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質疑応答135

【質問】


愚禿鈔の
『本願を信受するは前念命終なり』
『即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る』
について、

「後念即生」とは、『無明の闇が破れた一念』で、
『一念で死んだ心(前念命終)が信楽の心に生まれる』
という理解で正しいでしょうか?

『前念命終なり』で「命が終わる」と言われている「命」とは、
どういう意味なのかということと、
『後念即生』の「生」とはどういう意味なのかということを
教えて頂きたく思います。



【回答】


 これは、善導大師の「前念に命終して後念に即ちかの国に生ず(往生礼讃)」という御文を、親鸞聖人が解釈されたものです。

 かの国とは浄土のことで、浄土門では一般的に、死んで浄土に生まれ、浄土で修行し、仏に向かってゆくと解釈されています。(命=肉体の命)


「浄土にいるのは仏ではないのか?」と思われるかも知れませんが、浄土三部経を読めば分かる通り、弥陀の浄土にいるのは声聞と菩薩です。

 浄土は、仏になるために修行する場所なのです。


 親鸞聖人は、この「前念命終後念即生」を生きている時と解釈されています。だから、不体失往生と言われます。

 この「浄土往生」が、「信楽」なのかと言いますと、そう読める所もあり、そう読めない所もあります。どちらとも断言しかねます。

 浄土=信楽なら、「命」は疑情となりますが、浄土≠信楽なら、「命」は煩悩になると思います。

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