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質疑応答 1

【質問】

 真実の信心を頂くと、本当に救われたのだろうか、と思う心は、微塵も出てこないという教え(=本当に救われたのだろうか、と思う心があれば、真実の信心ではないという教え)と、本当に救われたのだろうか、と思う真実の信心もあるという、教えとでは、まったく相反しています。つまりどちらかが、異安心であると思いますが、いかがでしょうか。



【回答】

 まず、高森先生がどのように仰っているでしょうか?
 高森先生が獲信されたときの体験談には、次のように書かれています。これは発行元がハッキリしているので、高森先生の書かれたものと考えて、間違いないと思います。

>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。

 迷雲が疑情でないのは明らかですが、悪疑とあるので、疑煩悩としか解釈できないと思います。
 また、高森先生の初めての御著書である「獲信の記録」には、「これが獲信したというものであろうか?」と悩んでいる人に対して、高森先生御自身が、「振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね。」とお答えになったエピソードが紹介されています。

 また、平成元年2月1日の教学講義では、「我々が思っている疑情なら、意業に入るが、疑情は我々が思っているものではない。我々が思っているのは法謗罪」と仰いました。

 また、平成元年8月29日の教学講義では、「我々が思っている疑情は疑情ではない、法謗罪。信疑決判の疑は、意業と一緒ではない」と仰いました。

 また、平成4年8月14日の教学講義では「如何なる振る舞い」の中に「阿弥陀仏の本願を疑うことは入るか」という質問に、直接お答えになられずに、「どんな振舞もする」とお答えになられました。

 また、平成4年10月の座談会では、「さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし」を聞いて、「おかしいなあ」と思う心も入るか、入らないかという質問に対して、「どんなものでも入る」とお答えになられました。

 つまり、「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない、ということです。

 そもそも、疑情は、三業にかかるものではないので、私達の心で「思う」ものではありません。
 しかし、言葉で表わすしか方法がないので「阿弥陀仏の本願を疑う心」と説明されますが、「阿弥陀仏の本願に救われたのだろうかと思う心」と教えられたことは、一度もありません。

 一方、上田君はどのように教えているか、

>「本当に、救われたのだろうか?」という疑いが起きても、「こんなハッキリした救いなのに、疑いの心が起きるとは、浅ましいものだ」と、いよいよ往生は一定とハッキリするのです。

 上田君は、「本当に救われたのだろうか」という疑い(疑煩悩)が起きても、いよいよ往生一定とハッキリする信心だと言っています。

「本当に救われたのだろうか?」と思った瞬間に崩れてしまうような信心なら、金剛の信心とは言えません。「本当に救われたのだろうか?」という心が起きてさえ、崩れない信心を、どのように崩すことができるでしょうか?

 なお、高森先生が華光会時代に先生として慕っておられ、御著書に多数引用しておられる伊藤康善氏も、また高森先生が、座談会や、講師部徳育講義にて、真実信心の人だと紹介された野依秀一氏も、信後の疑いについて、著書に述べています。

 高森先生は、疑情を色々な言葉で説明しておられますが、すべて言葉にかからない心を教えておられるのであって、意業ではありません。

 凡夫の智恵では、言葉尻しか分かりませんから、疑情が無くなると聴くと、「本当に救われたのだろうか」という意業は起きなくなる、と早合点してしまいます。そんな人からみれば、異安心に思えるのでしょう。

 今回の件は、高森先生の御心の分からぬ人たちが、教えを聴き間違えて、上田君を非難しているものと、判断せざるを得ません。恐ろしいことは、そうやって、高森先生が仰ってもいないことを、さも高森先生の御教導のように話していることです。

 他にも、公開法論において、福田講師が

> 弥陀の呼び声を聞くための絶対必要条件が、人間の言葉を「聴く」ことなので、この「きく」には、人間の言葉を「聴く」ということも含まれる。

という、とんでもない主張をしていましたが、高森先生が知られたら、激怒されると思います。現に、この主張に対して齊尾君が質問していますが、その質問には全く答えられず、情けない逃げ方をしています。

 また、「上田は異安心だ」と言うこと自体が、三業で信心を判定してはならないという高森先生の御教導に反してはいないでしょうか?

 とにかく上田さんを異安心に仕立て上げたい一心で、高森先生の御教導までネジ曲げてしまう現状に、深い危機感を覚えます。このままいけば、高森先生が御説法されなくなった瞬間に、高森先生の御教導は、この世から消えてしまいます。

 大事なことは、親鸞会という組織を残すことではなく、教えを残すことでは、ないでしょうか?

 私は、高森先生の御苦労を、水泡に帰すわけにはいかないので、どれだけ非難されようとも、裏切り者扱いされようとも、真実の教えを曲げるわけにはいかないのです。


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COMMENTS

三業と信心の関係は玩具ではない

>つまり、「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない、ということです。

この「つまり」は意味不明。

*********************************************************************
また、平成4年8月14日の教学講義では「如何なる振る舞い」の中に
「阿弥陀仏の本願を疑うことは入るか」という質問に、直接お答えになられずに、
「どんな振舞もする」とお答えになられました。

また、平成4年10月の座談会では、「さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし」
を聞いて、「おかしいなあ」と思う心も入るか、入らないかという質問に対して、
「どんなものでも入る」とお答えになられました。
********************************************************************

したがって、『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』とは
直接言われてはいない。あなたの勝手な推量、計らいでしょう。
「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。
それをしらせて疑蓋無雑の信楽をさししめさねばならぬ。

「本当に救われたのだろうか」と思っている人でも疑情は晴れており、往生できる
と言えば、疑心往生の異安心だ。
『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と
あなたが言うのは勝手だが、高森先生は直接そうとは言っていないのだ。
それは、真宗の骨目を根本から破壊する危険があるからなのだ。

高森先生が仰ってもいないことを、さも高森先生の御教導のように話している
あなたは本当に恐ろしいことです。

疑心往生ではないでしょ。

> 「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
> そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。

「本当に救われたのだろうか」
「ひょっとの心」
これこそが高森氏の言う「我々が思っている疑情」で、
「我々が思っている疑情は疑情ではない」と否定されてるでしょ。

そもそも高森氏は「三業で信心を判断することはできない」と教えてるんでしょ。
あなたの発言は明らかに、三業で信心を判断してるよね。

あなたこそ恐ろしいことをしてるんじゃないの?

