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投稿

現役会員の方からの投稿です。

         *         *         *

 お忙しい中、詳しいご回答、まことに有難うございます。非常に長文になって申し訳ありませんが、清森さん上田さんに今まで聞かせて頂いた事を今回の質問に対するご回答で、自分なりに理解をまとめてみました。

 もし間違った理解があればご指摘いただけると大変ありがたいです。

 仏法をお伝えする活動で苦しいと感じたのは、正しい仏法を伝えていたかどうかという前に、仏法を実践していなかったということが分かりました。

 私の場合は、苦しいと感じた原因に、相手に押し付けることと納得できなくてもやっていたことが大きいと思いました。

 相手が明らかにあまり関心がなくても、ここで伝えられなければ、相手を地獄に堕としてしまう、相手にとっては、一生に一度のチャンスなんだという脅迫観念で強引に押し付けざるを得ませんでした。

 その結果、断られると、自分の力不足によって相手を地獄に堕としてしまったという罪悪感と、自分が真実だと思って聞いてきたことが、相手に分かってもらえなかったということによって、自分の思想・全人格が他人に否定されていると思い、本当に今聞いていることは真実なのだろうか、という喪失感とで苦しみを感じました。

 また、清森さんが「納得できないことはやらない」と言われていることと、ちょっと違う意味かもしれませんが、もし、親鸞会で聞いている仏法が真実だと思ったら、何も新勧という機会がなくても自ら進んで他人に伝えると思います。よく言われる、おいしいそば屋のたとえの通り、言わずにはおれなくなると思います。

 そういう人もまれにおられましたが、何かの機会がないとやらないということは、まだ納得していない部分があるからだと思います。それでも他人に伝えるままが自分に伝えることになり、十分に納得していなくても、他人に伝えることによって納得していくのだからやりなさい、と言われてきましたので、まだ自ら進んで他人にお伝えしようというところまで納得していなくても、無理に勧誘していました。

 それが苦しみを感じた原因なのかもしれません。

 それにお伝えしている内容自体も、この世は無常で、すべての人は悪ばかりやっているから、死んだら無間地獄だ、それを回避するには信心決定するしか道がないという、相手を幸せにするどころか、失望感と脅迫観念を与えるものですから、聞いた人の多くは喜べるはずがありません。
 
 もちろん、最初は死んだら地獄だから、仏法を聞きなさいとは言わず、仏法には絶対の幸福があるという導入の仕方ですが、根底には地獄を回避するために絶対の幸福になりなさいというものがあります。
  
 真実はそういう面もあると思いますが、親鸞会の教え方だと仏法を聞く目的は地獄を回避するためだけになり、絶対の幸福というなれるか分からない未来の幸せを求めるためだけになってしまいます。
 
 親鸞会では現在の一念が大事で、死んだら仏ではなく、現生不退、平生業成だと現在を強調しますが、信心決定は40年以上はかかるそうですし、それに、今の苦しみは、後生の苦しみから比べるとほんのチョイのことで、絶対の幸福になる為には世間で言われる相対の幸福を得るよりも努力しなければなれません。ですので、苦しい道なのは当たり前だということで話は終わり、先の地獄・先の絶対の幸福ばかりに目が向いていて、実際は、現在のことをあまり問題にしていないように思います。

 ところが、清森さん上田さんから仏法を聞かせていただいていると、今から幸せになるのが仏法だというように分かってきました。上田さんのご説法を聞かせていただくと、どうすれば今の苦しみが減り、今から幸せになるかということが大半です。お釈迦さまも浄土三部経を説かれるまで、今の苦しみをなくし、幸せになる方法を長い年月をかけられて話してこられたとお聞きしました。

 親鸞会では、横の線の軌道に乗せるために因果の道理を説かれたと教えられますが、いつも、阿弥陀仏の本願という目的地ばかり話され、道程はほとんど話されないように思います。

 道程は因果の道理であり、廃悪修善だと思うのですが、言葉と意味は教えて頂いてきましたが、具体的にはどう実践すれば良いのか分からず、日々の言動が廃悪修善になっていなかったと思います。

 今まで幸福と感じることは少なく苦しみが多かったのが証拠だと思います。
 五正行の実践(お勤め)や聴聞が道程だというのが今までの理解でしたが、それは浄土三部経で教えられている実践で、お釈迦様がそれまでにずっと説かれたのは、因果の道理ではないのでしょうか。

