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親鸞会教義の相対化・58

つづき


実際に信仰していない私が、キリスト教を信仰して獲得される境地を語ることはできませんので、代わりに私が最も尊敬するキリスト者である井上神父の言葉を紹介させて頂きます。

===以下引用===
フランクルによれば、どんなにひどい苦しみであっても、それが本当に愛する人のためになっている、本当に何かの役に立っていると思ったとき、私たちはそれを一生懸命背負っていくことができるので、それが失われてしまったら私たちは足もとを完全にさらわれてしまうという事態に直面することになるわけです。
『夜と霧』の第八章は「絶望との戦い」という題名がつけられていますが、この章が何といってもこの本のクライマックスではないでしょうか。
ある夜、もうどうしても自殺したいという人たちを思いとどまらせるために、囚人代表がフランクルに何か話をしてやってくれ、とたのむ場面です。
このときのフランクルの話がまことに素晴らしく、およそ次のような内容のことを彼は語ったのです。


“わたしたちは、殆ど全員この収容所で死んでいくこととなるだろう。
これから私たちを待ち受けているものは、発疹チフスによる死か、過労による死か、ガス室での死か、いずれにしてもいま一度外の空気がすえるということはまずないと考えなければならないだろう。
私たちの人生は、これからの何日間かの苦しみの後に、この収容所で終わるだろう。
それなら、その死までの何日間かの人生に一体何の意味があるのか。
どうせ死ぬならそんな何日間かの無意味な苦しみはやめにして、一刻も早く死んだ方がいいと考えている人たちがあなた方の中にいることを私は知っている。
またそこまでいかないまでも、自暴自棄になり、絶望的になっている人も多いだろう。
しかしそれは、あなたたちが、死ぬまでの苦しみの人生のなかから、何をまだ得ることができるか、というふうに発想しているからいけないのでだ。
そうではない、視点を転換することが必要なのだ。これからの苦しみの人生から何を期待できるか、という視点をやめて、人生がこれからあなたたちの生涯に何を期待しているのか、という視点に立つことが肝要なのだ。
大げさにいえば、精神世界のコペルニクス的転換が必要なのだ。
この視点の転換をできた人が、死にむかっての苦しみの中にも、なおかつその意味を見つけることができる人であり、その苦しみを前向きに背負って生きていくことのできる人なのだ”


私はこのフランクルの言葉に接したとき、深い感動を覚えました。
視点のコペルニクス的転換。フランクルが、あの真暗闇の、飢えと拷問と疲労と汚物にみちた夜の収容所の一室で語っていることこそ、まさに宗教の世界そのものだからであります。


このフランクルの話を、私なりに、カトリックの司祭として説明させて頂けば、もし【私たちが何かをする】というのが人生であれば、寝たきりになるとか、人の厄介にならなければ毎日の生活もうまくできないとかいうことになれば、人生はもはや無意味だということになってしまうでしょう。
そうなれば、次第に衰えていく視力、聴力、脚力のうちに、ひそかに忍びよってくる死の足音を前にしての孤独と寂寥の苦しみとに、フランクルが指摘するように、人は到底前向きに耐えていけるはずもないでしょう。
けれども問題はそうではなくて、私たちの人生というものは、私たちが何かをし、それによって私たち自身を表現するものではなくて、神が―神という言葉がお嫌いな方は、私たちをささえている大自然の生命と受けとめてくださっても結構なのですが―【私たちの生涯において己自身を表現させるものだ】、ということなのであります。私はここに宗教の世界の核心というものがあると思っております。


病気になったら、特に自分の子供が病気になったりしたら、何とかして治して頂きたいと願うのは人情として当たり前のことであります。
元旦には実にたくさんの方が初詣をなさいますが、それらのかたがたが元旦に心を一新し、きれいにしてから、あらためて家族の幸せや商売の繁盛を祈願するということも、たいへん美しいことだと思っております。
ただしかし、私は、それは宗教の世界―少しではありますけれど、その世界を生きてきた者として申させて頂きますと―宗教の世界の、何と申しましょうか、あまりいい言葉ではないかもしれませんが、私流の言葉を使わせていただけば、宗教の世界のまだ主体的段階であると思います。
主体的段階とはどういうことかと申しますと、たとえ自分のためではなく人のためであったとしても、何らかの形で、自分がそうなってほしいということをお願いする、願いごとの段階であります。
御利益をお願いしている段階といってもいいかもしれません。
ですから非常に極端ないい方をすれば、神さま仏さまを自分の願いごとに従わせようとしている段階であります。
私はこれを一応主体的段階というふうによばせて頂いているわけであります。
ところがフランクルがいったような、視点が転換した段階は、―私は一応これを主体的段階と区別して逆主体的段階とよばせていただいているのですが―自分がこうなりたい、こうして欲しいという世界ではなく、【あちら様が主になって自分が従になる】世界であります。
そしてこれこそが、学問とも芸術とも、そして道徳とも異なる宗教固有の世界であると私は思っているのであります。


