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親鸞会教義の相対化・68 (投稿)

(投稿)
つづく



 最後に、法然上人が対決した旧仏教の教義と親鸞会教義の共通点を2点挙げておきたいと思います。


1)「後生の一大事」=「必墮無間」という教義によって、不当な罪業観で民衆を苦しめています。

 しかもこれは、親鸞会という特殊な組織でしか通容しない「文化」であることは、既に私や清森さんによって証明済みです。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-91.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-92.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-93.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html


2)法然上人が、現世における宗教的平等性を主張したにも関わらず、親鸞会では、「わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機」「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」という資料に基づかない主張を行っています。

 そしてさらに、「高森先生は特別な方」という、法然上人が示された宗教的平等性を著しく逸脱したドグマを主張するに至っています。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/category5-5.html


3)法然上人がお示しになられた、「阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す」という阿弥陀仏の本願の行よりも、親鸞会では「聴聞」「財施」が強調されています。

 これは、結局、阿弥陀仏の本願に適った生き方をすることよりも、高森先生や親鸞会に都合がいい生き方をすることを、会員に勧めているとしか思えません。

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 もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

 もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

 もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 少ししか見たり聞いたりしていない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
 少ししか聞いていない人は甚だ多い。

 もし戒や律をきちんと守ることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

 この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
 以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

 だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
 平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
 仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
 極楽浄土に往生するための本願にせずに、
 ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
by.法然上人『選択集』第三章
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 こんなことでは後生の解決どころか、この世の事すら解決出来ないではないか、情けない。それどころか又、会費があがったとか、又お金を集めるとか、思ってはならぬ心がムクムクと出て来ます。財施をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心が出て来ます。
【顕正新聞昭和44年5月】

 思えば我々親鸞会々員が今日こうして生まれ難き人間界に生を受け、聞き難き仏法を聞かせて頂いているのも阿弥陀仏、そして高森顕徹会長先生ましませばこそである。いわば世界中で最高の洪恩を蒙っている幸せ者である。ところが我々は、受けた恩徳は無量であるのに返す財施は限りあるどころか雀の涙ほども出来ない横着者であるこれでは助かりようがない。
【同紙昭和45年5月】

 どうせくだらんところにしか使わない金だ。それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、これが真の仏法者の務めである。何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。(中略)親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。
【同紙昭和53年10月】

「もういい加減な求道はできません。何としても今生で信心決定するため、新本部財施に命をかけます」
【同紙昭和61年6月】

 財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。家や田んぼを売っても損はしないのです。計算して財施するというのは嫌々ながらやることです。そうではなく、喜んでお金を出す。それが喜捨なのです。家を売っても、アパートで生活すればいいのです。喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)
【米本和広著教祖逮捕p165】

 金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
 自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
 この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
 法もまた財なり、財もまた法である。(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)
【顕真平成15年9月】

http://shinrankai.mondai.nukenin.jp/naze2.html
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悲願の法城(親鸞会の集金ビデオ)再掲
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2008/05/post_2ae0.html


それねぇ、人にこう、あの、お金でもモノでもあげると、
人のもんになる風に思うでしょ?
これ全然違うんです。
あげた者のモノになるんですよ。
だから絶対損にならないんです。
ドンッ、ドン、あげたらいいんですよ。
ゼッッタイに、あの、損しないから。
だから喜んで捨てなさい、喜んであげなさいちゅうことで
喜捨と言われるんですよ。
喜ばにゃならんのですよ?
人に物をあげる。特に仏法に布施をする。
これはもう、イッチバンの善ですから、
だからその、もう喜ばにゃならんことなんですよ。

あの人は、あんだけしか出されんのに、私あの人よりも
何で余計出さにゃならんやろ、って
トンデモない話ですよ!そりゃ
喜んで・・・・出さなければならない。
みんな自分の物になるんですよ?
絶対、人のモンにならないんですよ。
で、それが自因自果ということですから、その、やはり
自因自果という因果の道理がワカランところから
食堂なんか行ったらね、千円でも二千円でも、安いね
ここの店は、って出しても、仏法のためになら
千円出すときに、あの人、五百しか出してらんのに、
私、ナンデ千円出さんな・・・
まるで損するように思うでしょ?
これ、ゼンッゼン因果の道理がワカッテナイ
っちゅうことですよ、仏法ワカッテナイっていうことですよ。
その人の信仰はその程度や、っちゅうことですよ。
絶・・・対、損にならないですよ。
その喜捨した、何ジュウ倍戻ってくるからっ。
私なんか、何百倍戻ってくるとりますよ。
そんなちょっとやそっとじゃないですよ。だから、
ヨロコンデ・・・あげればいいんですよ。
ヨロコンデあげなきゃならんことですよ。
ヨロコンデ捨てる・・・仏法のために
これが中々ワカランのやね。因果の道理が、
あの、ワカラナイ、ワカッテないから。
絶・・・対に損しないんですよ。布施をして。

