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親鸞会教義の相対化・64

つづき


 なお、「成仏は、末法の御本仏日蓮大聖人の三大秘法の仏法によってのみ得られる」かどうかはともかく、「絶対の幸福」という言葉は、「究極的」なものを想定させるものですから、仏教用語を言い換える際には、あくまで「成仏」を言い換える時に使うべきであると思っております。

 仏教が最終的に目的とするのは「成仏」であり、極楽浄土に「往生」することに宗教的価値があるのは、「往生」した後に「成仏」があるからです。


【根拠】
およそ五種の嘉誉を流え二尊の影護を蒙る。これはこれ現益なり。
また浄土に往生して乃至成仏す。これはこれ当益なり。
法然上人『選択集』11章


 そして、信心決定した結果「正定聚に入る」「不退転に住す」「無碍の一道なり」となるのは、信心決定したことにより「往生」が確定し、「往生」が確定したことによって最終的に「成仏」に至るまで退転しない境地になったからです。


【根拠1】

およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、
彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。
サンスクリット文『無量寿経』願成就文


【根拠2】
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
親鸞聖人『尊号真像銘文』


 従って「絶対の幸福」はあくまで「成仏」を言い換える時に使うべきであり、そのプロセスである信心決定した結果「正定聚に入る」「不退転に住す」「無碍の一道なり」となることを「絶対の幸福」とすべきではないと思います。

 もちろん、信心決定によって得られる境地は、あらゆる条件によっても崩れないものですから、「崩れないしあわせ」ということは可能ですし、「相対ではない」という意味で「絶対」と言うことも不可能ではない気がします。
 しかし、信心決定していても、日常生活に起きる様々な出来事に苦悩したりはしますし、煩悩の雲霧はなおも変わらず存在します。

 一方、「絶対の幸福」という言葉は、「ずっと変わらない至福の境地」みたいな固定的なものと信心決定を勘違いしてしまう危険があります。

 先日、清森さんが、親鸞会が「仏教の目的は信心決定」と教えていることの問題を指摘しておられました(※)。

※質疑応答・128
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-196.html

 これは、「絶対の幸福」という言葉で言い換えるものを誤ったことがきっかけで、教義が仏教本来のものから大きく逸脱してしまった一つの事例であると言えましょう。

「信心決定」と「成仏」(=さとりをひらく)は、『歎異抄』第十五条でも明確に「違う」ものとされています。

===以下引用===
一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

 この条、もつてのほかのことに候ふ。
 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。
 これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。
 いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。
 この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。
 『和讃』(高僧和讃・七七)にいわく、「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ弥陀の心光摂護してながく生死をへだてける」と候ふば、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。
 しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞聖人)の仰せには候しか。
===以上引用===


「信心決定」「往生」「成仏」、それぞれの指す内容が違うことは、浄土真宗においても厳密にされていますので、その違いには十分配慮すべきだと思います。

 仏教語は、一つ一つが膨大な歴史的・思想的背景を持ったものであり、言い換える場合にはそれらをきちんと踏まえる必要があります。

 あえて「正定聚に入る」「不退転に住す」「無碍の一道なり」を言い換えるならば、例えば「崩れないしあわせ」のような限定をかけた表現にすべきなのではないかと思っております。


以上
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清森さんは

「コメントは読んでない」って言ってたぞ。

非公開のコメントしても誰も読めないじゃんw

テスト

文底秘沈

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No title

往生決定と信心決定は一緒のことじゃないかな

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