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質疑応答・128

【質問】


 チューリップ企画の法論を読み、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないことでないか」と思いましたが、如何、お考えでしょうか。



【回答】


 私も、最初に法論を読んだ時は、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないこと」と思っていました。

 ですから、あなたの言いたいことも、よく分かります。

 しかし、この件を御縁に、最近、勉強しなおしまして、非常に重要な違いであることが分かってきました。

 親鸞会の教義の、根本的な誤りにつながっている部分ではないかと、今は考えています。


 親鸞会では、仏教の目的は信心決定だと教えられていますが、これは誤りだと思います。

 仏教の目的は、成仏です。同じだと思われるかも知れませんが、同じではありません。


 仏教では、菩提心を起こし、功徳を積んでゆかねば、仏になることが出来ないと教えられています。

 これは、聖道仏教でも、浄土仏教でも、同じです。

 浄土仏教は他力だから、菩提心も功徳も必要ないと思われるかも知れませんが、そうではありません。


 もともと、教行信証は、選択集に対する批判に応えたものと言われています。

 当時、浄土宗は、菩提心を起こさずに仏になる、と批判されていました。

 菩提心を起こし、功徳を積まねば、仏になれないのは、仏教の常識ですから、当然の批判です。


 それに対し、親鸞聖人は、菩提心に自力と他力の二つあることをハッキリと教えられ、阿弥陀仏のお力によって、菩提心を起こし、功徳を積ませて頂くことによって、仏になれることを、教行信証に明らかにされました。

 阿弥陀仏のお力とは、私達に菩提心を起こさせ、功徳を積ませる働きであり、仏になるまで導いてくださる働きであることは明らかなのです。

 信前の人は、その阿弥陀仏のお力を、撥ね付けてしまっている状態です。

 信心決定は、阿弥陀仏のお力を、受け取れるようになったことを言いますから、信心決定が、仏教のスタートと言っても良いと思います。

 信心決定も阿弥陀仏のお力に違いありませんが、少なくとも、阿弥陀仏が目的とされているのは成仏であり、命をかけておられるのも成仏です。


 親鸞会では、そういうことが、殆ど理解されていないように思われます。

 十住毘婆沙論を読みますと、自力で菩提心を起こし、功徳を積もうとした人が、その限界を知り、敗壊の菩薩と知らされて、初めて他力の菩提心を頂くことが出来るということが説かれています。

 つまり、成仏するとは、どういうことか、菩提心とは、どういうことかを理解せずに、信心決定はありえないと思います。

 ですから、阿弥陀仏が命を懸けておられるは信楽だ、信心決定が仏教の目的だ、と思っているうちは、救われないと思います。


 私は、親鸞会が結成されてから、「私は信心決定した!」と救いを喜び、他人にも伝えたいと、頑張られるようになった方を、殆ど知りません。

 高森先生も、命懸けで布教され、トータルで何万、何十万という人が、命掛けで求めてこられたと思いますが、なぜ救いを喜ばれる方が殆どいないのか。

 ずーっと考えてきましたが、最近は、18願の解釈の間違いが、大きいのではないかと思っています。

 これは、まだハッキリとはしませんし、現時点での考えでから、理解が深まれば変わるかも知れませんが、非常に大事な問題だと思っています。

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COMMENTS

No title

>親鸞会の教義の、根本的な誤りにつながっている部分ではないかと、今は考えています。

↑これは言いすぎでしょう。
たしかにそれは「仏教の目的は信心決定だ」と主張する親鸞会の教義的根拠ではあるでしょう、しかし”親鸞会のあやまち”とは、教義的誤りのみではありません。
当ブログでも指摘されてきた通り、親鸞会の教義に似たものは、会の非難してきた他の新宗教の中にもゴロゴロしています。にも関わらず、それらが社会に与える害悪はまちまちです。これはある教義が必ずしもその団体の性質に直結はしないということです。
清森氏も親鸞会で活動してきた時期について反省点は多々あるでしょうが、「根本的な問題は、本願の解釈だった」などというところに落ち着いてしまっては、同じ失敗をまた繰り返しかねないと危惧します。
私がそばにいた頃、清森氏は「本願の若不生者には、信心決定と成仏の二通りの意味合いがある」と教えていました。これを見ても、親鸞会教義を受け取っている人の中でも本願の受け取り方(信心決定か成仏か)はマチマチであり、その解釈は個々人の性質による所も大きいのです。逆を言えは「仏教の目的は成仏だ」と清森氏が説いたところで、受け取る側の心としては親鸞会教義を聞いていた頃と変わりない、ということもあり得るのです。
チューリップとの論争を空しく感じたというのは、ああいうことをしたことろで宗教者が伝えるべき「心」を伝えるのに、どれだけの働きがあるのだろうか?むしろつまらない言葉のやりとりは、気高い心とは逆行しているようにさえ感じる、という空しさであります。

>つまり、成仏するとは、どういうことか、菩提心とは、どういうことかを理解せずに、信心決定はありえないと思います。

「教えを理解する」というのは、「教え」が伝えようとしていた、その心になるということでしょう。「言葉と理屈」に傾倒していて、そのわりには「言葉と理屈」が浅い、そんな親鸞会のスタイルを思い出すのです、言葉にこだわっている姿を見ると。

No title

もうちょっと分かり易い言葉と理屈でお願いします。

もう半分もお願いします。

私の質問を清森問答で取り上げて下さり、ありがとうございます。

この質問はお願いしていた半分ですので、もう半分もお願いします。

「田中一憲」氏が偽名で法論をしているのは、親鸞会がダミーサークルを使っているのと重なります。一般人を装って実は・・・というやり方は親鸞会とだぶって仕方がありません。この点も清森問答で取り上げて頂きたいとお願いしておりましたので、よろしくお願いします。

No title

>>「田中一憲」氏が偽名で法論をしているのは、親鸞会がダミーサークルを>>使っているのと重なります。

田中氏が勧誘目的ならダミーサークルと同様といえる。
ではこの法論の場合がどうか。
同じ類のものかどうか、少し考えればすぐわかること。
小生には全く趣旨の異なるものとしか思えない。

No title

>>「田中一憲」氏が偽名で法論をしているのは、親鸞会がダミーサークルを>>使っているのと重なります。

NNN氏は田中氏と知り合いのようだから、本人に直接言えばいいこと。
清森氏もメールしか受け付けないと明言しているのに、こんなところに書き込んでいるのは、要するに清森氏に対するアテツケ。
いやらしい文章だね。

No title

世の中で出版されている書籍でも、偽名はたくさんあるし、「これは偽名です」なんて書いているひとはいません。
ネットの世界ではなおさらのことです。
親鸞会に実名で法論を申し込むなんて、実名で草加学会を批判するくらい危ないと思うけど。
これをダミサ勧誘と同じだと思う人の精神構造が理解できない。

No title

>清森氏に対するアテツケ

NNN氏のはアテツケというよりも、清森氏への牽制の意味合いで言っているのでしょう?
”いやらしい文章”というのは、清森氏にとって嫌な要素があるということ。むしろNNN氏の投稿を受けても嫌に感じない程の実直さが清森氏にあれば一番よい。
清森氏はNNN氏の投稿を自身の鏡として読んでいるようだから、多少の失礼は多めに見てくれるでしょう。願わくは親鸞会幹部にも、一切を自分の業の現われとして反省する謙虚さを望みたいものです。

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