もちろん、その布施をする相手ぇ間違ったらダメですよ。
これ、いつも、皆さん、あの、お聞きのとおり。
ちゃんとお釈迦様は、どーゆう相手に布施を、せよ
と教えておられるから。
こりゃいつも聞いておられるとおりですから。

だから・・・そのうえでですよ、布施をして施して
損ということは、絶対ないですよ。

家も田んぼも畑もゼンブ売って、仏法に布施してでも、
絶対に損はないです。
明日からどこで住めば、
そりゃアパートへ入りゃいいんです。
絶対に損はないです。

だから喜んでさせてもらわなければならないこと
なんですから、喜捨と言われるんですが
まるでね、税金かなんかとられるようなこと思っとったらね、
ゼンゼンそりゃ布施と違うんですよ。
これは、あの、喜捨でないんですよ。
税金ちゅうのは国家権力が、ね、無理やりに・・・・
奪い取っていくんですから、もし税金払わんものあったら
こりゃもう、酷い目に会わんにゃならんのやから、
それが嫌ややで、仕方っ無しに出しとんのが税金なんだで。
布施というのは喜捨というのはそんなもんでないんですよ
・・・・・・・・・なっ、国家権力っというもの、そういうものに
恐れて出すんのと違うんだから。わが身のために出すんですから
自分が、けっ、自分がよい結果を得るために
種を蒔くんですから・・・・種蒔くところが無かったらね、
大根もニンジンもできてこないんやからね、
畑へ感謝しなきゃならないですよ?
いくら大根の種持っとったってね
蒔く畑が無かったらね、大根とれねぇんだから・・・・・
私たちは最高の仏法という宝も、タカッ、
仏法というハタケ持っとるんでしょ?
その仏法というハタケに種を蒔くんですよ。
・・・・そしてそのハタケからできてきたものゼンンンブ、
自分のもんになるでしょ
ハタケのもんにならないんですよ
・・・・・・・・・・ここがまるでね、ハタケへ種蒔くと、
その、種も、その種からできてくる大根もニンジンも
みんなハタケのもんになるように思っ、思うからね。
・・・こりゃ、全く間違いで、因果の道理、いわゆる自因自果
・・・これがゼンゼンわかってない、信じられてない、ということですよ。
・・・絶対損はないですから
・・・・ドンドン、ドンドン、仏法のために財施、喜捨すれば
するっ、ほどいいんです。大変に幸せなことなんです。
得するヒトは、ね、幸せになるヒトは、そうするヒトなんです。
これが善因善果自因自果。
その逆が悪因悪果自因自果ですよ。
欲ばっかりして、ね、出すのは、仏法のために・・・
舌出すのもイヤやと。そんんなことしとるから
ダンダン、ダンダンお金も来ないし、物にも恵まれないし、
全部詰まってくるんですよ。
お金にも物にも恵まれたかったならば・・・ドンッドンッ、
喜捨をすることです。布施をすることです。
そうすれば全てに恵まれるから。
それをね、もう、出来るっだけ仏法のために
出さんように、出さんように、ね
それで、なにもかも恵まれないんですよ。・・・・・・・・・・・・・
その考え方を、ね、ヒックリ返さなかったらっ。
・・・・・・・・・それがそのね、仏法の根幹である
因果の道理をどれだけ、あの、わかっているか、
信じているか、ということなんですよ。
だから信仰が進めば、必ず、進めば進むほどそうなるんですよ。


まぁ、この方だけのあれに答えておられませんから。
「御喜捨の心掛けと因果の道理について、聞きたい、今一度聞きたい」
ということで、今こう話しとるんですよ。

「収入に対して計画を立てなかなか喜び喜びさせていただくことが」
これね、計算しとったらもう絶対出せないですよ、仏法に。
・・・・これだけ出したら、あとこうなってこうなって、こりゃ足らんぞ。
これだけ余ると、余っただけで大体こうかと