三業と信心の関係とは

『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と
高森先生が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。
ないのなら、それは知識伝持の言葉ではなく、相伝のない自説です。
自分は高森先生が直接そのように仰ったのを聞いたことがない。


さて、元sさんへお尋ねいたします。

上田君は、「本当に救われたのだろうか」という疑い(疑煩悩)が起きても、
いよいよ往生一定とハッキリする信心だと言っています。

「本当に救われたのだろうか?」と思った瞬間に崩れてしまうような信心なら、
金剛の信心とは言えません。「本当に救われたのだろうか?」という心が起きてさえ、
崩れない信心を、どのように崩すことができるでしょうか?

と言っている者は口業で信心を判断していませんか?
お答え下さいませ。

http://jomei2.exblog.jp/blog.asp?iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=6487284&dte=2007%2D07%2D13+13%3A27%3A02%2E000

2007年 05月 12日

また、上田さんの信心が真実かどうか確かめようと、電話で色々な質問をしたそうです。
信心決定していなければ、まず答えられないような質問も幾つかあったそうですが、
すべて即答で、間違いがなかったそうです。
「上田さんの信心は真実だと確信した」と言われていました。


これは口業で信心を判定しているのではありませんか?
お答え下さいませ。

No title

高森会長が信心決定していると信じている親鸞会会員は、身業口業で判断しているわけだから、全員異安心だな。

No title

>『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と
>高森先生が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。
>ないのなら、それは知識伝持の言葉ではなく、相伝のない自説です。
>自分は高森先生が直接そのように仰ったのを聞いたことがない。

『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』と
親鸞聖人が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。
ないのなら、それは知識伝持の言葉ではなく、相伝のない自説です。
自分は親鸞聖人が直接そのように書いておられるのを読んだことがない。

No title

今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。これが獲信したというものであろうか?
(高森顕徹著 「獲信の記録」)

高森会長の認定した信心は「疑心往生」のようだ。
あ、三業では判断できないんだっけ?

「推測」と「断定」は違う!

何だかんだいっても、現実問題として、他人の信心は三業で推し測ることしかできません。断定は誰にもできません。

清森さんは上田さんの信心に関して、「まこと」だと個人的に推測した理由を述べたにすぎません。あくまで主観的にそう判断しただけなのですから、それは清森さんの自由です。(その推論に共感するかどうかも読者の自由です。)決して客観的な立場で「断定」したのではありません。

ついでに言いますが、親鸞会の人が高森会長の信心を「まこと」だと思うのも実際には三業で推測しているにすぎないのに、断定的に公言していませんか?

No title

>ついでに言いますが、親鸞会の人が高森会長の信心を「まこと」だと思うのも実際には三業で推測しているにすぎないのに、断定的に公言していませんか?

信心をまことだと公言しているのではないよ。三業に表れた「誠さ加減」を、人にも伝えているに過ぎん。清森さんや、上田さんの三業とは比較にならんのでね。

No title

> 信心をまことだと公言しているのではないよ。三業に表れた「誠さ加減」を、人にも伝えているに過ぎん。

もしそうなら結構ですが、実際には善知識の3条件(獲信の体験・教学力・指導力)を兼ね備えた方だと断言しているのではないですか?

No title

>信心をまことだと公言しているのではないよ。三業に表れた「誠さ加減」を、人にも伝えているに過ぎん。清森さんや、上田さんの三業とは比較にならんのでね。

上田氏のことは知らんが、清廉潔白な清森氏の三業に比べ、金に汚く、息子の不倫も許してしまう高森氏の三業は酷いものだね。比較にならん。

親鸞会における「期待される会員像」について

私見ですが、親鸞会の目指しているところの会員とは、タテマエ的には「他力信心獲得して人生の目的を達成した会員」ということなのでしょうけど、実際のところ、

1)親鸞聖人の信心を他力の真実信心であると信じている

2)蓮如上人、覚如両上人の信心を親鸞聖人の信心と一味の他力の真実信心であると信じている(教学テキストの善知識についての言及から)

3)高森会長の信心を親鸞聖人の信心と一味の他力の真実信心と信じている

4)親鸞会で教えられているところの「一切衆生 必堕無間」という「後生の一大事」の解決こそが人生究極の目的であると信じている

5)高森会長の教えられた教説どおり実践して、高森会長と同じ信心を追体験することがすなち「後生の一大事」の解決になり、人生の目的の達成となり、親鸞聖人と同じ信心を獲ることになり、そして「後生の一大事」の解決は他のあらゆる世事に優先される、と信じている

6)高森会長以外にこの世に真実を説ききられる善知識がおられることは断じてありえない、親鸞会以外に真実は断じて説かれていない、そして、人生の目的を知らない人々に真実であるところの高森会長のご教導をお伝えするためならば、嘘を吐くことや偽装サークルを用いた勧誘などの多少の悪は容認される、と信じている

上記の総てを満たすような人間像を期待されているのではないかと思っています。

上記で私見では1)の人々は少なくとも浄土真宗のカテゴリー内といえると思います。
真宗内でも2)については一部で議論もあるようですので(異論もあると思いますが)必ずしも2)を満たさない真宗信者もあるように思います。

また、脱会者のなかでも3)を信じている人はおそらく少なくないことでしょう。また、おそらく脱会者のなかでも「組織についていけず辞めた」「組織の不誠実さに呆れて辞めた」という方など、依然として4)まで信じている人はおられるかたもおそらくは少なくないことでしょう。

そして、現役会員の大半は5)までは信じていると思います。
6)までいきますと、懐疑的な会員さんなどはおそらくは信じていないのではないかと思います。

1)~6)のいずれに関しても、一種の思い込み信心であり、真宗的には吹けば飛ぶような「信下の軽毛」にも喩えられる自力信心であり、親鸞会会員における高森会長に対する思いなどは、所詮は先輩信者の「強い思い込み」が伝染したものに過ぎないのと思っているのですが、親鸞会会員は高森会長の説く教えと「神格化された大善知識としての高森会長像」に対しては非常に強固な信念をもっている、といえるのではないでしょうか。

憲法で信教の自由は保証されていますので、会員個人が1)~6)の総てを信じること自体に対しては、私は特に否定的見解は持ちません。しかし、頼んでもいないのに未成年者に偽装サークルなどを用いて親の知らない間に、上記の1)から6)にいたるような信者に仕立て上げるような行為が依然としてなされているとすれば、それは断固として否定されるべきであると考えています。

なお、

>高森先生が仰ってもいないことを、さも高森先生の御教導のように話している
あなたは本当に恐ろしいことです。

とおっしゃる「それは疑心往生になるよ」さんなどは、上記分類ですでに6)段階に達した方のようにお見受けしますがいかがでしょうか?

