいるみたいな印象なんだね。
本当に客観的な立場であると言うなら、浄土宗の人に清森氏や上田氏に対する批判もさせて、それも掲載すべきだと思う。

それなら「所詮は友達だから」とはならないだろ?

No title

>本当に客観的な立場であると言うなら、浄土宗の人に清森氏や上田氏に対する批判もさせて、それも掲載すべきだと思う。

それがベターでしょうね

>清森氏だけ安全地帯にいるみたいな印象なんだね

感覚的には、本人は安全地帯にいると思ってるかもしれんが、まわりはそうは見ていない。
当ブログをみた多くの会員の印象としては、「浄土宗の人の意見としてブログに掲載させているものは、清森氏自身の言葉を代弁させているのだろう」、と感じさせている。
しかし、顕徹氏独自の教義については厳しい批判をくわえている浄土宗の人の意見を前面採用しているわりには、一方で清森氏は顕徹氏独自教義を引き継いでいるようにも見える。それが”ダブルスタンダード”の立場とみなされ始めていることに、気付いてほしいものです。

なるほどね。

いろんな意味で、清森氏は過途的段階なんだと思うよ。
長期間、高森氏のドグマの影響下にいたんだから、それはある意味仕方ない。
上田氏も同様。高森氏のドグマの影響下でそれなりに批判を行ったものなわけだしね。

まあ、今後も浄土宗の人に親鸞会教義の相対化を続けさせるのなら、清森氏自身や上田氏が説いているものに関しても、同じように相対化を依頼するのがフェアーだと思うね。

そういうこと

はにゃ?> 清森氏だけ安全地帯にいるみたいな印象なんだね。
はにゃ?> 本当に客観的な立場であると言うなら、浄土宗の人に清森氏や
はにゃ?> 上田氏に対する批判もさせて、それも掲載すべきだと思う。
はにゃ?>
はにゃ?> それなら「所詮は友達だから」とはならないだろ?

まあ、それなら提灯記事書いてる人とはならないですよ。


コダマ> 当ブログをみた多くの会員の印象としては、「浄土宗の人の意見として
コダマ> ブログに掲載させているものは、清森氏自身の言葉を代弁させているのだろう」、
コダマ> と感じさせている。

そういうこと。現会員も元会員も親鸞会とは無関係な人も普通はそう思う。


コダマ> しかし、顕徹氏独自の教義については厳しい批判をくわえている浄土宗の人の意見を
コダマ> 前面採用しているわりには、一方で清森氏は顕徹氏独自教義を引き継いでいるようにも見える。
コダマ> それが”ダブルスタンダード”の立場とみなされ始めていることに、気付いてほしいものです。

うん、それもあるし、清森氏の高森教学批判や浄土宗の人の批判は
清森氏がこれまで親鸞会講師として 30 年教え続けてきたことの批判でもあるんですよ。
たとえば「一切衆生必堕無間」と清森氏も教え続けてきたわけでしょ。
批判は清森氏にもかかっているんだけど、その反省がない。

コダマ氏も指摘している。

コダマ> (自身も非難している)親鸞会サイドにいた清森氏の立場で出来ることとすれば、
コダマ> 「自分が主張していた内容についての懺悔」です。自分自身の誤りとして語るべきところを
コダマ> 「顕徹氏の誤り」、「渡部氏の誤り」として語っているから読後の違和感が強いというのです。

結局これは、清森氏はまだ自分が高森教学を無批判に受け入れてきたことを総括できて
いないということなんじゃないかな。
総括できていればね、まず懺悔が先にくるから、このブログのようなスタイルには
ならんのです。


はにゃ?> いろんな意味で、清森氏は過途的段階なんだと思うよ。
はにゃ?> 長期間、高森氏のドグマの影響下にいたんだから、それはある意味仕方ない。
はにゃ?> 上田氏も同様。高森氏のドグマの影響下でそれなりに批判を行ったものなわけだしね。

それはわかる。
でも清森氏は高森教学の土台の上に真宗を模索しているでしょ。
だから自分を総括できんのよ。

高森教学はいったん全部捨てて、それから自分で伝統的な宗学を拾い集めてこないと
みえないことがある。確かに共通している筋道があるから、
知識伝持の相伝とはなにかわかってくる。
基本がなってないのに真宗の教義を語れるわけないでしょ。
その上で高森教学の正しい部分を正しい、まちがいをまちがいと言えばよい。
そうすれば自分がいかに浅薄だったか恐れおののき自然に懺悔させられるでしょう。
また、高森師のぺテンもよくわかるが、同時にそれで導かれたこともよくわかるから
師の恩がより深く知らされるのではないかな。