 正確には違うのかもしれませんが、横の線を進ませていただく軌道に乗せてもらうための因果の道理がスッポっと抜けているように思えてきました。因果の道理から導かれる廃悪修善をまず実践していかなければ、横の線に乗ることもできないのではないでしょうか。親鸞会で言われる廃悪修善の善は聴聞・お勤め・法施・財施に限定されているように思います。形は六度万行を勧めていますが、それは財施に導くためのものに思えます。

 今考えますと、自分も含め周りの多くの人の法施・財施以外の六度万行の実践は、親鸞会で「世間の人」と言われる方たちと同じか、それ以下だったように思えます。

 勧められる善が聴聞・お勤め・法施・財施ばかりなので、人との信頼関係はあまりないように思えました。実際私も会員さんより世間の人といわれる友達の方が親しいし、一緒にいて楽しいです。

 聴聞にしても、一方的に聞くばかりで、清森さん上田さんに教えて頂くように聞・思・修ではありません。

 法施にしても、正しい仏法を人にお伝えしているのか分かりませんし、財施にしても、何に使われているか分かりません。

 結局、何倍にもなって幸せが返って来ている人は、親鸞会で言われる聴聞・お勤め・法施・財施をしている人より六度万行を実践している人だと思います。

 今、聞かせていただいている仏法は他人を幸せにすることによって自分も幸せになる教えとお聞きしていますので、人との信頼関係も生まれてきますし、おそらく善を実践している人は形にもなって結果も表れてくるでしょうし、生き生きとしているように、みえてくると思います。

 自分が仏法を他人に押し付けようとしなくても、信頼関係が有り、生き生きとしていれば、なぜ幸せそうにしているのか、相手から色々と聞いてくると思います。

 相手が関心がなく拒否しているところに話し込むのは苦痛ですが、逆に聞かれてきたことに答えるのは楽しいと思います。

 この前、清森さんに教えて頂いたことで、お釈迦様から話されるのではなく、お経は、お弟子の質問に答えられる形式になっているということを思い出しました。

 お釈迦様は、聞かれたことにお答えしているだけだということからも、押し付けていないということが分かります。仏法に関心がある人に答えるのは苦痛でも何でもありません。逆に関心がない人に話すのは苦痛に感じることが多いです。

 関心がある人を見つけるまで探さなくても、自分が廃悪修善を実践して、他人を幸せにして自分も幸せになり、深い信頼関係ができ、生き生きとしていれば、関心がある人から尋ねてくると思います。そこで話をすれば、相手も押し付けられていると嫌な顔もしないですし、自分も聞かれたことを答えるだけですので、苦しいことはないです。

 逆に仏法を話すことが楽しくなると、容易に想像することができます。

 親鸞会のように、関心ある人を探しだすまで、あたりかまわず押し付けて勧誘したり、嘘をついて、一時的に成果はあがるかもしれませんが、あとが続いてこなかったのは学生部をみれば明らかです。自分の場合は40人ぐらいいた部員が4年生まで続けた人は数人です。

 それに、後ろめたく肩身が狭い思いをして仏法を求めてきました。

 もちろん、お伝えしてくださったご恩は忘れていませんが、押し付けでなく、他人から他人へ親から子供へ、子供から親へ、兄から弟へ、親友へと信頼関係の中で自然と伝わったならば、最初はゆっくりとかもしれませんが、言葉は悪いですが、やがて、ねずみ算式に増えていくような気がします。

 ただ、地獄を回避するためには絶対の幸福にならなければならないというのでは伝わっていかないと思います。

 なぜなら、想像もできない非現実的なことだからです。それよりも今幸せになっていくという実感や今の苦しみが軽減していくという体験が得られなければ納得できませんし、継続しないと思います。
 
 もしかしたら、親鸞会が今までのような勧誘方法をとっていなかったら、実際のところ私は聞くことができなかったかもしれませんが、だからといって同じような勧誘をしなければならないという考え方は良くないと思います。

 もし仮に今まで親鸞会が、清森さんや上田さんのように組織的な伝え方でなく、押し付けず、信頼関係のある人の中で伝えられていったならば、聞く人が増えることはゆっくりでも減ることは少なく、長い年月の時間がかかったかも知れませんが、もっと日本中周りに仏法が浸透して、そういう経路で自分も聞くことはできたのではないかと思えます。(ただし、正しい仏法を伝えていることが前提ですが)

 結果論になりますが、今はネットが発達して仏法に関心ある人は自ら探せます。周りの人から伝えられなくても、そういう経路で仏法を聞くことができたかもしれません。もし信頼関係のある人の中で伝えられ、また正しく仏法を教えられていたならば、自ら進んでネットや本や色々なメディアで発信する人があらわれ、批判的なサイトやメディアは現れず、親鸞会を知るきっかけがたくさん増え、多くの人が自ら関心をもって知ることが出来たと思います。