No title

> 『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と
> 高森先生が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。

直接言ってないとダメなんて、小学生?

> また、平成4年8月14日の教学講義では「如何なる振る舞い」の中に
> 「阿弥陀仏の本願を疑うことは入るか」という質問に、直接お答えになられずに、
> 「どんな振舞もする」とお答えになられました。

これで十分だと思うけど。

逆に聞くけど「それは疑心往生になるよ」さんは、
「如何なる振る舞い」の中に、
「本当に救われたのだろうか」と思うことは入らないってことでOK?

その立場だと、
高森氏の初の著書「獲信の記録」を否定することになるけど
それでもOK?

> これは口業で信心を判定しているのではありませんか?

他の人の言葉を借りると「推定」くらいはしてるだろうね。
でも本当のところは本人しかわからないってことが前提としてあるでしょ。

それに対して

> 「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
> そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。

はかなり断定的。

というか、なんで人の話を出すかな~
清森氏が判定してるんだから自分もいいじゃんって言いたいの?
いや、それでいいならいいけど…

元sさんへ

元sさんへ、

「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。
それをしらせて疑蓋無雑の信楽をさししめさねばならぬ。

と、教家は相手の信仰をみて対機説法しなければならぬという
ごくあたりまえのことを私は言っているだけなのに


>「本当に救われたのだろうか」
>「ひょっとの心」
>これこそが高森氏の言う「我々が思っている疑情」で、
>「我々が思っている疑情は疑情ではない」と否定されてるでしょ。
>
>そもそも高森氏は「三業で信心を判断することはできない」と教えてるんでしょ。
>あなたの発言は明らかに、三業で信心を判断してるよね。


などと脊髄反射の非難をなさるから、私を含めて、
横レスですが、ちょっと。さん、などからも
あなたが批判されているのです。

高森先生は
「未信のときに思っている疑情は、法謗罪」
「三業で信心は計れないが、信心は必ず三業に現れる」
「他人が信心決定しているかしていないかハッキリわかるわけではない」
「知識は、それで信心決定したぞ、と相手の信心を認定してはならない」
と仰っている。
あなたはそれを聞き誤っておられるようですが、
これは説法するときに、相手の信仰を三業で判断して機に応じた話を
してはならない、ということではないのです。
高森先生は相手の信仰に応じて話をしておられるし、
清森氏も上田氏の信心を口業で判定している。

http://jomei2.exblog.jp/blog.asp?iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=6487284&dte=2007%2D07%2D13+13%3A27%3A02%2E000

2007年 05月 12日

また、上田さんの信心が真実かどうか確かめようと、電話で色々な質問をしたそうです。
信心決定していなければ、まず答えられないような質問も幾つかあったそうですが、
すべて即答で、間違いがなかったそうです。
「上田さんの信心は真実だと確信した」と言われていました。


これは口業で信心を判定しているのではありませんか?
よく読んで下さいませ。
これは「信心の認定だ」と言う者がいるかしれんが、今は不問とします。


それと、わざわざ

『そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。』

と書いているのに

『そういう「ひょっとの心」がある人は、未信。』

と言うのと区別がついてないようですね。
『まず未信』と書けば『100% 未信というわけではない』の意が
明らかに含まれることになります。だからわざわざそう書いたのです。
断定的かどうかは程度問題、重要なのは 100% の断定はできないこと。
理解できましたでしょうか。


清森氏が高森先生のお言葉をたてに、相伝のない自説を吹聴していては
真宗の骨目を根本から破壊する危険がありますよ、
聞き誤る者がでてきますよ、と私は忠告した。
現に元sさんのように、聞き誤って、
対機説法は三業で信心を判断してなされる恐ろしいことだ、
などと的ハズレな非難をする者がでてきたではありませんか。
清森氏が相伝のない自説を吹聴しているからではないのですか?


>> 『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と
>> 高森先生が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。
>
>直接言ってないとダメなんて、小学生?
>
> また、平成4年8月14日の教学講義では「如何なる振る舞い」の中に
> 「阿弥陀仏の本願を疑うことは入るか」という質問に、直接お答えになられずに、
> 「どんな振舞もする」とお答えになられました。
>
>これで十分だと思うけど。
>


清森氏もあなたもよくわかっていらっしゃらないようだ。
あなたは問う。

>逆に聞くけど「それは疑心往生になるよ」さんは、
>「如何なる振る舞い」の中に、
>「本当に救われたのだろうか」と思うことは入らないってことでOK?
>
>その立場だと、
>高森氏の初の著書「獲信の記録」を否定することになるけど
>それでもOK?


私は答える、

「どんな振舞もする」

と。
高森先生は
「どんな振舞もする、阿弥陀仏の本願を疑うことも入る」
「如何なる振る舞いにはどんなものでも入る、おかしいなあと思う心も入る」
「如何なる振る舞いには、本当に救われたのだろうかと思うのも入る」
とは答えておられない。
耳の底に留る所をつらつら考えるに、そう言われたことは決してなかった。
そういう質問には「どんな振舞もする」「どんなものでも入る」としか言われなかった。

だからこそ、清森氏に尋ねている。

『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と
高森先生が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。
むろん、「如何なる振る舞いには、本当に救われたのだろうかと思うのも入る」
と高森先生が直接仰ったお言葉でもかまいません。
ないのなら、それは知識伝持の言葉ではなく、相伝のない自説です。


『疑情は意業と一緒ではない』と言うのと
『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』と言うのと
では違う、同じではない。わからないのなら、高森先生の仰ったようにお答えなさいな。

いいかげんに聞いて、三業と信心の関係を弄んで玩具にしてはなりませんよ。
それは、真宗の骨目を根本から破壊してしまう危険がありますよ。

リョウさんへ

リョウさんへ、

>高森会長が信心決定していると信じている親鸞会会員は、
>身業口業で判断しているわけだから、全員異安心だな。

あなたも相伝のない自説を称える清森・上田一派の被害者ですね。
「他人の信心を三業で判断するのは異安心」と高森先生が仰ったのを
私は聞いたことがない。
それは、清森君の「珍しき法」です。

他人の信心を謗れば謗法罪になりますが、これは真宗で教えられていることです。

本願寺系学者さんへ

本願寺系学者さんへ、

>『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』と
>親鸞聖人が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。
>ないのなら、それは知識伝持の言葉ではなく、相伝のない自説です。
>自分は親鸞聖人が直接そのように書いておられるのを読んだことがない。


清森氏は高森先生のお言葉をたてに自説を吹聴しているので、
親鸞聖人の根拠が必要なら清森氏にお尋ね下さい。
また、あなたの質問は私の言っていることとは無関係です。

「それは疑心往生になるよ」へ

布教局長の不倫を揉み消され、M野講師らを粛正処分とした高森先生の三業を見て「真の信心を得ていない」と判断するのは間違いですよね?
しかしながら、一般会員が高森先生の三業を見て、「もはや高森先生は真実を説かれる方とは思えない」と感じるのは致し方ないことですよね?
高森先生が真実の信心を獲ている方でしたら、この件も「自因自果、悪因悪果まちがいなし」と味わわれるのでしょうか?
「如来・聖人に対し、申し訳ないことをした」と懺悔されるのでしょうか?

