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親鸞会教義の相対化・55

つづき


【pp.225-227】
 阿弥陀仏に救い摂られることを、信心決定という。死も障りとならない無碍の一道に雄飛し、生きてよし死んでよしの絶対の幸福に生かされる身となる。
 人生の目的が、生きているただ今、完成する体験である。
 そこで、私の友人は、浄土真宗で説くこの信心決定という体験が真実か否かを確かめるため、一つの質問を用意した。一見、どういう意味があるのか分からない質問だが、実はこの中には、西洋哲学二千年の歴史が集約されているといっても過言ではない。
 それは、次のようなものであった。
「死ということを全然考えないうちは、回りの世界は、疑いようのない絶対の現実としか思えませんが、死を取り詰めてゆくと、回りの世界が紙芝居のように、虚仮であり、夢幻の世界というように見えてきます。では、信一念(信心決定した瞬間)、そして信後(信心決定した後)では、回りの世界は、それぞれどのように見え、あるいは感じられるでしょうか」
 ただの興味半分の質問では無論なかった。彼は、高森先生へのお手紙の中で、もしお答え頂けたなら自分は大学をやめてもいい、と書いていたという。
 高森先生は静かにお答えになった。
「信一念の時の、回りの世界の見え方は、世界が破壊せられる感じです。
その一念の時、世界は一心に収まる。自もなく他もなく、全くの個になる。
そしてそれがそのまま地獄に堕ちるのです」
 彼が、
「世界全てが自分の心になって、それ全体が地獄に堕ちる、ということですか」
と尋ねると、
「そうです。それがいつも私が火だるまになって、地獄に堕ちる、などと表現している体験です」
 さらに続けて、
「信後は、信前(信心決定する前)とは違った意味で絶対疑いえない現実となります。信前思っているのは、本当の絶対ではありません」
と仰有った。


【pp.237-241】
 信一念の体験は、明かにニヒリズムを超えている。
 そしてそれは、この世でただ一つ、浄土真宗でしか得られぬ真実の体験なのである。
 高森先生は仰有る。
「浄土真宗には、臨終が二度ある」と。
 二度の臨終とは、心の臨終と肉体の臨終のことである。
 阿弥陀仏の本願を信じ切れた一念に、我々の魂は一度死ぬのである。そして同時に生き返る。それが弥陀の救いなのだ。
 聖人はそれを『愚禿鈔』に、
「信受本願前念命終即得往生後念即生」
と仰有っている。
 弥陀の本願を信受する前念に一度、命が終わる。この命とは無始より流転を重ねてきた自力の心であり、不安な魂のことである。その自力の迷心が、阿弥陀仏の名号利剣によって、一念で殺されてしまう。まさに迷いの打ち止めがなされるのだ。
 覚如上人は、これを、
「平生のとき、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって、娑婆のおわり、臨終と思うべし」(執持鈔)
と喝破なされた。
 大死一番、如来の願力によって、魂の臨終を突破させられた時に、初めて「即得往生後念即生」と、身も心も南無阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して生まれ変わるのである。死んでよし、生きてよし、心は浄土にすみ遊ぶの心境は、この体験をして初めて味わわれる。
 その心境から見える回りの世界を高森先生は、
「信後は、信前とは違った意味で、絶対疑い得ない現実となります。信前思っているのは、本当の絶対ではありません」
と仰ったのだ。
 絶対が知らされて、相対がわかる。
 ホンモノが知らされて、ニセモノがわかる。
 夢からさめて、ああ、夢であったと気づく。
「世間虚仮唯仏是真」(聖徳太子)
「火宅無常の世界は、よろづのこと皆もって空事たわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄)
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証後序)
 いずれもいずれも、仏法まこと、本願まことの鮮やかな告白である。
「慶しきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」(教行信証後序)
「獲信見敬大慶喜」(正信偈)
「うれしさを昔は袖につつみけり、今宵は身にも余りぬるかな」
(御文章)
 苦悩渦巻く人生が、光明輝く無碍の世界に転じかわった踊躍歓喜があふれているではないか。
 人生究極の目的は、仏法にこそある。しかもそれは、信一念で達成される。
 西洋哲学をはるかに凌駕する真実の体験、信心決定こそが、死もさわりとならぬ世界に雄飛し、絶対の幸福を獲得する唯一無二の体験なのである。
★★★

 私は、高森先生のこの言葉が信仰体験を踏まえたものであることを否定しません。 したがって、高森先生が信仰体験をされたということも否定しません。

 また、高森先生が死後の救い以上に、現世での救いを強調してお説きになられていることに関しては、基本的に賛同しておりますし、「信一念」の信仰体験を鮮明に語っておられるのは称賛に値すると思っております。

 死後の救いだけを説き、現実から眼を背け自助努力を自らも行わず、他にも勧めない浄土門の人間よりは、遥かに優れていると思っております。

 ただしこの体験は、一つの信仰体系における未曽有の体験であることは事実でありますが、それは「浄土真宗」という枠組みの中に限らず、もっと一般化されえるものではないかと考えております。

 そのことについて、述べてみたいと思います。

つづく
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