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質疑応答139

【質問】


今回は、「若不生者」の『生』が「信楽に生まれる」という意味
なのかどうかは別として、
十八願を「信楽にしてみせる」という誓いだと言っても
かまわないかどうかの確認であります。

"『至心廻向』とは名号と願生彼国の2つを与えるという事だ"
というのが「成上起下」。

この「名号」は、頂けば「信心歓喜」であり信心歓喜は
イコール『信楽』ですよね。

========================================
『至心回向の四字は、成上起下とならうなり。成上と云うは、
かみの信心歓喜を引き起すこと、法蔵因中の至心より生ず。
起下というは、しもの住不退転の前途を達すること、
また至心に回向したまえる如来大悲の無縁の慈悲より
成ぜらるるものなり』(願々鈔)
========================================
この解説を山辺赤沼の教行信証講義では、

-----------------------------------------
此の説の根底は、如来の大悲回向を示すにある。
即ち信心も往生も、皆如来の与え給う所に外ならぬ。
(~乃至~)
至心回向が中間にありて、信心と往生を.私共に与える
という説である
-----------------------------------------

とあります。

「信心(信楽=名号)」と「往生」を与える、ということは、

もちろん十八願に「至心信楽した人を、浄土往生させる」と
誓われてある通り『往生』を与えられるということですが、

同時に、「信楽(名号)を与える」という誓いが十八願に
なされているということになると思います。

しかし本願文だけでは、「往生させる」という誓いは分かりますが
「信心(信楽=名号)を与える」という誓いなのかは分かりません。

十八願成就文を聞かせて頂いて、はじめて明らかに知らされる
ことだと思うのです。

ですから、本願文では「信楽にしてみせる」という誓いではなく
「至心信楽した人を、浄土往生させる」という誓いだけだと
理解してしまいますが、

十八願成就文を物差しとして本願文を聞かせて頂くと、
十八願というのは、

「至心信楽した人を、浄土往生させる」だけではなくて、
「信楽をあたえる」つまり「信楽の身ににしてみせる」
という誓いも含まれていると理解できると思うのです。

ですから「成上起下の義」からいえば、十八願を
『信楽にしてみせるという誓い』と言っても、
間違いにはならないと思うのですが、如何でしょうか?

(「往生」は、信楽の身になればできるので、往生を信楽に
ふくめてしまって、弥陀の誓いを「信楽にしてみせる」と
表現しても問題ないと思うのです)


どうぞ宜しくお願い致します。



【回答】


18願の「浄土に必ず生まれさせる」という御約束に、相応した身になったことを信心決定というのですから、18願のお陰で信心決定できるというのは当然のことです。

だからといって、18願を「必ず信楽にしてみせる」と言ってよいという理由にはなりません。



例えば、お父さんが、子供に「100点を取ったら、必ずゲームを買ってあげる」と約束したとします。

子供が頑張って勉強して、100点を取りました。

この瞬間に、子供は「ゲームを買ってもらえる身」となります。

子供が「ゲームを買ってもらえる身」となれたのは、お父さんの「ゲームを必ず買ってあげる」という約束のお陰です。

だからといって、お父さんが「必ず100点を取らせてみせる」と約束したことになるでしょうか?

もちろん、お父さんも、子供が100点を取れるように、一生懸命勉強を教えたと思います。しかし、「必ず100点を取らせてみせる」と約束したわけではありません。


同じように、阿弥陀仏は、私たちに、「信楽になったものは、必ず浄土往生させる」と約束されています。

そして、私達が信楽になれるよう、常に働きかけてくださっています。

だからといって、18願を、「必ず信楽にさせる」と言い換えて良いものでしょうか?

理屈から考えても、そうはならないと思います。


また、善知識方も「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と解釈されています。誰一人「信楽にしてみせる」と解釈されている方はありません。

ですから、私達が18願を「必ず信楽にしてみせる」と理解してしまうと、善知識方の理解と、私達の理解が異なることになってしまいます。

そんな無責任な説き方を、私は出来ません。


もし、どうしても、「信楽に生まれさせる」と言いたいのであれば、「これは私の味わいであり、善知識方は、誰もこのように教えられていませんが…」と付け加えて説くべきだと思います。

それなら、構わないと思います。




> (「往生」は、信楽の身になればできるので、往生を信楽に
> ふくめてしまって、弥陀の誓いを「信楽にしてみせる」と
> 表現しても問題ないと思うのです)


信楽の身になれば「往生」できるのは、なぜですか?

阿弥陀仏が18願に「信楽をえたものを、必ず浄土往生させる」と誓われているからではありませんか?

まるで、信楽にさえなれば、オートマチックに浄土に往けるように勘違いしていませんか?