「それは疑心往生になるよ」さんへ


さんを付け忘れてしまいました。コピペをして分かりやすいように「」で囲んだらうっかり忘れてしまいました。悪気はありませんのでご寛容ください。

「それは疑心往生になるよ」さんへ

他の人に非難されているとは思わないが…

結局あなたの主張がわからないので、
以下の3択に答えれくれる?

「如何なる振る舞い」の中に、「本当に救われたのだろうか」と思うことは入るか?
1.入る
2.入らない
3.直接言われてないのでわからない

高森氏の「どんな振舞もする」という答えをあなたがどう受け取ったのか知りたい。

おうさんへ

おうさんへ、

>なお、
>
>>高森先生が仰ってもいないことを、さも高森先生の御教導のように話している
>>あなたは本当に恐ろしいことです。
>
>とおっしゃる「それは疑心往生になるよ」さんなどは、
>上記分類ですでに6)段階に達した方のようにお見受けしますがいかがでしょうか?


意味不明なので勝手にどうぞ。

だいたいあなたは清森氏の回答をよく読んでおるのですか。疑問に思いますね。
よく読んでおれば上記の表現は、ああそうかと思うところがあるはずです。

元sさんへ

元sさんへ、

>結局あなたの主張がわからないので、
>以下の3択に答えれくれる?
>
>「如何なる振る舞い」の中に、「本当に救われたのだろうか」と思うことは入るか?
>1.入る
>2.入らない
>3.直接言われてないのでわからない


まだよくわかっていませんか。
私は答えます、

「どんな振舞もする」

と。

それは疑心往生になるよ氏へ

>清森氏は高森先生のお言葉をたてに自説を吹聴しているので、
>親鸞聖人の根拠が必要なら清森氏にお尋ね下さい。
>また、あなたの質問は私の言っていることとは無関係です。

私は貴方に対して質問しているので、清森氏は関係ありません。

>『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』

というのは、貴方の主張です。
清森氏の主張ではありません。
これは相伝のない自説ということで宜しいですね。

続き

>まだよくわかっていませんか。
>私は答えます、
>
>「どんな振舞もする」

 貴方も「如何なる振る舞い」の中に、「本当に救われたのだろうか」と思うことは入ると断言されました。

 と書くと、おそらく「本当に救われたのだろうか」と思うことは入るとは書いていない、と反論されるでしょう。

 しかし、そういう言い訳は、日本語の常識からも、論理学からも認められません。

 例えば

『この保険は、自殺でも保険料が出るのでしょうか?』
『どんな死亡原因でも、保険料は出ますよ。』
(その後、自殺が発生)
『どんな死亡原因でも保険料が出ると言いましたが、自殺も入るとは言っていません』

 こんな言い訳は通用しませんよね。

 高森氏の言葉を「本当に救われたのだろうか」と思うことも入る、と受け取るのは当然のことであって、それを違うというならば、常識では理解できない特殊な思考回路で動いている方々と見受けられます。

「それは疑心往生になるよ」様へ

「それは疑心往生になるよ」さん、返信ありがとうございます。

>意味不明なので勝手にどうぞ。

ということですから、ご好意のお言葉に甘え、勝手にさせていただいております。

>>高森先生が仰ってもいないことを、さも高森先生の御教導のように話している あなたは本当に恐ろしいことです。

とおっしゃっておられるわけですが、下記の某掲示板の過去ログにおいて、「高森」と名乗る方が「親鸞会の前身 となる徹信会を立ち上げた」など、自己の体験に基づくと思しき告白調の文書を書き込んでおられることを最近たまたま知り、正直申しましてかなり驚いております。
(下記143、147、160)

そして、「ちび丸」と名乗って書き込んでおられる方も、471さんに対する返信477を読んだ限りでは、下記の「高森」と名乗る方を親鸞会の高森顕徹会長と認め、同調されているように読み取れる発言があります(後述477)。

さて、「それは疑心往生になるよ」様は、「高森」と名乗る方やちび丸氏に対しても、やはり「高森先生が仰ってもいないことを、さも高森先生の御教導のように」話しており、「本当に恐ろしいこと」というご認識はおありになるのかどうかを教えていただきたく存じます。

下記においてちび丸氏が高森会長と認定しているように見受けられるところの「高森」と名乗る方による書き込みは、実際は本物の高森会長によるものではなく、「高森会長と詐称されている方」による「恐ろしい書き込み」と思われますでしょうか?
ちび丸氏やその周辺の方による作文に過ぎないのではないか、という風聞もあるようですが・・

非常に気になりますので何卒「それは疑心往生になるよ」様のご意見をいただければ幸いと存じます。

なお、「それは疑心往生になるよ」様は他のご質問もお答えになることと思いますし、ご多忙と存じますので、お返事は

1)「高森」と名乗る方も、それに同調したちび丸氏も恐ろしいことをしている
2)「高森」と名乗る方は恐ろしいことをしているが、それに同調したちび丸氏は恐ろしいことをしていない
3)「高森」と名乗る方は恐ろしいことをしていないが、それに同調したちび丸氏は恐ろしいことをしている
4))「高森」と名乗る方は恐ろしいことをしていないし、それに同調したちび丸氏も恐ろしいことをしていない

上記1)~4)のいずれかでお答えになってくだされば有難いと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://seaglet.sakura.ne.jp/2ch/1179063729.html#R101
【伝統仏教】マッタリ語ろう親鸞会【浄土真宗】

143 名前:高森 :2007/05/15(火) 12:02:44 ID:RwlF1O8Y
上の体験談の後すぐ、聖教にふれているうちに華光教義の誤りに気づき 夢中で聴聞しましたところ、信心決定しました。 だから18才で信心決定したことにまちがいありません。

教義があやまりなら、体験もあやまりです。 華光教義にだまされ、私も信心決定したという錯覚に陥っておりましたが なんという幸いか親鸞聖人の直の説法により偶々真実の信心を 獲得しました。みなさんも早く真実の水際が立つところまで出てください。

144 名前:次第にその迷雲も晴れ :2007/05/15(火) 12:38:39 ID:Ig/HM3Jx
↑微妙にリアリティがあるのが怖いですね(笑)

「高森」さんにお尋ねします。

華光教義の誤りに気づいたのが18歳なら、なぜ20歳になっても誤りが継続しているのですか?

