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親鸞会教義の相対化・54

つづき

第9章 信一念で仏教は哲学を超える

 この章は、本書で最も読み応えがあり内容も素晴らしい部分であ
ると思います。ハイデッガー哲学に基づいて現実世界を理解する部
分は明晰でわかりやすく、それを踏まえた上で、高森先生に信心決
定の宗教体験について疑問をぶつけた度胸やセンスも抜群だと思い
ました。

 あと、これはどうでもいいことなのかもしれませんが、もしも詳
しい事情をご存じの方がいたら教えていただけたらと思います。

 本書の「はじめに」に、「執筆にあたり、法友・明橋大二氏から
多大な助言をいただいた」(p.6)とあり、明橋氏が京都大学
の学生時代にハイデッガーに傾倒していたという話を聞いたことが
あるので、この部分はひょっとして、渡部さんではなくて明橋さん
が書いたのでしょうか?

  たとえばこの章には、このような鋭い文章があります。

【pp.221-224】
 人生の目的は死の解決である。ハイデッガーの言葉でいうなら、
根本において死の不安に繋がれた世界を脱却する、ということである。
 しかし、その為には、「存在可能性に関わりつつ生きる」という
在り方に、根本的な変革が起きねばならない。それは、単に信じ
る、とか、明るく生きる、とか、希望をもつ、とか、絶望する、と
かいうことではない。それらのものは、単なる存在可能性の一様態
であり、存在可能性に関わりつつ生きる、という在り方に根本的変
革が起こってこない限り、「死」という存在可能性に関わりつつ生
きる、という在り方にも変わりはないからである。
 それならば、結局、いくら劇的な体験だとしても、根本におい
て、死の不安からは脱却できておらず、死の解決とは到底言えない。
 一般の宗教体験といっても、結局それは、一つの特殊な存在可能
性が開かれたに止まり、存在可能性に関わりつつ生きる、という有
り方そのものには何の変革も起こってこない。それでは本当の死の
解決とは言えないのである。
 それでは、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に、
根本的変革が起こった場合、理論的にはどうような事態が予想され
るだろうか。それは、今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」
という有り方が、言わば根本から否定され、その後に新たな有り方
が、出現する、ということでなければならない。

 この「新たな有り方」というのは、既に哲学を超えた所に位置す
るもので、到底想像できるものではないだろう。
 しかし、今までの有り方が、根本から否定される、ということに
関しては、ある程度予想することが可能である。それは、少なくと
も、回りの世界の根本的変革を伴う。なぜなら、回りの世界が、現
在あるように見えているのは、今までの「存在可能性に関わりつつ
生きる」という有り方があるからこそだからである。少なくともそ
れは、「回りが真っ暗になった」とか、「回りがどうだったか覚え
ていない」とか、その程度のものである筈がない。なぜなら、そう
いう表現では、まだ机は机、椅子は椅子として見えているだろうか
ら。それは心理的投影のレベルにすぎない。
 その宗教体験の時、自分が変わるだけで、回りの世界が温存され
るなら、つまり机が机、椅子が椅子、として見えたままなら、それ
は真実の宗教体験ではない。机が机、椅子が椅子、として見えるの
は、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があればこそ
可能なのであり、そういう有り方は、根本において「死への存在」
だからである。
 そういう有り方に根本的変革が起きるなら、少なくとも一旦は、
机が机、椅子が椅子としてもはや見えない、という瞬間を通らねば
ならない筈だ。
 換言すれば、己の成立の根源と回りの世界の成立の根源は、同じ
ところにあり、(それは自らの存在可能性に関わりつつ生きる、と
いう有り方だが)自己の改革が、その根源から行われるならば、回
りの世界も、必ず同様に、様相を一変するに違いないということで
ある。己のみが変わって、回りの世界が大して変わらないような体
験は、自己の非常に浅いレベルの変革に過ぎず、到底、自己の根源
にある「死」という問題を解決したことにはなっていない。
 要するに、その宗教的体験のさなかに、回りの世界がどのように
見えるか、によって、その体験の深さをある程度推し量ることがで
きる。これが、ハイデッガーの哲学から導き出される結論である。
これが、宗教的体験を測るための物差しとして、今まで人類が作り
えた最も正確なものである、と言っていいだろう。
★ ★ ★

 それに対し渡部氏の、

「こんなものが神の愛、アガペというのなら、こちらから願い下
げ、アッカンベー。」(p.116)

というような品性の欠片もないような文章とが、同一人物の書いた
ものとは私にはとても思えませんでした。


つづく
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COMMENTS

No title

結局、このハイデッガーの所は『子育てハッピーアドバイス』の人だったの?

確かに渡部さんぽくない文だな。

No title

この章だけ渡部氏ではなく明橋氏が書いたのでは、という意見には深く首肯します。

私は何度か渡部氏の講演で「キリスト教文明の崩壊と仏教の時代」の内容を聞いたことがありますが、9章にあたる「信一念とハイデガー哲学」の部分のみ、妙に言葉が上ずっていてまるで、本人の身についてない印象を受けました。

渡部氏は表面的な理解の段階を深い理解と勘違いして、自信一杯で語る割には何か突込みがあるとまるで答えられない、という傾向があるように思います。私が参加した講演会でも、ある大学の哲学科の学生が質問していましたが、返ってきた答えはまるでその質問の内容すら理解できていないようなものでした。

No title

第9章は明橋医師の書かれたものです。顕真連載時の明橋医師の投稿です。

顕真108号より
 問題点を浮き彫りにされたご説法  医師  明橋大二
(前略)「煩悩と不定の念との違い」というテーマは、全参詣者にとって最も大切な教えであると同時に、渡部講師と私の書いた「キリスト教文明の崩壊と仏教の時代」(第9章)の根本的問題点を浮き彫りにして下さるものでした。あの原稿の、ハイデッガー哲学による宗教体験の理解、という方法は、実は京大文学部哲学科名誉教授、辻村公一氏の論文に基づいたもので、この人は西田幾多郎、田辺元をはじめとする、いわゆる「京都学派」の最後の生き残りと目されている人です。(中略)
さて、先日の原稿では「「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に根本的な変革が起きる」ことが、真の宗教体験に必須だとした上で、それを会長先生の「世界が破壊せられる」というお言葉に読み取り、さらに「前念命終」という親鸞聖人のお言葉、「娑婆のおわり臨終と思うべし」の覚如上人のお言葉を根拠として出しておりました。
しかしこれだと「「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に根本的な変革が起きる」
ことは、信心決定という体験と同一である。あるいは少なくとも、その一部をなす、と言っていることになります。
ところが、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方の本質は、よくよく考えてみると煩悩なのです。
そうすると、あの文章だと信心決定すると煩悩に根本的変革がおこる、という誤解を与えてしまう可能性があります。それを会長先生は、今回のご法話で徹底的にご指摘下さったのだと思います。(中略)
苦しみの本当の原因を表した言葉は、浄土真宗にしかありません。哲学にも、禅宗にさえも「不定の念」を表す言葉はありません。言葉がないということは、そもそも概念がないということです。
だから、哲学や禅宗の言葉でいくら苦しみの原因を語っても、結局それは煩悩以外にはなり得ない。その事を、今回のご説法でハッキリと教えて頂きました。(後略)
   

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