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質疑応答131

【質問】


○覚如上人の執持抄(真宗聖典P685)に

「さればこの光明の縁にあふ衆生、ようやく

無明の昏闇うすくなりて」

とあります。

遍照の光明に照らされた衆生は煩悩(?)が

うすくなる、という意味にとれるのですが、

この御文についての意味を教えていただけないでしょうか。



【回答】


 ここでいう無明は、煩悩のことです。

 煩悩には「種子(しゅうじ)」と「現行(げんぎょう)」の2つがあると教えられています。

「現行」とは、心口意の三業に現れた煩悩という意味で、親鸞会で教えて頂いた煩悩は、全て「現行」と理解して良いと思います。

 煩悩の「種子」は、現行を起こす元となるもので、阿頼耶識に納まっている、穢れた種子のことです。

 唯識では、信心決定していない人でも、「現行」を伏することが出来ると教えられています。

 そのことを、煩悩がうすくなると書かれているのだと考えられます。三業に現れた煩悩が弱くなる、と理解したら良いと思います。

 ですから、(自覚できる)煩悩が変わらないというのは、信仰が進んでいないということです。

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COMMENTS

No title

>親鸞会で教えて頂いた煩悩は、全て「現行」と理解して良いと思います。
そうか??

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