(一時的な成果の為に嘘や仏教を都合の言いように解釈しているようですので、もはやネットやその他のメディアで広めようとするのは、絶望的になったと思います。逆に最大の脅威になっています。)

 ですから、親鸞会の勧誘方法が正しい仏法の実践であったら、私が聞くことができるチャンスはもっと増えていて、大学の新勧でなくても、正しい仏法を聞くことができたのではないかと考えてもいいのではないかと思います。

 学生の時の新勧でなければ、仏法を聞くことはできなかったという考え方はやめようと思います。

 そうしないと親鸞会の勧誘方法のおかげで聞くことができたのだから、親鸞会にご恩を返すために、本会の言われるままに嫌でも、これからずっと苦しい勧誘をしていかなければならないという呪縛から逃れられず、つらいだけですので。

 正しい仏法の実践による勧誘方法かどうかは別として、親鸞会があったから仏法を聞くことができたのは事実です。

 だからと言って、必ず親鸞会の勧誘方法を実践しなければならない、ということにはならないと思います。

 たとえ親鸞会の勧誘方法によって今の自分があるとしても、それは親鸞会のおかげではなく、釈尊・親鸞聖人のおかげだと考えるべきだと思うからです。

 親鸞会が正しい仏教を伝えていた場合に親鸞会のおかげということになりますが、正しい仏法を伝えていない場合、親鸞会は、あくまで、正しい仏法を聞かせていただいた“きっかけ”であって、“おかげ”は釈尊・親鸞聖人にあると思います。

 言いたいことは、親鸞会が良い悪いということではなく、親鸞会がきっかけで仏法を聞くことが出来たからといって、親鸞会の勧誘方法をしなければならないということには、ならないということです。

 あくまで“きっかけ”ですから、親鸞会の教えに従わなくてもいいはずです。

 “おかげ”はどこにあるかというと、釈尊・親鸞聖人なのですから、親鸞会が“きっかけ”で聞くことができるようになったとしても、
従うべきなのは、“おかげ”である釈尊・親鸞聖人の教えになると思います。

 長々とすみません。

 このように考えますと、ご恩があるのだから、時には嘘も必要だということや、相手を地獄にたたき落としてしまうから、押し売りのようになってもやらなければならない、仏法をお伝えすることが苦しくても、やらなければ宿善は厚くならない、自分が地獄に落ちないためにも、どんなに苦しくてもお伝えしなければならない、善知識の命がけのご苦労のご恩をお返しするために、どんなに苦しくてもお伝えしなければならない、でも、なかなかできない、という板ばさみで苦しむことは少なくなると思います。

 これらは親鸞会の教えであって、仏法の実践でないかもしれないからです。

 もちろん、仏法をお伝えするのは嫌だというのではなく、喜びで楽しくお伝えしたいです。

 そのためにも急ぐことは、廃悪修善を行って、周りも幸せになってもらい自分も幸せになって行くことだと思いました。

 自分の幸せよりも相手の幸せを優先して、苦しい中、布教をやってこそ、利他の精神だというのは、言葉はきれいですが、まず自分が幸せになっていかないと、仏法を納得して続けていくことは難しいです。

 求道は苦しいものだと自分に言い聞かせて耐えていても、結局は続かなくなり、自分も仏法を聞けなくなりますし、人にも仏法をお伝えすることはなくなってしまうので、自利も利他もなくなってしまうと思います。

 善を行って、幸せという実感が得られれば、たとえ肉体的には大変でも、続かないということは無いと思います。

 親鸞会で辞めていく人が多いのは幸せが実感できない(苦しみばかり実感する)のが原因の一つではないでしょうか。

 辞めるまでいかないでも私のように活動に積極的にならないは、活動することによって苦しみばかり感じて、いくら善だと言われたことをやっても幸せが実感できなかったからだと思います。

 宿善になるからという論理で、善をやっても苦しいという矛盾に、思考停止させられていたのかもしれません。

 清森さんのご回答で大分スッキリしたのと、思考方法が変わって苦しみと感じていたことが減りました。

 有難うございます。

 もしかしたら、間違って理解していることもあるかもしれませんが、ご指摘いただけると助かります。お忙しいのに長文で申し訳ありません。今後はなるべく簡潔に致します。


 それでは失礼致します。   
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