147 名前:高森 :2007/05/15(火) 13:05:13 ID:RwlF1O8Y
144さんへ

誤りが継続していたわけではありません。 私が親鸞聖人の教えに出会えたのは華光会のみなさま方のお力添えがあったから であり、彼らには感謝してもしたりることはありません。また同じ真宗改革に取り組む 同志と目しておりましたから、なんとか聖人と同じ無碍の一道の世界へ出てもらいたい との思いから教義をただしてもらいたいと伊藤先生に直訴いたしておりました。 ですが、のちの決別が示すとおり先生は化城にとらわれ親鸞聖人の教えを聞き入れてくださ いませんでした。何度も考え思い悩んだ結果、私は私なりの恩返しをしようと親鸞会の前身 となる徹信会を立ち上げたのです。多くの方には話しておりませんが、これが真相です。

160 名前:高森 :2007/05/15(火) 14:49:58 ID:Du9jPyEf
144さんへ

私は伊藤先生を尊敬しておりました。この方こそ現代の善知識だと思っておりました。 教学理解などは私の及ぶところではなく、深く広く多くを識っておられました。この思いは 今でも変わることはありません。私の著作の多くに先生の影響が見られることもこのことによります。 先生は、腐敗した本願寺の坊主が多くいる中で、品行方正にして博覧強記、その存在は際だって おられました。多くの方を教化され、本当に真宗は変わるのではないかと私も夢見たものです。
私は華光会に世界の光となる教えを説く会であってほしいと思っていたのです。 そして、その会長はもちろん伊藤先生しかいないと思っておりました。 先生に聖人の一念の教えについて直訴したときもそうでした。 私は喜々として先生のところへ行き、一念の体験を報告したのです。 親鸞聖人の教えの真髄でありましたし、そのときはとにかく友人や同志よりも一番先に報告 しなければと思ったのです。体験により知らされたことをすべて先生のお手柄にしてしまいたかったのかもしれません。 ですが、先生は私の話に強く印象をうけてくださったものの聞き入れてはくださいませんでした。 そのときの私の当惑は言葉では言いあらわしようがありません。 私はその後何度も先生に直訴談判しましたが、答えは変わりませんでした。 諦めがつき華光会を離脱するまでの間、穏便にすませようと 体験談などはさして事を荒立てないような内容にしていたのですが、 これはみなさんが知っておられるとおり、多くの方の信仰を迷わせてしまう結果となり 後悔しております。やはり親鸞聖人のようにどんな非難があろうとも 真実を説きつづけなければならなかったのです。たとえそれが尊敬する師の意にそぐわない結果に なろうともです。これは私の教訓であり、戒めです。 ですから、このことで皆さまから如何なるおしかりを受けようとも甘んじて受ける覚悟です。
すべては弥陀の計らいの中にありますが、願わくはここにおられる皆さまが一刻も早く 無碍の一道へ出られんことを。南無阿弥陀仏。

471 名前:神も仏も名無しさん :2007/05/19(土) 11:19:56 ID:LBc9Sl/6
>>463
ちび丸さん
>はあ?御自分のことを「顕徹君」と書かれたのですか?
>不思議なことを言うひとですねえ。

この「獲信の記録」というのは、高森先生が華光会におられたときに、自分に縁があって信心頂かれた方の体験談を聞いて、 高森先生が執筆・編纂して、出されたものなんですよ。 ラストには、高森先生の師匠である伊藤氏の座談会の記録が載せられています。

他にもいろんな体験談がありますが、 その内容は、そうですね、 以前「これが獲信か」という華光会批判のパンフレットが出たことがありますが、 そこで批判されている華光会の体験談みたいなのが延々と乗っている、 という感じでしょうか。 コピーが今会員の間に出回っていますので、 いずれはちび丸さんもご覧になられるかもしれません。 (ちび丸さんは会員ではないのでしたっけ?)

私の疑問は、信心決定していたはずの20歳の高森先生が、なんでこんなものを出されたのか、ということなんです。今の親鸞会の話だと明確に否定されるべき信心の姿なのに、 少なくとも20歳の時点ではこんな事を書いておられた、と言うことです。 ほんとに信心決定していれば、かけるはずのないことです。ですから、高森先生の信心はどこかに嘘偽りがあるのではないかと。そういう事を考えているわけです。

477 名前:ちび丸 :2007/05/19(土) 12:50:24 ID:NJmpr8Yx
>>471
それは>>160に書かれてあることです。 どういう行動をその時点でされても、現在ある批難のほとんどは避けられなかったでしょう。 誰も責めることはできないことだと思います。

「それは疑心往生になるよ」さんへ

本願寺系学者さんが書いてくださってるので必要ないかと思ったけど一応。

>>「如何なる振る舞い」の中に、「本当に救われたのだろうか」と思うことは入るか?
>>1.入る
>>2.入らない
>>3.直接言われてないのでわからない
>
> まだよくわかっていませんか。
> 私は答えます、
>
> 「どんな振舞もする」
>
> と。

予想通りの回答ありがとう。

整理しようか。

まず前提として、
本当にわかっているのなら「1.入る」「2.入らない」のどちらかで答えられるはず。

あなたは「1.入る」という意見の清森氏を批判している、つまり
「2.入らない」と主張しているのと同じ。

しかし本願寺系学者さんの言う通り「どんな振舞もする」という高森氏の回答からは通常
「1.入る」としか考えられない(あなたもそう思っているはず)。

上記2つの見解で自己矛盾をおこしてしまっているので、
高森氏の言葉をそのまま言うことしかできない、つまり
「3.直接言われてないのでわからない」
ということでいいよね。

自称福徳会員さんへ

自称福徳会員さんへ、

>布教局長の不倫を揉み消され、M野講師らを粛正処分とした高森先生の三業を見て
>「真の信心を得ていない」と判断するのは間違いですよね?
>しかしながら、一般会員が高森先生の三業を見て、
>「もはや高森先生は真実を説かれる方とは思えない」と感じるのは致し方ないことですよね?
>高森先生が真実の信心を獲ている方でしたら、
>この件も「自因自果、悪因悪果まちがいなし」と味わわれるのでしょうか?
>「如来・聖人に対し、申し訳ないことをした」と懺悔されるのでしょうか?