そういう道程なしに非難ばかりするからグチになるんですよ。

真宗の基本的な部分がぬけとったとわかったんなら、
唯識や十住毘婆沙論を勉強しとる場合じゃないんです。
もし「念仏をとりて信じたてまつらん」と思っているのであれば、だが。

No title

皆さん厳しいですね。
30年間高森教学に染まってきた人がある日いきなり土台を摩り替えるなんてこと
できると思いますか。
浄土宗の人と親密になったり、親鸞会で禁じられている各種書物を読まれたり
されているのは、土台探しをされている過程だからだと思います。
実は土台探しが一番難しい。
高森教学と一言で言っても9割以上は正しいわけですよ(少なくとも私はそう思っている)。
しかし、あえてここでは言いませんが、肝心なところに高森流の教学解釈が
盛り込まれてしまい、百点にならないわけです。
じゃあ、百点満点の教え(=真宗の正しい教え)があるのかどうか。
そして、それは何に基づいて判断するのか。
清森さんはただ今模索中なのでしょう。
(教行信証に照らして判断すればよいという意見も出るでしょうが、簡単に出来たら、
苦労しません)

このブログはどういう位置づけのブログか。
最初はご存知の通り、質疑応答が中心でした。
もちろん、質疑応答する過程で親鸞会教義や組織の批判も出てきます。
しかし、批判するために作られたブログではなく、あくまでも質疑応答が
メインのブログであることは間違いありません。

では、親鸞会は批判しているが、清森さん自身、反省がないのか。
答えは「いいえ」でしょう。
過去に清森さんはきっちり具体的にこのブログ上で謝罪をしています。
それでもなお謝罪が足りないというのでしょうか。

実名でブログを立ち上げ、自分がやってきたことをこのブログで償い、
そして、親鸞会と親鸞聖人の教えに矛盾、相反する点はないかを検証し、
投稿に対しても誠意を持って回答していただけているという点で
非常に評価すべきことだと思います。
いやもっともっと謝罪しろ、反省しろ、償えと要求するのは厳しすぎや
しないでしょうか。親鸞会を除名されてまだ1年間、私はこれからの
清森さんのご活躍を心から応援しております。

よくがんばってるね

横から> 非常に評価すべきことだと思います。

評価しているからこそ忌憚のない意見がよせられているのでしょう。
それとも「よくがんばってるね」とほめてもらいたいのですか。


横から> いやもっともっと謝罪しろ、反省しろ、償えと要求するのは
横から> 厳しすぎやしないでしょうか。

口だけの謝罪は、世間では「謝った」と言わんし、そんなものに意味はない。

多分、コダマ氏も同じこと感じていると思うのだが、
清森氏は自分のことに無批判すぎなんです。
静かに自分を省みてはいかが、という忠告ですよ。


横から> 30年間高森教学に染まってきた人がある日いきなり土台を
横から> 摩り替えるなんてことできると思いますか。

高森教学の土台がゆらいだのなら、伝統的宗学がゆるぎなく身につくまで
沈黙したらよい。混乱したままで、ウソかもしれん高森教学を無批判に
言ってしまうよりよっぽどいいし、それが正当なやりかたでしょ。
にもかかわらず何か真宗学を語るのであれば、自ずとものいいがある。


横から> 浄土宗の人と親密になったり、親鸞会で禁じられている各種書物を読まれたり
横から> されているのは、土台探しをされている過程だからだと思います。
横から> 実は土台探しが一番難しい。

土台探しをしている過程の人が宗学を知ったかで語るなよ、
と親鸞会とは無関係な同行は思うでしょうね。
元会員なら親鸞会講師はちょっと勉強しているだけの素人と知っていますが。


横から> 高森教学と一言で言っても9割以上は正しいわけですよ(少なくとも私はそう思っている)。

自分で高森教学の一つ一つに当って、確かめましたか?
いくつかみただけで「9割以上は正しいわけです」などと主張しているのであれば
そういういい加減な態度を批判していたのですが、通じてませんでしたか。


私もこれからの清森氏の活躍を応援していますよ。
だからこその苦言です。
コダマ氏や、はにゃ?氏も多分そうでしょう。
でなければ仲間内で笑ってながめてりゃいいんだから。
もう立場は違うけれど、清森氏がまじめな真宗の道俗だと思うからこそ
厳しいことを言ってきた。
その上でどうするかは清森氏次第です。

