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親鸞会教義の相対化・56

つづき

まず、私が親しくさせて頂いているキリスト者の方が教えてくださった詩を紹介させていただきます。

===以下引用===
「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために、
おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずじていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何も出来なくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何も出来ない。
けれども、最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よわが友よわれなんじを見捨てじ」と。

(ヘルマン・ホイヴェルス「人生の秋に」より)
===以上引用===

 その方は、亡くなった教会の友人の葬儀で、以前送ったこの詩を、弔辞に読み上げたそうです。

 友人の方は、筋萎縮性硬化症で、医者から余命を宣告されて、毎日カウントダウンしながら、ベッドと車椅子の生活で一日一日を大切に生きておられたそうです。
 動く腕は片方のみで、PC入力も指一本で一つ一つ行わなければならず、たった三行の文章も、キーを120回も打たなければならなかったそうです。

 その友人の方に、「元気になって、草花の咲く草原を、いつか自分の足で歩いてみたいですか?」と牧使が語り掛けたそうですが、その友人の方は、

「いいえ。あの小さな私の部屋の空間が、私の信仰の場所であり、神の祝福で満たされており、満足であります。」

と答えられたそうです。

 私は、仏教者であり、キリスト教を信仰しているわけではありませんので、実際に体験してもいないキリスト教の信仰体験を論ずる資格はありません。

 したがって、浄土門における「信心決定」と、キリスト教における所謂「回心」とを、安易に同一視するつもりもありません。

 しかし、キリスト教を信じることによって、こうして生きている時に、絶対的な存在に身をゆだね揺るぎない境地に達することができることを身を持って示している人がいる以上、

「西洋哲学をはるかに凌駕する真実の体験、信心決定こそが、死もさわりとならぬ世界に雄飛し、絶対の幸福を獲得する唯一無二の体験なのである。」

ということを、キリスト教に関して深く知りもせず、実際にキリスト教を信じてもいない人物が、軽はずみに言うべきではない。

 少なくともこれだけは言えるのではないかと思っております。


つづく
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