もちろん逆主体的段階になりきるなどということは至難の業でありますが、しかし一度この逆主体的段階を体験するということは、とにかく核心的な宗教体験を持ったということであり、行きつもどりつしていても、決して未体験のときと全く同じになってしまうということはないであろうと思います。
それはどんなに烈しく、長くゆれていても、磁石の針はさいごには北を指してとまるというようなものであろうと思います。


もしお金を一番大切なものとして生きていれば、事業に失敗してスッテンテンになってしまったときには、もはや生きていく元気もなくなってしまうでしょう。
健康だけがすべてであれば、年をとって寝たきりになったり、あと何ヶ月の命だと宣言されたりしたら、もはや生きていく意味がなくなってしまうでしょう。
けれども、そういう価値がうばわれてしまい、全く色あせてしまったようなときでも、その自分を本当に受け入れ、意義づけ、生かしめるのは、そういう逆主体的段階の生き方であって、その意味で、この世界を生きるということが人生では一番大切なことなのではないかと思うのです。


色あせた自分を受け入れることのできる人が、初めて、色あせてしまった隣の人をあたたかく受け入れることのできる人だからです。

井上洋治著『人はなぜ生きるのか』(講談社)pp.13-17
===以上引用===

 繰り返しますが、私は浄土門で言う「信心決定」とキリスト教の「回心」が同じものであるとか、浄土門の「他力」と井上神父が「逆主体的段階の生き方」と言ったものが同じであるとか、そのようなことを言うつもりはありません。

 しかし、この井上神父というキリスト者の言葉を読ませていただいたならば、

【pp.84-85】
確かにキリスト教によれば、この世の禍福はすべて神から与えられた運命であり、たとえそれが苦しく、つらいものであっても試練として耐え忍ぶことが「神のみ心」であるという。それがまた、来るべき最後の審判で永遠の救いにあずかる条件なのだ、と。
ハッキリ言うと、「この世はガマンして生きてゆけ。死んだらお助け」の教義である。
★★★

という渡部氏の言葉が極めて不当なものであることは、明かであると言えます。

 もしも清森問答をご覧の方で、渡部氏の本書を通してキリスト教をわかったつもりになり、本書の受け売りでキリスト教を批判している方がいるならば、とても恥ずかしいことなのでやめるように忠告させていただきます。


つづく
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COMMENTS

No title

渡部氏の件の著作は、会内でもあまり読まれていませんし、ましてやその内容を真面目に受け取っている人も限られます。

ただキリスト教が『ハッキリ言うと、「この世はガマンして生きてゆけ。死んだらお助け」の教義である。』という意見については、確かに親鸞会の中ではよく語られている事です。

私は親鸞会に入る前に少しばかりキリスト教の勉強をしていたのですが、すぐに親鸞会の中で語られているキリスト教の見方は、少々浅はか過ぎるのではないかと思いました。そうした疑問を講師にぶつけたこともあります。しかし、そのうちそんなことはどうでも良くなってしまいました。親鸞会で教えられることが唯一の真実だとあまりに思い込んでしまったがゆえに、相対的にキリスト教に関する関心がなくなってしまったのです。

おそらく、自分と同じような思いをした人は少なくないはずです。

No title

キリスト教もそうですが、特に哲学の歴史について、この本でずいぶんと知ったかになっていました。渡部講師はこの本の内容を2時間ぐらいかけて、おもしろおかしく、ちゃかしたりしながら話をしてくれました。自分も含めて学生部の人は、すごい話を聞いたと興奮したものです。

今度は、伊藤健太郎さんの「人生論対話」の感想を聞かせていただきたいです。
親鸞会著書の中では、良い本だと思うのですが...。

No title

エントリの最初にコメントした者です。

>今度は、伊藤健太郎さんの「人生論対話」の感想を聞かせていただきたいです。

あの本は渡部氏の本とは比較にならないでしょう。著者の伊藤氏は東京大学大学院で科学哲学を学んだ人で、博士課程後期まで進んでいるはずです。私は渡部氏の本からは何の感銘も受けませんでしたが(恥ずかしい本だとは思いましたが)、「人生論対話」は一気に読み感銘を受けました。

この本を論ずるだけの知識は残念ながら自分にはありません。是非このブログで取り上げてほしいと思います。

伊藤氏は今度こんな本を出すそうです。
http://www.10000nen.com/book/jibun/jibun.htm

ただ、この本の草稿を読みましたが、内容的には「人生論対話」にはまったく及ばない、かなりくだらない内容に思えました。大衆には受けるかもしれません。私はお金を出してまで買う本ではないと思います。(とはいえ、たぶん買うと思いますが)

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