No title

>>評価しているからこそ忌憚のない意見がよせられているのでしょう。
>>それとも「よくがんばってるね」とほめてもらいたいのですか。

なぜそういう発想になるんでしょうか。
褒めるとか褒めないとかそういう問題じゃないでしょう。

>>口だけの謝罪は、世間では「謝った」と言わんし、そんなものに意味はない。

口先だけかどうかなぜ分かるのでしょうか。
そもそも、あなたはどういった謝罪を求めているのですか。
どんな形で謝罪しても、それが口先だけかどうかはわかりません。
このブログや2ちゃんねるを見ていても、匿名ですら謝罪する人がほとんどいませんね。

>>多分、コダマ氏も同じこと感じていると思うのだが、
>>清森氏は自分のことに無批判すぎなんです。
>>静かに自分を省みてはいかが、という忠告ですよ。

自分が30年間いた組織を批判することは、
自分の30年間を批判しているのと同じことです。

>>高森教学の土台がゆらいだのなら、伝統的宗学がゆるぎなく身につくまで
>>沈黙したらよい。混乱したままで、ウソかもしれん高森教学を無批判に
>>言ってしまうよりよっぽどいいし、それが正当なやりかたでしょ。
>>にもかかわらず何か真宗学を語るのであれば、自ずとものいいがある。

清森さんと教学論争をされるのであれば、私は何も言いません。
或いは、このブログにおいて清森さんに何かしらの質疑応答を試みられるのも
構いません。伝統的宗学がゆるぎなく身につくまで 沈黙したらよいというのは、
それは違うでしょ。といいたい。
そもそも、ゆるぎなく身に付いた教学が正しいとは限りませんし、
身に付いたと思っていても、その後ゆらぐかもしれません。
信心決定していないのであれば、なおさらです。
モノを言うことが大切です。
高森教学が土台にあったとしてもです。

>>土台探しをしている過程の人が宗学を知ったかで語るなよ、
>>と親鸞会とは無関係な同行は思うでしょうね。
>>元会員なら親鸞会講師はちょっと勉強しているだけの素人と知っていますが。

前述の通り。

>>自分で高森教学の一つ一つに当って、確かめましたか?
>>いくつかみただけで「9割以上は正しいわけです」などと主張しているのであれば
>>そういういい加減な態度を批判していたのですが、通じてませんでしたか。

現在確かめている最中です。
少なくとも、親鸞会を脱会して15年になりますが、親鸞会脱会後もいろんな
真宗学を学んでおります。私も恥ずかしながら土台探しをしている最中ですが、
無批判にある教えを信じ込むようなことはしません。

>>私もこれからの清森氏の活躍を応援していますよ。
>>だからこその苦言です。
>>コダマ氏や、はにゃ?氏も多分そうでしょう。
でなければ仲間内で笑ってながめてりゃいいんだから。
>>もう立場は違うけれど、清森氏がまじめな真宗の道俗だと思うからこそ
>>厳しいことを言ってきた。
>>その上でどうするかは清森氏次第です。

あなたは批判専門の方ですか。
何か正しい親鸞聖人の教えを説こうと取り組まれていることでもあるのですか。
他人を「匿名」で批判するのは簡単ですが、まずは、静かに自分を省みては
いかがでしょうか。

重ね重ねになりますが、私は清森さんの教えている内容を批判するなと言っている
のではありません。
「清森は自分自身に無批判だ」「反省が足りない」といったことを言うことに対して、
おかしいんじゃないのと苦言を申しているのです。
清森さんは安全地帯にいるじゃんと言いながら、
匿名で批判しているあなたこそ安全地帯にいることが分かりませんか。
実名で組織批判をすることのどこが安全地帯なんですか。
よくよく考えてみてください。

No title

>清森さんと教学論争をされるのであれば、私は何も言いません

論争至上主義と言いましょうか?親鸞会の特色であり、清森氏自身脱却できていない部分だと思います。声の大きさを競い合う論争など実に空しいものです。

「あい済みません」と言える度量を、清森シンパの>横から氏が見せるのならば、清森氏の変化を感じる縁になるのですが。
清森氏が認めている上田氏も「自分が悪いから謝るのじゃないのです」と説教していました。そういう教えは、清森氏や、その後に従う人を通して現われてくるのじゃないでしょうか?

