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親鸞会教義の相対化・66

清森義行様



 先日、「建永の法難」や後におこる「嘉禄の法難」は、「專修念仏の弾圧」であって「念仏への弾圧」ではないということを申し上げました(※)。
 そして、浄土宗をお開きになられたのが法然上人であることを、資料を挙げて「ハッキリ」させました(※※)。

※親鸞会教義の相対化・41
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/category5-4.html

※※親鸞会教義の相対化・65
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-206.html


 今回はそれに関連して、以下の書籍を紹介させて頂きます。

★平雅行著『親鸞とその時代』(法蔵館)

 本書は日本中世研究の第一人者である平先生が、『日本中世の社会と仏教』(塙書房)において展開した論を、講演調で一般向けにわかりやすく書いたものです。

 中世日本の社会と仏教の状況と法然上人の思想史的意義を、広い視野から述べた非常に優れた論考であり、本書に書かれている内容は、親鸞会教義を相対化する上でも大変有益であると思われます。



 中世は武士の時代であり、法然上人の浄土宗開宗にはじまる仏教改革の時代です。
 そして鎌倉時代および中世の仏教は、法然上人の浄土宗、親鸞聖人の浄土真宗、日蓮上人の日蓮宗、道元上人の曹洞宗など、この時代に登場した新しい宗派が多くの人を魅了し、ただちに社会に受け入れられ大きく広がっていった、と私達はこれまで日本史で習ってきました。

 しかし第二次大戦後、中世史の研究、なかでも鎌倉時代の社会の研究が進むにつれ、この長い間、鎌倉時代を理解するための枠組みとして受け入れられたものに疑問が出されるようになってきました。

 その代表が、本書の著者平雅行先生の師匠である黒田俊雄先生です。

 黒田先生は、中世=武士の自己実現の時代という政治史上の図式に異を唱え、「権門体制論」という理論を提唱しています。
 これは、中世とは中央の強い権力が解体していく時代であり、武士(幕府)のみならず、朝廷、大寺院等が「権門」として権力機能を分掌していく時代だという説です。

 さらに黒田先生はこの「権門体制論」の国家像を前提にして

「平安時代に密教が移入されて以来、密教の理論と実践が他の宗派(顕教)にも浸透し、仏教界全体を統合していき、この基本構図は浄土宗などが登場した平安末から鎌倉時代にかけても基本的に変化はなく、こうした密教と顕教の併存を最も妥当なものとみなす体制が、仏教内外で続いていた」

という「顕密体制論」を主張しました。

 つまり、中世日本における宗教界の主流は天台宗を中心とする奈良・平安時代に移入された仏教諸派(教義的には密教および密教化した顕教)であり、これに対していわゆる「新仏教」、すなわち浄土宗などの改革派は社会的にはあくまでも少数派でしかなく、これを中心に中世社会を考えるべきではないというのです。

 この「顕密体制論」は、仏教史研究者や中世社会の研究者に受け入れられ、
 その後、顕密体制論に基づいて多くの新しい研究が登場し、平先生も本書の冒頭で、顕密体制論にいたる仏教史研究の歴史をうまく要約しておられます。

 平先生による「中世仏教」の定義は以下のようになります。

>>>
「私たちはこれまで、法然・親鸞・道元・日蓮の思想を中世仏教と位置づけてきました。しかし中世社会に受け入れられなかった思想、広まらなかった仏教を、中世仏教と呼んでよいのでしょうか。
 もちろん、「中世仏教」という用語の使い方は研究者によって様々です。でも私は、それを中世法・中世都市・中世家族・中世文化などと同じ使い方をすべきだと思います。中世で一般的かつ支配的な法を中世法と呼び、中世で一般的かつ普遍的な文化様式を中世文化と呼んでいる以上、中世でもっとも浸透した仏教こそ中世仏教と呼ぶべきではないでしょうか。
 つまり顕密仏教こそが中世仏教であり、これが鎌倉時代の中核なのです。
 これまでの鎌倉仏教論でほとんど取りあげられなかった旧仏教が、鎌倉仏教論の中心となったのは、こうした考えに基づいています。
 しかもそれはただ単なる論理的要請によるものではなく、むしろ顕密仏教を中世仏教の中核と捉えた方が、中世仏教の実態を無理なく説明することができるという研究者の実感に支えられて、位置づけが大きく変わったのです。」(pp.12-13)
>>>


 平先生は、このように中世仏教を研究する上で「旧仏教」として軽視されてきたものを研究することの重要性を指摘した上で、旧仏教が質的転換を果たし民衆化を果たしたことを明らかにしています。

