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親鸞会教義の相対化・63

清森義行様


 いい機会ですので、面白い本を一冊紹介させて頂きます。


===以下引用===
第三章人生の目的と幸福論
一、人生の目的とは何か

(中略)

 幸福になりたいという願望は、われわれの共通した願いであるけれども、幸福というと、また、人々によっていろいろ考えられている。
 あるいは、満足できれば幸福だという人もあり、または、上を見ればきりはないし、下を見てもきりがないから、まあまま幸福のうちだなどと、半分はあきらめきった幸福感をもっているものもある。健康だから、家庭が円満だから、物質的に恵まれているからとかの理由で幸福だと思っている人もある。
 戦前には恩給生活ものは死ぬまで生活を保障されたと思い、また、貸し家をたくさんもっていたものは、老後まで生活の保障と安定がついたと思いこみ、地主も、大資本家も、それぞれそのように思っていたにちがいない。
 しかし、それが、一度大戦争の惨禍をこうむり、まして、敗戦になり、政治的・経済的・社会的な大変動がきた時に、その幸福を持続できたかというと、その反証は、あまりにも明瞭である。
 また列車事故や盗難事故や、さまざまの交通事故の寸前まで、その生命の危険も知らず、幸福だと思っていたものもあるにちがいない。好条件が備わったから幸福だなどと思っている人々は、いつ崩れていくかもしれず、未来は保証されないのである。また人の不幸を運命と思い込んでいる人も、一度それがわが身の上となれば、知らないから、わからないからといって、すまされることではないのである。
 真の幸福とは、そのように、いついかなることが起きようと、外部からの働きによって絶対に崩れるものでなく、自己の生命の内部より、逞しく涌現したものでなくてはならないのである。

(中略)

二、不幸の原因と絶対の幸福

(中略)

 結論していうならば、人生の目的は、絶対かつ永遠の幸福を求めるにある。

===以上引用===

「外部からの働き」によって「崩れる」ことのない「絶対かつ永遠の幸福」・・。どこかで聞いたことのあるフレーズですが、この本は、創価学会教学部編『折伏教典』(昭和26年11月18日初版発行)の一節です。

『折伏教典』は上記の記述に続いて、「その幸福は成仏という境涯であり、この成仏は、末法の御本仏日蓮大聖人の三大秘法の仏法によってのみ得られることを強く強調するものである。」としています。
 それに対して、親鸞会では「成仏」ではなく、「正定聚に入る」「不退転に住す」「無碍の一道なり」を「絶対の幸福」と位置づけ、「この絶対の幸福は、弥陀の本願を聞信するという一筋道をたどって到達できる」としているので、もちろん教義上の違いはあります(※)。

※以下参照
高森顕徹『こんなことが知りたい2』(3)絶対の幸福とは、どんなことか(昭和53年3月1日初版発行)
絶対の幸福とは、どんなことか(親鸞会公式HP)
http://www.shinrankai.or.jp/qa/qa0104.htm

しかし、

1)親鸞聖人が『七箇条起請文』に署名され(※)、『教行信証』で『末法灯明記』を引用され、その直前に「しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗おのれが分を思量せよ」と述べておられるにも関わらず、以下のように他宗や他宗教を批判することを推奨していること。

※以下参照
親鸞会教義の相対化・17(質疑応答71)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-72.html

===以下引用===
釈尊は、この世の最後の説法である『涅槃経』の中に、

「破邪顕正しないものは仏弟子に非ず、仏法中の怨なり」

とまで言われています。真実の仏弟子の任務は邪を破り、正しい仏法を顕らかにすることなのです。これをやらないものは、仏弟子でないばかりか、仏の敵であるといわれています。破邪顕正は、仏教徒に課せられた使命なのです。

【「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで~本願寺と類するものの批難に答える~(15)善知識ってどんな人?(親鸞会への大きな誤解2)(4/6)】
http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/naze15d.html
===以上引用===

2)「十方衆生」=「唯除逆謗の者」→「一切衆生必墮無間」という、正統な浄土門の教えからも、『法華経』のような他宗の所依の経典からも導き出されない、『法華経』の経文を極端に拡大解釈した日蓮聖人の教えのような、特殊な解釈から導き出された論理をドクマ化していること。

※以下参照
親鸞会教義の相対化・28
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

 これらの要素をあわせて考えると、親鸞会教義には、法然上人や親鸞聖人の流れにある浄土門だけではなく、以下の日蓮上人の言葉に基づき、他宗や他宗教に対する排斥を積極的に推奨しドグマ化している団体の影響が、何らかの形であったのではないか思われます。

===以下引用===
涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云。
此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。
南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし。
何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり。
『曾谷殿御返事』
===以上引用===

 それと同様に「絶対の幸福」という言葉に関しても、先行する『折伏教典』に何らかの影響を受けた可能性があったのではないかと私は思っております。

 ただし、「相対的な幸福ではない絶対の幸福」という言い回しを使っているものは、探したら他にあるかもしれませんし、『折伏教典』自体が先行する何らかの文献の影響を受けている可能性もあります。

 したがって、『折伏教典』が直接の元ネタであるかどうかに関しては慎重な検討を要しますので、断言は保留しておきたいと思います。

つづく
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COMMENTS

なんだ「破邪顕正」も「絶対の幸福」もパクリかよw

創●に訴えられたらヤバイんじゃないのww

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