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親鸞会教義の相対化・61


つづき


 以上、『キリスト教文明の崩壊と仏教の時代』を相対化させていただきました。

 私見ですが、渡部氏は、

「浄土真宗の教えこそが全人類が救われる唯一無二の妙法なのだ」
「高森先生だけが本当の親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏の本願の真意を明かにしている」

という思想を先行させて、資料を恣意的に読んでしまっているために、これほど不当なキリスト教理解を行うことになってしまったのだと思います。



 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して他の説を蔑視し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、―かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

 たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。(896)


 これは、以前紹介させて頂いた『スッタニパータ』の釈尊の言葉です。これらのスッタニパータの言葉から顧みて、渡部氏が行ったキリスト教への批判ははたして仏教徒としてふさわしい振る舞いだったと言えるでしょうか?
 甚だ疑問であると私は思っております。

 それでも個人の信仰は自由です。したがって渡部氏や本書に影響を受けた方が本書に書かれた内容を相対化せずドグマ化していくこともまた自由です。

 しかし、もしも「仏教者」を自称するのであれば、上記の釈尊の言葉に沿っているか常に自己を内に省みるべきだと思います。
 また、法然上人の七箇条起請文も、釈尊のスッタニパータと同様の精神に貫かれた文章です。親鸞聖人御自身も七箇条起請文には署名されています。
 相手のことをよく学び知ることなしに批判することは、どう考えても、仏教徒としてまた念仏者として厳に慎むべきことであると言わざるを得ない、というのが私の率直な感想です。


 なお、今回、同じく親鸞会関係の以下の本も同時に読ませて頂きました。

★浅倉保著『かくて私は人生の目的を知った』

 この本も渡部氏の本と同じように、最終的に、「親鸞聖人の教え」「浄土真宗」の教えに「人生の目的」を見出していきますし、高森先生の教えを絶対視しているものではあります。

 それに、「哲学・文学・宗教の分野で、より多くの著名な人が親鸞聖人を高く評価している」という「統計的結論」(?)に基づいて親鸞聖人を選ぶというプロセスに関しては、少々問題があると思います。
 高山樗牛や宮沢賢治は存在が無視されていましたし、浅倉氏が親鸞聖人の信奉者にカウントしていた内村鑑三が『代表的日本人』で日蓮聖人を取り上げ、非常に高い評価をしているのは有名な話です。

 しかし浅倉氏の本には、少なくとも先行する思想による資料の恣意的な解釈というのはありませんでした。
 それにこの本は、浅倉氏が自分で模索して答えとなる道筋を見出していった過程が綴られたものであり、浅倉氏自身の感動を伝えるという純粋な動機で書かれています。
 故に、細かい問題はともかく、同じ仏教者として心動かされ、共感できる部分が沢山ありました。

 最後にそのことをお伝えしておきたいと思います。


以上
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COMMENTS

No title

「高森先生だけが本当の親鸞聖人のみ教え、阿弥陀仏の本願の真意を明かにしている」

私もこのようにずっと思い込んでいました。

だからこそ、親鸞会に対する疑問や反感があったとしても、
阿弥陀仏、親鸞聖人がそうしなさいと仰られるなら、疑問は持たず、従いたい。と思っていました。

親鸞会で勧められること=阿弥陀仏、親鸞聖人の御心

という方程式がどうしても拭えませんでした。

その思い込みがいかに危ないか、このサイトを通して知ることが出来ました。ありがとうございました。

親鸞会にいた頃は、本願寺、キリスト教と言ったら、とんでもないおかしいもの、としか思えませんでしたが、それも思い込みであったと知らされ、自分が情けないです・・・

No title

非常に参考になりました。井上牧師からカール・バルトまでよくキリスト教の教義を勉強しておられると思いました。

私は渡部氏の件の著作は殆ど取るに足らないものだと思っていましたが、こうして細やかにその内容を論じていただけると、親鸞会のドグマにとらわれた人がどういう思考の隘路に陥るのかという典型的なケースのひとつであり、またカルト研究の一助にもなると思います。

私ももう一度、渡部氏のこの著作を読んでみようと思います。
それにしても、捨ててなければいいんだけどなぁ。

浅倉氏の「かくて私は…」は名作ですね。途中確かに変なところもありますが、青年の純粋で正直な思いが感じ取れて私は好きです。しかし浅倉氏には昨年会ったのですが、なんだか昔に比べて情熱が随分薄れているように思いました。

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