何か私に同意を求めているのですか?

「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる」
と歎異抄にあります。よく味わって下さい。

本願寺系学者さんへ

本願寺系学者さんへ、

「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。
それをしらせて疑蓋無雑の信楽をさししめさねばならぬ。

と私は書いた。よくお読み下さいませ。
「ひょっと」「薄紙一重」とは古来言われているもので
高森先生が言いはじめられたことではありません。
あなたの言っていることとは的ハズレ。
分かりましたか。

**************************************************************
『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』と
親鸞聖人が直接仰ったお言葉をまずあげて下さい。

2008年05月19日|本願寺系学者

>『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』

というのは、貴方の主張です。
清森氏の主張ではありません。
これは相伝のない自説ということで宜しいですね。

2008年05月20日|本願寺系学者
***************************************************************

これはあなたの書かれたこと。
自問自答はご勝手にどうぞ。

本願寺系学者さんも相伝のない自説を称える清森・上田一派の被害者で
清森氏が吹聴することをまにうけてるから
『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』
などと本願寺系学者さんは主張したり、自問自答したりするのでしょう。
悲しいことです。

おうさんへ

おうさんへ、

私にはよくわかりませんでしたので「ちび丸」さんか「高森」さんに
お尋ね下さいませ。

元sさんへ

元sさんへ、

まだよくわかっておられないようですね。

それはともかく、一つ一つ確認しましょうか。

「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。
それをしらせて疑蓋無雑の信楽をさししめさねばならぬ。

と私は書いた。これは、教家は相手の信仰をみて対機説法しなければならぬという
ことを言っているのである。
それに対して、

***************************************************************
> 「本当に救われたのだろうか」と思うのは意業だが、
> そういう「ひょっとの心」がある人は、まず未信。

「本当に救われたのだろうか」
「ひょっとの心」
これこそが高森氏の言う「我々が思っている疑情」で、
「我々が思っている疑情は疑情ではない」と否定されてるでしょ。

そもそも高森氏は「三業で信心を判断することはできない」と教えてるんでしょ。
あなたの発言は明らかに、三業で信心を判断してるよね。

2008年05月18日|元s
**************************************************************

とあなたは私の書いたことを非難なされた。

説法するときに、相手の信仰を三業で判断して機に応じた話をしてはならない
とあなたは主張なさるのか。

それとも上記の非難は撤回しますか。
お答え下さいませ。

みなみなさまへ

みなみなさまへ、

三業と信心の関係を弄んで玩具にしてはなりませんよ。
それは、真宗の骨目を根本から破壊してしまう危険がありますよ。

高森先生のお言葉が曲げられて流布されている。
三業と信心の関係について、私の耳の底に留る所をつらつら書きましょう。

高森先生は
「未信のときに思っている疑情は、法謗罪」
「三業で信心は計れないが、信心は必ず三業に現れる」
「他人が信心決定しているかしていないかハッキリわかるわけではない」
「知識は、それで信心決定したぞ、と相手の信心を認定してはならない」
と仰られた。
しかし、信心決定した人ではあっても、
「どんな振舞もする、阿弥陀仏の本願を疑うことも入る」
「如何なる振る舞いにはどんなものでも入る、おかしいなあと思う心も入る」
「如何なる振る舞いには、本当に救われたのだろうかと思うのも入る」
などとは仰られなかった。
「如何なる振る舞いには、おかしいなあと思う心も入るか」などの質問にさえ
「どんな振舞もする」というようにしか答えられなかった。

清森君よ、違いますか。

高森先生が
『「本当に救われたのだろうか」と思うのは、疑情ではない』あるいは
『如何なる振る舞いには、「本当に救われたのだろうか」と思うのも入る』
などと直接仰った、と清森氏は主張するおつもりか?
私はそんなこと高森先生から聞いたことがない。
これは清森氏の推量、計らいでしょう、違いますか。

「それは疑心往生になるよ」さんへ

> これは、教家は相手の信仰をみて対機説法しなければならぬという
> ことを言っているのである。

そういう意味なら異論はないよ。非難は撤回するよ。

ではこちらをよろしく。再掲するね。

***************************************************************

>>「如何なる振る舞い」の中に、「本当に救われたのだろうか」と思うことは入るか?
>>1.入る
>>2.入らない
>>3.直接言われてないのでわからない
>
> まだよくわかっていませんか。
> 私は答えます、
>
> 「どんな振舞もする」
>
> と。

予想通りの回答ありがとう。

整理しようか。

まず前提として、
本当にわかっているのなら「1.入る」「2.入らない」のどちらかで答えられるはず。

あなたは「1.入る」という意見の清森氏を批判している、つまり
「2.入らない」と主張しているのと同じ。

しかし本願寺系学者さんの言う通り「どんな振舞もする」という高森氏の回答からは通常
「1.入る」としか考えられない(あなたもそう思っているはず)。

上記2つの見解で自己矛盾をおこしてしまっているので、
高森氏の言葉をそのまま言うことしかできない、つまり
「3.直接言われてないのでわからない」
ということでいいよね。

***************************************************************

「清森君」というからには結構な幹部講師なのかな?
直接言われてないことは十分わかったんだけどさ、
結局は「入る」「入らない」のどちらかが答えでしょ。
信心頂けばわかることでしょ。
親鸞会には信心喜んでいる方もたくさんいらっしゃるだろうから
その方々にでも聞いてみればよろしい。

No title

要するに「事実」と「説法の仕方」との区別が問題なのでは?