 古代の律令体制は今でいう「大きな政府」であり、僧侶も国家公務員で経済的に安定していたが同時に勝手に僧侶になったり民間に布教してはいけない等、規制も厳しいものでした。

 しかし中世の王朝国家体制は「小さな政府」であり、規制緩和・民営化・地方分権が行われました。そして国家の仏教政策も変わり、寺院や宗派は自主的運営に委ねられ民営化され、同時に規制も緩和されました。

 そのため仏教も競争の時代になり、古代仏教は中世化・民衆化することになったのです。

 これまで旧仏教の腐敗と堕落の象徴と考えられてきた強訴(ごうそ)は、国司や武士に対する民衆の抵抗運動という側面が非常に強く、旧仏教の僧侶たちが地域社会のなかにおいて民衆の不満を汲み取って抵抗を組織していったもので、これが政治面における旧仏教の中世的発展の原動力になっていったというのです。

 そして旧仏教は貴族仏教という枠に留まらず、教義面においても民衆化を果たしています。

 十世紀に著された『阿弥陀新十疑』は、延暦寺のお坊さんの一種の教科書として作られたものですが、その中に、

「未断惑の凡夫も、念仏の力によりて、往生することを得るなり」

という文章が出てきます。

「未断惑の凡夫」・・つまり煩悩を断ち切ることのできない普通の人々でもお念仏の力によって、極楽浄土に往生することができると書いてあります。

さらに、

「十悪五逆を造るの人も、臨終の時、心念あたわずと雖も、口に南無阿弥陀仏と称するによりて、往生することを得るなり」

「十悪五逆」、つまり親を殺すとか、僧侶を殺すなどといった、仏教で最も重い罪を犯した人であっても、臨終の時に南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土に往生できるとも書いてあります。

 また十二世紀末に真言密教の教えを集大成した『覚禅鈔』でも阿弥陀仏の項目に、

「十悪五逆、なお引摂に預かる」

とあり、天台宗だけでなく真言宗でも十悪五逆の者が阿弥陀仏に救済されると言っております。

 さらに法相宗の僧侶である貞慶が、「地蔵菩薩は善人よりも悪人をまず救済する」という悪人正機説を口にしています。貞慶は「興福寺奏状」を提出した張本人であり、法然上人と敵対関係にある立場の人ですが、そのような立場の人によって悪人正機説が主張されているのです。

 さらにこうした仏教界の常識は世俗世界にも浸透しており、藤原宗忠という中流クラスの貴族が、1120年2月12日の日記において、

「弥陀の本願は重罪人も棄てざるなり。これによりて往生の志ある人は、ただ念仏を修するべきなり」

と述べています。

 さらに京都で流行していた今様の和歌を集めた『梁塵秘抄』には、

「弥陀の誓ひぞ頼もしき十悪五逆の人なれど一度御名を称ふれば来迎引接疑わず」

 阿弥陀仏の誓願は頼もしい。十悪五逆の人であっても、たった一度、南無阿弥陀仏と称えたならば、阿弥陀仏が来迎して必ず極楽浄土へと迎え取ってくれる。それは疑いようのない間違いないものなのだ。

 そのように民衆が歌っているというのです。『梁塵秘抄』は1169年以前に編纂されているので、この歌はさらにそれ以前に成立したものです。

 法然上人が浄土宗を開くのが1175年、唯一の著書『選択本願念仏集』を執筆するのが1198年です。

 これら旧仏教の達成した仏教の民衆への開放を紹介した上で、平先生は、

>>>
 私たちは法然や親鸞の思想を、「どのような悪人であっても念仏を称えるだけで極楽往生できる」という教えと概括しがちですが、しかしこうした思想は彼らの独創でも何でもありません。

 顕密仏教がそれを語っていましたし、法然が活躍する以前に、また親鸞が誕生する以前の段階で、京都を中心とする民衆の世界で流行歌として謡われるほど流布していたのです。

 従来の研究は、こうした顕密仏教の質的変換を見逃してきました。仏教を民衆に開放し、救済の手をさしのべるという課題は、法然や親鸞が達成したのではありません。彼らが活動する以前の段階で、顕密仏教の手によってすでに実現されていました。

 法然らの画期性を仏教の民衆解放に求める議論は、根底から崩壊したと言わざるを得ません。
(p.22)
>>>

と述べておられます。

 その上で、法然上人の思想的意義を別に部分に求めておられるのです。


つづく
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