No title

>>論争至上主義と言いましょうか?親鸞会の特色であり、清森氏自身脱却
>>できていない部分だと思います。声の大きさを競い合う論争など
>>実に空しいものです。

>>「あい済みません」と言える度量を、清森シンパの>横から氏が見せるのならば、
>>清森氏の変化を感じる縁になるのですが。
>>清森氏が認めている上田氏も「自分が悪いから謝るのじゃないのです」と
>>説教していました。そういう教えは、清森氏や、その後に従う人を通して現われて
>>くるのじゃないでしょうか?

何度も言います。
・清森さんは既に偽装勧誘の件を含め、既にこのブログ上で謝罪されています。
・また、実名で親鸞会の批判を当ブログ上でされていますので、自分は
 安全地帯にいるとは思っているはずがありません。
・少なくとも、あなた方のように安全地帯にいながら、批判している人でもありません。

ところで「論争至上主義」という考えはどこからでてきたのでしょうか。
真宗において信心について語り合うのは大事なことです。
そして、正しい教えを理解できれば、誰でも勝ちになることができるのです。
このブログにおいて「例え、清森さんが対戦相手にならずとも、互いに論争を
して正しい教えを理解できれば、リードオンリーの方でも勝ちになりますから、
非常に喜ばしいことではないでしょうか。

コダマさんへ

もうとっくに感じておられるとは思いますが、この手の人たちには
なに言ってもむだでしょう。
やはり、高森 -> 清森、上田 -> そのシンパたちへ
と流れている体質なんじゃないですか。
断ち切る気がないんじゃ切れるわけがない。
まっ黒に染まりきってた自覚がないんですよ、この人たちは。
これがまさに親鸞会スタイルです。
「恥づべし傷むべし」という懺悔もないし、
「あい済みません」と言える度量もないですね。
まさに師匠の高森顕徹氏がそうでしょう。

私は通ってきた道だから忠告めいたことも言った。
(それでも高森教学をまだ無批判に口にしたりはしないか、相当気をつける。
私自身まだある程度しかぬけてないですね、恥ずかしながら。)

その上でどうするかは清森氏次第、横から氏次第なんですから、
あとは「よくがんばってるね」「親鸞会の非人間的な仕打ちに同情します」
「これからの清森氏の活躍を応援しています」などとだけ言ってあげては。
尾をちぎれるほどふって喜んでもらえますよ、きっと。

糖尿病患者に砂糖を与えるようなもんですが (by 大沼法龍師)
組織批判の許されない親鸞会にあって、会員さんにちやほや
されることに慣れ切っているのかもしれないです。
親鸞会には、驚くほど「いい人」がいますから。
(親鸞会では、一般会員で講師を批判するのはやめる人だけです。
グチこぼす人ならあるでしょうが、批判はやめる気がないとできません。
講師のなかには批判されても「所詮は会をやめるヤツのたわごと」
としか受け止めてこなかった人もあるのでしょう。)

はじめて社会にでた 50 ぐらいのおっさんと、そのシンパさんが
厳しい批判(私は普通と思うが)にはじめて(?)ふれ、
そういう批判はもうごかんべんと言うんだから、
これ以上なに言ってもむだですよ。


コダマさんが自分と似た意見を言われていたので、
いくつか私も思うところを述べさせてもらったが、
やっぱりまだ清森氏とそのシンパさんたちは
親鸞会臭にまみれていることが確認できた。

清森氏とそのシンパさんへの意見は前回でおしまいで、
これは、コダマさんへしばしお別れの挨拶です。

この手の人たちへはもう沈黙して待つよりないです、私は。


南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛

No title

異常な感覚が親鸞会スタイルさん

悪いが何が言いたいのか分かりません。
私は、清森氏の謝罪は見ましたが、
あなたやコダマ氏の謝罪は一度も見たことがありません。

それにあなたは実名を晒して親鸞会を批判したり、仏教を語る勇気は
あるのかね?
安全地帯にいながら、人や組織を批判するのは誰でも出来ますが、
実名を晒した上で批判覚悟でブログを立ち上げるのは簡単ではありません。
私はそんなことは出来ませんが、清森さんはそれをやっています。

また、私は清森さんのシンパということになっていますが、
シンパってなんなんでしょうね。
私は親鸞会退会後、一度も清森さんにお会いしていません。
清森さんへの批判に対して、「それは違うんでないの」と言ったらシンパに
なりますか。なんて単純な思考回路なんでしょうか。

No title

>横からさん
どうやら不快なおもいにさせてしまったようで、すみませんでした。

>異常な感覚が親鸞会スタイルさん
お互い親鸞会では学ぶところがありましたね、失敗を今後の人生にいかしていきたいものです

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