獲信しても「疑煩悩」はなくならない(したがって「阿弥陀仏の本願を疑う」という「意業」が起きる可能性がある)、というのは「事実」。

しかし、その「事実」を説法の際に言っても(強調しても)よいかというのは別問題だということでしょう。

聴聞している人が「疑情のあるままで救われる」と誤解して安楽椅子に腰掛けてしまったら大変なことであり、それを壊すのが説法する側の任務なのでしょう。

ですから、説法の仕方としては「獲信したら必ず本願を疑う心が晴れる。もし本願を疑う心がツユチリほどでもあれば、それはまだ獲信していないということだ。」というメンタルテストをすべきなんでしょうね。(それで崩れるような信心なら自力の信心であり、他力の信心ならば「本願を疑う心」が起きても微動だにもしないでしょう。)

そういう意味で、「それは疑心往生になるよ」氏の主張も理解できます。

しかし、清森氏は

「他人が信心決定しているかしていないかハッキリわかるわけではない」

ということを深く理解してもらうために、(危険性を承知の上で)あえて「事実」に触れたのでしょう。(「上田氏は信心決定いない、とハッキリわかる」と執拗に言って教えを曲げる誰かさんがいる以上は、言わざるをえないでしょうね。)

まあ、上田氏の「異安心」を崩すためのメンタルテストは今後もどんどんやったらいいんじゃないでしょうか?(教えを曲げない範囲でね。)

No title

>清森氏が吹聴することをまにうけてるから
>『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』
>などと本願寺系学者さんは主張したり、自問自答したりするのでしょう。
>悲しいことです。
>2008年05月21日 | それは疑心往生になるよ


 やはり、この方は、常識では理解できない特殊な思考回路で動いている方のようです。


『上田氏は「本当に救われたのだろうか」と思っているから疑心往生である。』

 というのが、「それは疑心往生になるよ」氏の主張です。



 その前提には、

『「疑心往生」の「疑心」とは「本当に救われたのだろうか」と思う意業である』

という主張があります。



 「疑心」に、「本当に救われたのだろうか」と思う意業が入らないのであれば、信心決定した人が「本当に救われたのだろうか」と思っていても、疑心往生とは言わないはずです。


「それは疑心往生になるよ」氏は、自分の主張さえ分かっていないのでしょうか…

 これは、貴方の主張に対する質問です。

 まあ、特殊な思考回路で動いている人に、まともな返答を求めること自体が不毛でしたが…

No title

>「如何なる振る舞いには、おかしいなあと思う心も入るか」などの質問にさえ
>「どんな振舞もする」というようにしか答えられなかった。

 つまり「おかしいなあと思う心も入る」ということですね。
 高森氏自ら、「おかしいなあと思う心も入る」と断言したということです。

「どんな振舞もする」とは言ったけど、「おかしいなあと思う心も入る」とは言っていない、というのは常識では考えられない詭弁ですね。

 こんな詭弁が親鸞会では、まかり通っているのでしょうか?

 危険な団体ですね。

 まあ、今回の件で、親鸞会が、非常に特殊な思考回路で動いていることが明らかになりました。



 それとも「それは疑心往生になるよ」氏の独断ですか?

 高森氏は「どんな振舞もする」と言ったのですから、高森氏の言葉を無疑に信じるなら、「おかしいなあと思う心も入る」と信じるべきです。

 それを、「それは疑心往生になるよ」氏は、勝手な計らいを入れて、「どんな振舞いもするが、おかしいなあと思う心は入らない」と変えてしまったわけです。

 清森氏の方が、よほど高森氏の言うことに純粋に、計らいを入れずに従っているように見えます。

No title

> 清森氏の方が、よほど高森氏の言うことに純粋に、計らいを入れずに従っているように見えます。

確かに清森氏は、会長の言うことを計らいを入れずに理解している。
「それは疑心往生になるよ」氏は、会長が「どんな振舞いも」と言っているのに、勝手に「おかしいなあと思う心は入らない」と例外規定を設けている。相伝の無い主張をしているのは、「それは疑心往生になるよ」氏だな。

まあ、何が何でも

上田さんの信心を真実にしたくないのでしょう。
真実の信心を体得されたのは高森氏のみという弱みに付け込ん親鸞会は今まで真実の教えを捻じ曲げて人集め・金集めをしてきたわけだから。
反論があるのであれば私の質問に答えてからにしていただきたい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-114.html#comment262

元sさんへ

元sさんへ、

>> これは、教家は相手の信仰をみて対機説法しなければならぬという
>> ことを言っているのである。
>
>そういう意味なら異論はないよ。非難は撤回するよ。


そうです。
「他人が信心決定しているかしていないかハッキリわかるわけではない」
というのは
「説法するときに、相手の信仰を三業で判断して機に応じた話をしてはならない」
ということではありません。
これで「三業と信心の関係」について、聞き誤りが一つ解消されました。


さて、元sさんへお尋ねですが、

>ではこちらをよろしく。再掲するね。
>
>***************************************************************
>
>>>「如何なる振る舞い」の中に、「本当に救われたのだろうか」と思うことは入るか?
>>>1.入る
>>>2.入らない
>>>3.直接言われてないのでわからない
>>
>> まだよくわかっていませんか。
>> 私は答えます、
>>
>> 「どんな振舞もする」
>>
>> と。
>
>予想通りの回答ありがとう。
>
>整理しようか。
>
>まず前提として、
>本当にわかっているのなら「1.入る」「2.入らない」のどちらかで答えられるはず。
>
>あなたは「1.入る」という意見の清森氏を批判している、つまり
>「2.入らない」と主張しているのと同じ。
>
>しかし本願寺系学者さんの言う通り「どんな振舞もする」という高森氏の回答からは通常
>「1.入る」としか考えられない(あなたもそう思っているはず)。
>
>上記2つの見解で自己矛盾をおこしてしまっているので、
>高森氏の言葉をそのまま言うことしかできない、つまり
>「3.直接言われてないのでわからない」
>ということでいいよね。


どうやらまだよくわかっておられない御様子ですね。
私の答えは同じです、「どんな振舞もする」と。

三業と信心の関係について、元sさんの考えは上記でしまいですか?
せっかくですから思うところをみな言って下さいませ。

本願寺系学者さん、確かに…さんへ

本願寺系学者さん、確かに…さんへ、

主張は、おおざっぱに言って、元sさんと同じですね。

「三業と信心の関係について」の考えはそれでしまいですか?
せっかくですから思うところをみな言って下さいませ。

ついでなのでこれにも答えてください

以下の質問に明確にお答えいただけませんと、「親鸞会のやっていることは人集め、金集め」のそしりを免れないでしょう。さらに集めたお金で、「布教局長が高級車を乗り回し、不倫をしていたのはやはり事実であったのか」と従順な会員さんまでもが思うようになるでしょう。私はそのようなことがないものと切に願います。 追加で質問をいたしますのでそれについてもお答えください。

1.三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。親鸞聖人が万行諸善の仮門におられたときは18願・19願に進もうと思われていたのではなく、体失往生を願われて諸善をしておられたという理解で正しいでしょうか?
『親鸞聖人は「善知識方のお導きにより、今生で19願を離れられた」とおっしゃられているのであり、「善知識方のお導きにより、今生で19願で教えられている諸善を励まれた」とおっしゃられているのではない』という理解で正しいでしょうか?

