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質疑応答131

【質問】

今日ある人と会ってきました。そこで非常に悩んだことがありました。

これは講師部員としてこう思うとか、そういうことでなくて、仏さまの教えはこうですよ、

という立場で、どうか教えてください。布施についてお聞きします。財施についてです。

ここに一万円あるとします。自由に使えるお金だとします。

私ならほとんど迷わず仏法の為になることに遣います。
(生活するうえでの金銭が満たされている前提でですが)

私は阿弥陀如来のご苦労、十劫の間待ち続けて下されている阿弥陀様のご恩を思うと、とても申し訳ない気持ちになります。

そしてはやく南無阿弥陀仏を受け取らせて頂かねば、と思うと同時に、多くの人に本当の幸せになってもらいたいと願わずにはおれません。

そう思うと、仏教では布施が勧められています。

顕正する相手に、財施をし、よい関係をつくり、仏法をお伝えしていく。

(たとえば新入生に食事をご馳走するなど)

これはよいことだと思います。そしてお金が消費されます。

次に、仏法では御法礼というものがありますね。

法施に対して財施でお返しするということです。これもよいことだと思います。

そしてお金がやはりかかります。さてここで質問です。

前述の通りここに一万円あります。

仏法の為に遣うなら、どうするのがよいでしょうか?

顕正相手にたくさん財施するのと、御法礼を多くするのと、

どちらがより勧められることなのか?

どのように仏教では教えるのでしょうか?

A.どちらも財施ですから、まったくあなたの自由です。どちら
に遣おうと、あなたの宿善になります。

B.どちらも財施ですが、○:○(例えば5:5など)にするの
が適切でしょう。

C.善知識をおろそかにすることは謗法罪です。全て善知識にご
喜捨しましょう。そうしないのは仏法が全くわかっていないか
らです。三福田の恩田の教えの通りです。

D.阿弥陀仏が喜ばれることは、大悲を伝えることですから、顕
正することに全力注ぎましょう。御法礼は気持ちだけでいいで
す。

E.その他(これなら具体的に教えてください)

自分で考えますと、上の様に、さまざまな答えが考えられて、
とても悩みます。

どうすることが、仏教で善であるか、教えていただけないでしょうか?


【回答】

 まず、私も時々、間違った言葉遣いをしますが、仏法者に対しては「布施」と言わずに「供養」と言います。意味合いが違うからです。

「布施」は相手を幸せにするためにするもの、
「供養」は自分が幸せになるためにするものです。

 仏法者と縁を深めることは、布施を頂くことになるので、「供養」は自分の幸せのためということになるのです。

「布施」は既に幸せになった人が、周りの人も幸せになって欲しいという気持ちで、するものです。

 不幸な人には、相手に幸せになって欲しいと、心から思うことが出来ませんので、そういう人は「供養」しか出来ません。

 ですから、まず最初に勧められているのは「供養」です。


 観無量寿経では、三福の最初に、世福が教えられています。

●彼の国に生ぜんと欲する者は、当に三福を修すべし、一には父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。(観無量寿経)


 この観無量寿経の御心について、善導大師は、観無量寿経疏に、以下のように書かれています。


●しかるに仏在世の時、時年飢倹せるに遇値ひて、人みな餓死して白骨縦横なり。

 もろもろの比丘等、乞食するに得がたし。時に世尊、比丘等の去りぬる後を待ちて、独り自ら城に入りて乞食したまふ。旦より中に至るまで門門に喚び乞ひたまへども、食を与ふるものなし。仏、また鉢を空しくして帰りたまふ。

 明日また去きて、また得たまはず。後の日、また去きたまふに、また得たまはず。たちまちに一の比丘ありて、道に逢ひて仏を見たてまつるに、顔色、常よりも異にして飢相ましますに似たり。

 すなはち仏に問ひたてまつりてまうさく、「世尊いま、すでに食しをはりたまへりや」と。仏のたまはく、「比丘、われ三日を経てよりこのかた、乞食するに一匙をも得ず。われいま飢虚にして力なし、よく汝と共に語らんや」と。比丘仏語を聞きをはりて、悲涙して自ら勝ふることあたはず。

 すなはち自ら念言すらく、「仏はこれ無上の福田、衆生の覆護なり。われ、この三衣売却して、一鉢の飯を買ひ取りて仏に奉上せん、今まさしく、これ時なり」と。

 この念をなしをはりて、すなはち一鉢の飯を買ひ得て、すみやかにもつて仏にたてまつる。仏知ろしめして、ことさらに問ひてのたまはく、「比丘、時年飢倹にして人みな餓死す。汝今、いづれの処にしてか、この一鉢の純色の飯を得て来れる」と。

 比丘前の如く、つぶさに世尊にまうす。仏また、のたまはく、「比丘の三衣は、すなはち、これ三世の諸仏の幢相なり。この衣、因縁きはめて尊く、きはめて重く、きはめて恩あり。汝いま、この飯を易へ得て、われに与ふることは、大きに汝が好心を領すれども、われこの飯を消せず」と。

 比丘かさねて仏にまうしてまうさく「仏は、これ三界の福田、聖のなかの極なるに、なほ消せずといはば、仏を除きて以外は誰かよく消せんや」と。

 仏のたまはく、「比丘、汝、父母ありや、いなや」と。

 答へてまうさく、「あり」と。

「汝、もつて父母に供養し去れ」と。

 比丘まうさく、「仏なほ消せずとのたまふ、わが父母あに、よく消せんや」と。

 仏のたまはく、「消することを得。何をもつての故に。父母よく汝が身を生ぜり。汝において大重恩あり。これがために消することを得」と。

 仏また比丘に問ひたまはく、「なんぢが父母、仏を信ずる心ありや、いなや」と。

 比丘まうさく、「すべて信心なし」と。

 仏のたまはく、「いま信ずる心あるべし。汝の飯を与ふるを見て、大きに歓喜を生じて、これによりて、すなはち信心を発さん。先づ教へて三帰依を受けしめよ。すなはちよく、この食を消せん」と。

 時に比丘、すでに仏の教を受けて愍仰して去りぬ。この義をもつての故に、大きにすべからく父母に孝養すべし。




 ですから、一番に供養を勧められている相手は、両親だということになります。

 ですが、もし両親に養って頂いている状態であれば、金銭的な意味での供養は、あまり喜ばれないかも知れません。

 現時点では、聴聞の費用や、その他、自らの成長のために使われるのが良いかと思います。

 それが一番、両親に喜んで頂ける結果になると思います。


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