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親鸞会教義の相対化・60


つづき


 それから、キリスト教における「利他」の問題に関しても、少し述べておきたいと思います。

『新約聖書』には以下の記述があります。

===以下引用===
「一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコへの道で強盗におそわれ、半死半生で道ばたに倒れていた。そこに一人の祭司が通りかかったが、かかわりあいになるのがいやだったのか、死人にさわると汚れるという「モーセ律法」に忠実たらんとしたのか、とにかく見ぬふりをして通りすぎていってしまった。しばらくして、エルサレムの神殿でいろいろな雑用の任にあたっているレビ人の一人が通りかかったが、彼も道の反対側を通りすぎていってしまった。そのあと三番目に、一人のサマリア人が通りかかった。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、ふだんは道で出会っても挨拶もしないというふうで、ユダヤ人はサマリヤ人を外国人同様に見なしていたが、そのサマリヤ人は倒れていたユダヤ人を見て可哀相に思い、会報して、宿屋までとどけ、宿代まで払ってやった。」
ここまで話してから、師は律法学者にきかれたのである。
「あなたはこの三人のなかで、誰が強盗に遭って倒れていた人の隣人になったと思うか。」
「彼を憐れんで助けた第三番目のサマリヤ人だと思う」という彼の返事をきいてから、師は言われたのである。
「ではあなたも彼と同じようにしなさい。」
(ルカによる福音書10章25節~36節)
===以上引用===

 これは、「隣人を愛しなさい」という教えを説いていたイエスに、律法学者が問い掛けた「どのようにして、隣人だと、明らかにできるのか?」という問いに対する、イエスの喩え話です。

「サマリア人」とは、イスラエル人と、アッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々とその子孫で、混血の人であり、ユダヤ人によって差別され、口も聞いてもらえなかったような存在です。

 イエスは、この喩え話をするのに、あえてこの「サマリヤ人」を主人公にしました。そして、差別され忌み嫌われている人の中にも、神の愛が生きており、相手が誰であり、自分を必要としている人の隣人になるように勧めるように教えたのです。

 そしてイエスが「隣人を愛しなさい」と述べたのは、それが天国へ行くための条件であるからではなく、「神が愛してくださった」ことに対する「報恩」であり、それは「エゴイズム」とは全く異なったものです。

 井上神父は、自らの求道の遍歴を綴った『余白の旅』で以下のように述べておられます。

===以下引用===
 私は更にアガペーについて考えさせられる、ある機会に出会ったのである。それはいつものように、鞄を片手にさげて大学から修道院に帰る途中のことであった。一緒に歩いていたスイスの友人が、次ぎのようなことを私に話してくれたのである。それは修道女(シスター)たちが経営しているある病院から、国立病院へと移っていったある患者の話であった。

「シスターたちは本当に親切にあなたたちの世話をしていると思うのに、どうして国立病院などに移りたいのか」
という友人の質問に対して、彼はこう答えたというのである。
「この病院には愛がない。確かにシスターたちはよく面倒をみてくれる。しかしシスターたちがよく面倒をみてくれるのは、私たちを大切にしていてくれるからではなくて、彼女たちが天国に宝を貯えるためなんだ。私は彼女たちの天国行きの梯子にはなりたくない。」

 この話は私たちに大きな問題を投げかけた。確かにその病人はひねくれているには違いない。しかし、もしもシスターたちが天国に宝をつむために奉仕しているのだとしたら、彼のいうことにも一理があるのではないか。たとえそれがどんな高尚な目的であったにせよ、よしんば天国に宝をつむことであれ、その人をキリスト教に改宗させることであれ、悲愛(アガペー)というのは、その人の心をかけがえのないものとして大切にすること以外に他の目的や意図をもって決してなされてはならないものなのではないのだろうか。他人の思いを受け入れ、感じとるというイエスのアガペーの姿勢の難しさと大切さというものを、私はこの問題からしっかりと心にたたきこまれたように思うのである。

 他人から親切を受ける身の立場になってみれば、その人が本当に自分のことを思ってしてくれているということに、人間としての喜びを感じるはずである。たとえそれがどんなに高尚な目的であろうと、神様のためということであろうと、それは意識されていてはならないものではないか。受ける側からすれば、それはあくまでも自分を手段としてその人自身の別の目的を達成しようとしているふうにうつるのではないか。そうであれば、誰しも人間としてやはり傷つくに違いない。そしてその不愉快さと傷は、皮肉なことに、その親切や奉仕の度合いが大きければ大きいほど深くなっていくもののように思えるのである。

 アガペーは、自(おのずか)らなるものであり無心からのものでなければならない。もしもこれが私たちにとって至難のわざであるならば、むしろ素直に自分のためのわざであることを認めた方が、相手は傷つくことが少ないのではなかろうか。
(井上洋治『余白の旅思索のあと』日本基督教団出版局pp.
98-100)
===以上引用===

 私は、井上神父というキリスト教者の言葉に、非常に考えさせられ大きな感銘を受けました。

 一方、「これだけよいことをすれば、これだけのよいことがある」というような言い方で「善」を勧め、しかもその「善」を行うことによって、一定のポイントを貯めないと阿弥陀仏の救いを得られないかのように教える「教え」があるとすれば、 その「教え」こそが「自分勝手な人間のエゴイズムを巨大化させたもの」だと私は思っています。

 渡部氏が批判したキリスト教と渡部氏自身が所属する団体、どちらが「自分勝手な人間のエゴイズムを巨大化させた」ものを教えているか?

 清森問答の読者の皆様一人一人が、じっくり考えて判断していただきたいと思います。


つづく
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