2.「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」の蓮如上人のお言葉について
親鸞会では『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない。だからこのお言葉が「蓮如上人が善を勧めたお言葉である」』と教えています。『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない』までは同意します。しかしながら、これは善を勧めたお言葉ではなく、『「信心ひとつで助かる」と聞かされても、それでも出てくる「善で助かろうとする心」を捨てよ』ということではないでしょうか?「新たに持ってから捨てなさい」ということではなく、「すでに持っていることに気づいてそれを捨てなさい」という御心と思いますがいかがでしょうか?

3.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。 あくまで18願の救いを求めている機に対してのお言葉をお示しください。

4.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

一応、餌をまいておきますね。(前回はパンフレットのコピーがつれてしまいましたが…)
不倫局長の不倫の実体のソースはちび丸氏(前任の親鸞会ネット対策委員様)も認定している2チャンネルです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1203665818/l50x

認定の2チャンネルではありませんがこっちのほうが詳しいです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6979/1158394190/l50

わかってるよ。というより当時この件にかかわっていた人はわかっていたよ。
だからみなで会長に直訴した。M晴問題は不倫ではなく、善知識継承不可能
な人格、程度の低さ、自己顕示欲、色欲、財欲におぼれ組織を悪用・私物化
ということにあったわけ。しかし、会長の鶴の一声ですべて清算された。

この人の信心は疑情はありますか?

「華光」誌第5巻5号

「学校の伝道部に入り、一意誠らしく話してみたが、真の安心はできない。或る人は信心を戴かない伝道は奇弁だと非難する。それについても私は非常に恥ずかしかった。穴があれば入りたい気もしたが、どうにも私を迷わせただけでありました。名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に、何だか嫌になり、或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていたことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。
はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。

「それは疑心往生になるよ」さんへ

> 三業と信心の関係について、元sさんの考えは上記でしまいですか?
> せっかくですから思うところをみな言って下さいませ。

私は清森氏の「1.入る」という見解がもっとも自然だと思う。
高森氏の華光時代の体験談についても詭弁を弄することなく肯定できるし。

あなたの見解は
「3.直接言われてないのでわからない」
だと受け取ったのであしからず。

私はあなたの見解がわかればそれで結構。
以降返信は必要ないので。
(続きの議論は本願寺系学者さんが対応してくれるかな…と)

あなたが「1.入る」か「2.入らない」かハッキリするところまで
求めきることを念じているよ。では。

元sさんへ

元sさんへ、

>> 三業と信心の関係について、元sさんの考えは上記でしまいですか?
>> せっかくですから思うところをみな言って下さいませ。
>
>私は清森氏の「1.入る」という見解がもっとも自然だと思う。
>高森氏の華光時代の体験談についても詭弁を弄することなく肯定できるし。


「三業と信心の関係について」あなたの考えはこれでしまいですね。
了解しました。

自称福徳会員さんへ

自称福徳会員さんへ、

私は、「三業と信心の関係について」高森先生の仰ったことがネジ曲げられ、
玩具にされているので
真宗の骨目を根本から破壊してしまう危険があるからお止めなさいよ、
高森先生の仰ったことはこうで、
高森先生が直接仰られなかったのはこうですよ、
聞かれたなら、勝手な計らいを入れず、高森先生の仰ったようにお答えなさいよ、
と申しあげている。

あなたの質問は私の申しあげていることとは無関係ですね。
よそでご勝手にやって下さい。

一つだけ申しあげておくと、
真宗に「龍神に救われる」という教えはありません。
阿弥陀仏のひとりばたらきで救われるのです。これが真宗の教えです。
お聞き誤りのなきように。

横レスですが、ちょっと。さんへ

横レスですが、ちょっと。さんへ、

申しあげたいことはいくつかありますが、
方向性としては完全に外れているわけではない。

「三業と信心の関係」について一通り考え方がでそろったら
コメントもすることになるでしょう。

それは疑心往生になるよ-sanへ

ご回答、ありがとうございます。
「清森君よ、」と書かれる上は親鸞会の幹部とお見受けしました。ちび丸氏と違い、相手を馬鹿にするような表現をされず、やっと、まともな方が出てこられたと期待しています。

さて、「私は、「三業と信心の関係について」高森先生の仰ったことがネジ曲げられ、 玩具にされているので真宗の骨目を根本から破壊してしまう危険があるからお止めなさいよ」ということで出てこられたということですが、確かに私の質問は「三業と信心の関係について」からは外れていると思います。

しかしながら私の質問にお答えいただけなければ親鸞会の活動が救われるためではなく、「金集め・人集め」との非難を免れないことになり(なぜかというのは貴殿ほどの方であればご理解いただけると思います)、親鸞会の活動の骨目を根本から破壊してしまう危険があるのではないですか?

それは疑心往生になるよ-sanへ

一点聞き逃しました。

RE:
一つだけ申しあげておくと、
真宗に「龍神に救われる」という教えはありません。
阿弥陀仏のひとりばたらきで救われるのです。これが真宗の教えです。
お聞き誤りのなきように。

これはどういう意図でしょうか?当たり前の話ではないですか?私は今まで「龍神に救われる」と言ったことは一度もありませんよ。どなたかのコメントと勘違いされているのですか?それともからかっているのですか?からかう余裕があるのでしたら本題の質問に早く答えてください。

自称福徳会員さんへ

自称福徳会員さんへ、

>確かに私の質問は「三業と信心の関係について」からは外れていると思います。
>
>しかしながら私の質問にお答えいただけなければ・・・


話がそれてはいけませんのであしからず。

真宗に「龍神に救われる」という教えはありません。
阿弥陀仏のひとりばたらきで救われるのです。これが真宗の教えです。

と私は申しあげましたが、聞き誤っておられないならそれでよいのです。
近ごろは、真宗と称して「龍神に救われる」などと言う者がおるそうなので
注意しただけなのです。それでは、このへんで。

それは疑心往生になるよ-sanへ

返信ありがとうございました。うまくかわされた感じですが、まあ良しとしましょう。というのも、貴殿には人を馬鹿にしたような表現はほとんどありませんし、この件についても、ちび丸氏のように、何も反応せずに逃げて知らん振りというわけではなかったですので。これ以上、深い追求はしません。

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