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親鸞会教義の相対化・57

つづき


 以下に、友人から教えて頂いたものを転載させていただきます。

 友人は以下の考察から、

・根源的決定に対応する宗教体験は、たしかに世界の宗教の中では極めて稀だが、少なくともバルトや滝沢克己の本を読む限り、キリスト教には同様のものがあると言わざるを得ない。

と結論づけておられ、私もそれに全面的に賛同します。


===以下引用===
 滝沢克己の論文「浄土真宗とキリスト教カール・バルトの脚注に寄せて」(『浄土真宗とキリスト教』(法蔵館)所収)が、一番詳しくそこらへんを書いている文章なのですが、

 滝沢がまとめるには、バルトの説く内容というのは、

「イエス・キリスト」という名を口にするとき、バルトが見つめているのは、

・私たち人間の一切の思い・あらゆる働きからまったく独立に、真にそれ自身で在りかく活きている「何ものか」である。

・この不可見不可思議な何ものかは、一切の資格を問わず、その人が好むか否か、認めるか否かに関係せず、人間の事実存在するところには、必ずそれとして実在する。

・この根源的な関係は、あらゆる関係の変化によっても失われることのない、真実確かな人生そのものの基点、生命の基盤であり、この実在する無償・無限の恵みを己が身のうえに映すところ、絶対無条件のその生命の促しに乗って精一杯活動するところに、はじめて人間としての善き働きも美もある。

・この順序は、不可逆の絶対の関係である。この一事を抜かして、いかなる人間関係も本当に尊重することはできない。この唯一の根源的関係にひたすら忠実に活きることは、それに基づきそこから派生する諸物・諸人の関係を、それとして大切に扱うことになる。

・全人生・全歴史の根底に臨在するこのロゴスに目ざめる時、私たちは、自分がこれまで、この根源的関係に、まったく盲目だったことに、大いなる驚きと畏れをもって告白せざるをえない。

・しかし、この私が、私によることなしに、ただ私の罪を赦して新しく生きることを許しかつ促す恵みの言に乗って生きることが生起する時、そのあたらしい生は、おのずから、己を含めて、人間の世界に跳梁する虚しきものの誘い=罪そのものの結果として、この世界に現れてくる一切の動き・形に対する根強い闘い、限りなく優しく、しかも激しい闘いなる。

というものだそうです。

で、こんな主張をしているバルト自身が、『教会教義学』という著作の長い脚注の中で、世界の宗教の中で、ただキリスト教と浄土宗・浄土真宗の二つの宗教のみが、驚くべき平行関係にあり、この根源的関係を見つめていると言っているそうです。(そこそこいい線をいっているものとして、ヒンドゥー教のバクティ派をあげていますが、この二つほどではないとしています。)

 ただ、バルトが、最終的には浄土宗・浄土真宗への知識の乏しさと誤解から、キリスト教のみを唯一の真の宗教としているのに対し、

 滝沢克己は、バルトの誤りを批判して、宗教として、実存の人の真実の救い、究極始原の基礎もしくは目標にかかわる人間的応答として、本質的な諸点に関する限り、キリスト教と浄土教のあいだに、いかなる矛盾もないとしています。

 私は、以上の見解に、全面的に賛成しています。

===以上引用===

 渡部氏も、仏教・浄土真宗の立場からキリスト教を論ずるのであれば、ぜひともこの論文を読んでおくべきだったのではないかと思いました。

つづく
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COMMENTS

知ったかぶりの知識を垂れ流して無知をさらけ出すのが一番恥ずかしい。

人の批判をするなら、批判対象を正確に把握するのが先決だ。

会長の高森氏もそうだが、それが全然できてない。

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