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親鸞会教義の相対化・53


つづき

【p.119】
また、生まれながらの不平等や、一生不幸の境涯に泣く人々の存在を『新約』ではこう説明する。盲人に生まれた理由を尋ねた門弟に対し、「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神のわざの顕れん為なり」(ヨハネ伝)
と、イエスが答えているのだ。
盲人に生まれたのは神のしわざ、即ち罰だというのである。
だから、キリスト教では、自業自得という発想ができない。
悪いことに出くわすと、原因を他者に求める傾向がある。
★★★

聖書を正確に引用すると以下のようになっています。

====以下引用====
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
わたしたちは、わたしを遣わされた方の業を、まだ日があるうちに行わなければならない。だれも働くことができない夜が来る。わたしは、世にいる限り、世の光である」。

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で泥を作り、その泥を彼の両目に塗られた。
そして彼に言われた、「シロアム―遣わされたという意味―の池に行って洗いなさい」。そこで、その人は行って洗い、見えるようになって帰ってきた。
(ヨハネの福音書9章1-3節;新共同訳)
====以上引用====

確かに、現実に受けている不条理を「人間の自己責任である」と位置づける考え方は否定されています。

しかしこれは現実に受けている「不条理」を意味づけるための言葉であり、

「盲人に生まれたのは神のしわざ、即ち罰だというのである。」

というのは、聖書本文を変な所で切り取ったために起きた致命的な誤読で、

「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神のわざの顕れん為なり
(神の業がこの人に現れるためである。)

というのは、これからイエスが病を治す奇跡を行うため、という意味を持っていると思われます。

つまり、

「この人に罪があるわけでもなく、神が罰するために病気にしているわけでもなく、いまイエスが奇跡を起こすために、病で苦しんできた」

という文章と受け取るべきであって、「許し」の文章なのであって、それを「罰」と誤読したしまったのは、思想先行で文献を読んだ結果起きた結果だと思います。

さらにキリスト教においては、創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えていますので、渡部氏の批判は全く的外れです。

むしろ私は、このイエスの言葉に偉大な優しさと許しを感じています。私が聖書で最も好きな箇所を紹介しましょう。

====以下引用====
ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。
「神よ、わたしはほかの人のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」

ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った。
「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
(ルカの福音書18章10節~14節)
====以上引用====

ここで「取税人」というのは、ユダヤ人でありながら、ローマの指示に従って税金の取立てをする人で、ユダヤ人の間では、嘘つきで泥棒で売国奴だと言われ、忌み嫌われた人達です。

イエスは、パリサイ人ではなくて、その取税人こそが神の御心に適っていると言います。

このことに関して、井上先生は以下のように述べておられます。

====以下引用====
問題になるファリサイ派の態度は、これしかないでしょう。それは、「こんなダメな人間とは違うことを感謝します」という姿勢です。ファリサイ派には悲愛がないのです。
だから一人の人間に会ったとき、彼らにはまず、「モーセ律法」という尺度があるわけですが、それで人を測るわけです。
「お前はどのぐらいちゃんと守っているか、何だ六十点か。八十点以上はつきあってもいいけれど、六十点はだめだ。四十点は問題にならん」と言う。そういう生き方なんです。
その人がその日までどういう重荷を負って生きてきたか、どういう悲しみの涙を噛みしめてきたかということはどうだっていい。
とにかく、お前はちゃんとしているかどうか、ということで測って、切り捨てていく。
そのうちいちばん怖いのは、天に代わって不義を討つ、天に代わって人を裁いていくようになってしまうことです。
まるで背中に神さまを背負って、師範代のようになって「お前はダメ」とやっていく。

その姿勢の中に欠けているものが悲愛なのです。人に相手にされない落ちこぼれた人間の哀しみを映しとる心がないのです。
====以上引用====

井上神父は、ヨーロッパ留学中、聖書でこの場面を読んだ時に、キリスト者として生きてきた今までの自分が、実はイエスと一番対立してパリサイ人の生き方をしていた。そのことに気づき、自分のそれまでのキリスト道を転換されたそうですが、私も井上神父の本を読んだ時、知らず知らずにパリサイ人になっていた自分自身に、ものすごくショックを受けました。

「自業自得」という言葉でもって、現実に不条理で苦しむ人に対し「それは自己責任だからだ!」と自分の価値観でもって裁くような行為を行う人や、「俺が現在幸せなのは、これだけ良いことをしてきたから!」と驕るような人物は、仏教者ではなくパリサイ人です。

真のキリスト教は、パリサイ人よりも遥かに仏教者に近い存在です。

つづく
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