スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

親鸞会教義の相対化・59

つづき


【pp.116-117】
神の愛は巨大なエゴ

 結論から言うと、神の愛とは、自分勝手な人間のエゴイズムを巨大化させたものに他ならない。愛憎一如そのままに、裏切られた時の仕打ちたるや、想像を絶する残虐さである。
 アラビヤという苛酷な自然風土の中で、徹底的に苦しい生活を強いられた古代ユダヤ民族が、天地万物を見て、あたかも大工が家屋や道具を造るように、偉大な神があって、それらを創ったのだろう、そして一切を支配しているのだろうと想像し、一切の不幸や災難も、神の罰として恐れたのも一応無理からぬことである。
★★★


井上神父が書かれたキリスト教の入門書には以下のように書かれています。

===以下引用===
 ユダヤ教の中心は、紀元前千二百年頃、神ヤハウェがシナイ山頂でモーセという指導者を通してあたえた、いわゆるトーラーと呼ばれるモーセ律法の遵守にあります。シナイ山という山が何処にあるかは、幾つかの候補地があがっていて現在もまだ決定的には特定されていませんが、いずれにしても強烈な光と影の砂漠の只中に位置していることは疑う余地はありません。
 その意味ではユダヤ教は典型的な【砂漠の宗教】であり、従って神ヤハウェは、「言うことをきく者にはゆたかな祝福を、言うことをきかない者にはきわめて厳しい罰を」という父性原理の強い神なのです。『旧約聖書』の中の『出エジプト記』二〇章には、律法をあたえるにさいして、次のような厳しい神ヤハウェの言葉がのっています。

「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」

 この父性原理の極めて強い、砂漠の宗教であるユダヤ教の神に対して、イエスの説いた神は、むしろ母性原理の強い神でした。この神の悲愛(アガペー)は売春婦の罪を責めるおりも先にまず受け入れて一緒に食事をし、自分を裏切る弟子たちをもゆるすイエスの姿勢に如実に示されています。
 『ルカによる福音書』十五章には、売春婦などと一緒に食事をとることをユダヤ教の人たちから非難されたイエスが、その答弁として語った二つのたとえ話がのっています。
 一つは、九十九匹の羊を野原に残しておいて、迷った一匹の羊を探し求める羊飼いのたとえ話で、神は、このように迷ってしまっている、悲しく重い人生を歩んでいる人を決して見捨てることなく、どこまでも探してくださる神なのだ、というのです。
 いま一つは、ふつう「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれているたとえ話です。
 ある人に二人の息子があったのですが、長男はちょんと父親を手伝って真面目に働くのに、働くのがいやになった次男は、財産の分け前をもらって旅にでてしまいます。しかし酒と女で金を使いつくしてしまい、どうしようもなくなって、父のもとに帰ってきます。
 息子が帰ってきたのを遠くから見つけた父親は、家から飛びだしていき、その放蕩息子を家に迎え入れたというのです。神はこの放蕩息子を迎える父親のような方なのだ、だから私は売春婦などを迎え入れて食事をしているのだ、というのがイエスの答弁だったわけです。
 売春婦にしろ、このたとえ話の中の放蕩息子にしろ、彼らが改心するよりまえに、まず神もイエスも、これらの人を受けて入れていることに注意する必要があります。
 ゆるしが先で改心があとなのです。このイエスの神のとらえ方はイエスがこの上なく湖を好んでいたこと、イエスの重要な直弟子たちの多くが湖の幸でやしなわれた漁師たちであったことにも大きな遠因があるのかもしれません。その意味では、ユダヤ教が典型的な「砂漠の宗教」であるのに対し、キリスト教は「湖の宗教」であると言えましょう。

井上洋治著『キリスト教がよくわかる本』(PHP出版)pp.56-57
===以上引用===

『旧約聖書』の神と『新約聖書』の神との違い。
ユダヤ教とキリスト教の違い。

・・これは、どのようなキリスト教の入門書にも書かれている内容ではないかと思います。

 渡部氏は、それすらもご存じなかったようです。


つづく
スポンサーサイト

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。