そんんなの、アカンですよ。

何しろね、そういう計算を捨てるの!
計算を捨てさせんの。
そして、因果の道理のみを信じるわけ。

こんな計算しとるからね、絶対ダメなんだ。
余って出るはずねぇもん。
余ったら全部銀行やっちょる。(聴衆笑い)
銀行はこれで持ってくるならもういわんからね集めたろうかね。
んなもん、どうして仏法出すカネが出てくるんや
計算しとったら。
そんなことないドンドン、御喜捨しなさい。ドンドン、
あの、布施をしなさい。
それはだぁ~れのモノにもならないんです。
アンタのモンになるんです。結果は。

あのぉ~、みなさんが財施をせられたのは
ワタシのもんになるなんかってね、
クダラン心配しなさんな。(聴衆笑い)
私は倍にして出しとるから。
みん~な、出したアンタのモノになります。
私が布施をしたらワタシのモノになるんです。結果は。
アンタらの布施したモノを私が拾ったれっていうたら、
私がね、ヒン、貧乏になるだけです。
出す人が豊かになるんです。
出せば出すっほど豊かになっていくんです、し、
幸福になるんです。
そこ入れりゃ、入れるっほど不幸になるんです。
そういうことです因果の道理ってのは。

だから「収入に対して計画を立てる」

立てなさんなこんなモン(聴衆爆笑)

なにしろ、喜んで出しなさいっ、ねっ。アンタね、
幸せを欲しかったら出しなさいっ
ということです。

私はね、世間のヒト見とっと、ほんとにね、
なんと気の毒というか、ね、ちょっ、大根が出ん大根が出んっちゅうに。おい、蒔いたか種?(聴衆笑い)
ゼンッゼン、大根の種、蒔いた、蒔かんとって、
大根が出ん、大根が出ん、言うとんねん

キチガイかい!ってオマエ

畑行ってね、まだ大根が出ん、まだ大根が出ん、
言うとんねん
何時タネ蒔いたんやオマエ、何も蒔いとらん
蒔かんモンが出るかっちゅうの!
蒔きなさい、必ず出てくるから。人に施しなさい。
人に親切しなさい、必ず恵まれるから。
逆にはならんのだから。アンタのために蒔くんだで。
アンタのため、自身のために出すんだて。
そういうことがね。あの因果の道理ということです。

いくらそういうてもね、ん~、なこと言うたって中々ちょっ、
計画を立てんとおれるかとそん~なこと言う、思っとる
もんバッカリだから、貧乏なもんバッカリなんだわ。
苦しんどるもんバッカリなんだわ。
私の言うとぉ~りにやってごらん。
因果の道理に・・・従ってやっててごらん。
みんな幸福になるんです。
それ、やるかやらんかダケです。
信ずるか信じないかのダケです
信じて実行するかしないかダケです。
私はやっただけっす。そら私のためです。ね
>>>


 これが同じ浄土門の教えであるとは、私には到底思えません。

 清森問答をご覧の皆様は、自分が聞いている教えが本当に法然上人や親鸞聖人にさかのぼる教えであるのか、自分自身で検討を加えることをお奨めいたします。
 さもないと、「浄土門」という看板を出しながら実際はそこから遥かに逸脱した教えを説く人物や団体に、都合の良いように利用されてしまうことになってしまうのではないかと思います。

 もしもそれが正しい方向であるならば問題ありません。しかし、阿弥陀仏の本願にも釈尊や法然上人や親鸞聖人の教とも違った教えであれば、正しい方向に進んでいるという保証はどこにもないのですから・・。



以上
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COMMENTS

No title

おっしゃることはよくわかります。
学生部あがりの自分の意見を述べさせてもらいます、私が親鸞会に入った経緯は以下のようなものでした

①「仏教なんか」に無関心な学生が、

②「実はこんな教えが仏教なんだよ」という話に共感し
 (仏教という概念自体を高森教から受け取っている、
  そういう意味では仏教(=高森教)を聞いている)

③「釈尊がこれ一つ説かれた真実を聞いている
  最高無上の幸せ者です」という発言を飲み込めるようになり
  (高森教を信頼するようになってくる。また仏教=高森教という主張が効き、
   伝統仏教だから大丈夫!と信頼へのハードルがさがる)

④「この真実を知りながら、いたずらに生涯を終えては、千載に悔いをのこすぞ」
  との脅迫感念が固まり、献金、勧誘、集会参加に駆け回る
  (仏教のブランドを背景として、高森教に人生を預けることへの疑い
   が弱くなる。会から抜け出れない状況となる)

親鸞会を信じるプロセスは以上のようなものです。「お釈迦様の教え」、「親鸞聖人の教え」というのは上のプロセスに付け加えられたアクセントのようなもので、メインではないのです。
今にして考えれば、高森教を信じていたのであります。「高森教=仏教」という理屈が加わることで、高森教にブランド付けをしていたのです。教義の相対化によって、このブランドは剥げたわけです。(高森教は、お釈迦様の真意をそのまま教えている!というブランドをやたらと強調していましたから、高森教から受ける精神的な圧迫感は弱まりましたw)

しかし、スタートは「高森教を信じた」というところであり、「高森教=仏教」とは、より信じ易くするための一要素ですから、いまだ「高森教を信じた」という問題は解決されないのです。(学生部の勧誘をした人は分かるでしょうが、高森教を話すと案外うなづいてくれる人が多いのです。「そんな教えが仏教とは、知らなかったわ」と好意的な反応は少なくありません)
高森教とは玉石混合(玉は言いすぎかもしれないが、まあ仏教から引用した話などです)で信じさせた後に石(勧誘、財施、集会、命がけの本尊の取扱い)を強調する団体でした。部分的に見ればイイ話も聞いた、というのはその通りなのだろうと思います。ただそれは人生をなげうつような「真実」などでは無かった。

いまにして思えば、今の人生を捨てて、来世の幸せを掴もうとするような「真実の法」にひっかかったのが自分の未熟だったと反省します。またそういう勉強が出来たようにも思えます。真実とは現在にも未来にも生きつづけているものであり、現在に目をつむり感じることも出来ない未来のみを語る「真実」などは「空想」と大差ない、それを知ったことでヨシとしようと思います。

ドラゴンさんのコメントに?

>それは人生をなげうつような「真実」などでは無かった。
これは、「仏教全体に対する批判」ですよね?

No title

> >それは人生をなげうつような「真実」などでは無かった。
> これは、「仏教全体に対する批判」ですよね?

???
仏教っていうのは、人生を素晴らしいものにするための教えではないの?
その肝心な人生を「なげうてっ」ていうのは高森教でしょ。

「仏教」=「高森教」と思っている人がいるから、こんな批判がでるんでしょうね。

No title

私自身は、「人生をなげうってでも求めるべき真実を教えるものが真の宗教であり、仏教だ!!」という考えを持っていました。
「真実を求める」という言葉から連想されるのは、達磨大師の修行であり、慧可、慧春の自分の肉体の傷つくことをも厭わない修行への姿勢でした。
そういうイメージを基礎として、この考えに対しほとんど疑いのない自信があったのです。
世界を現世と来世とに分けて、来世の存在こそが極大であり、比較して極小となる現世を捨てるべきものと見る考えです。親鸞会教義で言えば、八万劫中大苦悩に対する100年足らずの人生ということです。
仏教全体というものも、これと同様の視点だろうと確信を持っていました。

しかし、成住壊空の真理からすると、今の人生を仮と見るのは良いとしても、来世たる地獄の生を不壊の一生のように考えているのはどうなのか?と感じるのです。人の生も地獄の生も仮の世と見て、それらの成住壊空の流れを、大局として見たところから生まれる発想が、仏教であろうと思うのです。
すると、二度と浮かぶ瀬の無い無間地獄に恐怖することも、また、常住不壊の極楽に執着することさえおかしく感じたのです。
今から切り離した世界の空想でしかなかった地獄極楽の話から、今ある私自身の存在に向きあうことで、過去の十数年には無かった現実感を感じました。真実とは来世にあるのではなく、今もこの時ずっとあるものであり、「真実を求める」というのは、今のこの体でそれを感じることなのだ、と思ったのです。
こういう意味で、「人生をなげうって」しまっては真実にはちかづけないと考えるんです。

No title

「まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、」
という教え方に弊害があるということでしょうね。

No title

> 「まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、
> 人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、」
> という教え方に弊害があるということでしょうね。

それは単に、この世の儚さ(無常)を教えられたお言葉であって、
「この世の幸福を犠牲にして求めなければ救われない」
などという意味のことを蓮如上人は仰っていません。
親鸞会が勝手にそういうふうに解釈して利用しているだけです。
つまり、蓮如上人の「教え方」に「弊害がある」のではなく、
親鸞会の「解釈の仕方」に「弊害がある」のです。

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