信楽をえた人に、阿弥陀仏の願力が働き続けるから、浄土往生できるのです。

浄土往生まで、必ず進ませるというのが18願の誓いであり、そのお力が、いわゆる「若不生者の念力」なのです。


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COMMENTS

子供が100点を取れたのは、親の教育・指導の影響も大いにありますが、子供の才能・努力によるところもあります。
私達が救われるのは、阿弥陀仏のお力であって、私の力は一切足しにならないはずです。この例えに関しては、珍しく清森さん本質を間違えていませんか?

当益

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」 と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

「摂め取って捨てない」の勅命の届いた即時を信心といい、その信心の成立したと同時に、 摂取不捨(摂め取って捨てない)のご利益にあずかるお法が、親鸞様のお勧め下された浄土真宗であります。

No title

>浄土往生まで、必ず進ませるというのが18願の誓いであり

このような理解は、本願成就文のお釈迦様の教えに適っているのでしょうか?

清森さんの18願の教説を、本願成就文を根拠にして、説明して頂けたら有難いです。

No title

>私達が救われるのは、阿弥陀仏のお力であって、私の力は一切足しにならないはずです。この例えに関しては、珍しく清森さん本質を間違えていませんか?

「たとえは一分を表す」って知ってる?

例えは一部分だけを表します。ところが、ここを間違えては絶対にいけないという箇所があります。
絶対他力と半自力半他力の例え話知っておられますか?
子供は例え目の前にニンジンつり下げられたって、いつも0点とってる子なら百点満点はとれませんよ。

慎重に

そうですね。
ここは、清森さんが、悪知識になってますね。
清森さんの回答は、間違いだと思います。
誤解を招きますから、弥陀の本願を説くときは慎重に正確にしていただきたいと思います。

清森氏の主張は?

清森氏は、十八願には現当二益が誓われているのではなく当益だけが誓われていると
解釈しているのですか?

それなら清森氏の間違いでしょう。

十八願には現当二益が誓われており、十八願成就文は現当二益の成就。

清森氏も十八願には現当二益が誓われているという解釈なら、
ただの言い回しの問題にすぎないのではないですか?


『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

阿弥陀仏が信楽の心を回施なされるのに「信楽の心にしてみせる」という約束が
十八願にはないというのはおかしくはないでしょうか。


『欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 欲生釈)

論主のいわれた一心をひらけば至心・信楽・欲生の本願三心になります。
欲生とは、阿弥陀仏が諸有群生を招喚なされる勅命ですから
「欲生の心に必ずしてみせる」という約束が十八願です。
これは十八願を「必ず信楽の心にしてみせる」というお誓いというのと同義です。

しかし、十八願に「必ず報土往生させてみせる」という約束がないというのではないのです。


『まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、
竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
ゆゑに便同といふなり。
しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、
すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。
これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、
不可思議の本誓によるがゆゑなり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類)

大般涅槃は当益です。
浄土には化土といってすぐには仏果を得られない浄土もありますが、
この『大般涅槃を超証す』は報土(極楽)往生のことで、
臨終一念の夕べに往生即成仏してすみやかに無上妙果を得て
還相の活躍になります。

喜悟信の三忍の心とは信心決定の心ですが、
信心決定した人は、かならず現生に十種の益を獲る。これが現益です。

『不可思議の本誓』とはいうまでもなく王本願・第十八願のことです。

現当二益は、第十八願によるのだと
善知識の親鸞聖人がおっしゃっておられるではないですか。

No title

私は「質疑応答138」のコメント欄に「B」というHNでコメントした者です。
このコメント欄の2番目にも「B」という人がコメントしていますが、
それは私ではありません。紛らわしいことはやめて頂きたいものです。

なお、ここでの議論についても、「質疑応答138」のコメント欄での今日の私のコメントが答えになると思います。

No title

>>清森氏の主張は?さん

>清森氏は、十八願には現当二益が誓われているのではなく
>当益だけが誓われていると
>解釈しているのですか?

清森氏は、十八願を現当二益が誓われていると解釈しておられますよ。
まず清森氏の文章を正しく読んでください。

No title

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、
信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。

清森氏の主張は?

清森氏の主張は?> 清森氏も十八願には現当二益が誓われているという解釈なら、
清森氏の主張は?> ただの言い回しの問題にすぎないのではないですか?

山口> 清森氏は、十八願を現当二益が誓われていると解釈しておられますよ。


それなら言い回しの問題にすぎないのでは?
「必ず信楽の心にしてみせる」ではなく、「全ての人」かどうかを問題にしてますか?


清森氏の主張は?> 喜悟信の三忍の心とは信心決定の心ですが、
清森氏の主張は?> 信心決定した人は、かならず現生に十種の益を獲る。これが現益です。

B(本物)> ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるもの
B(本物)> であって、「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
B(本物)> 一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。


信益同時ですが、私は真実信心と現益を区別して書きました。


B(本物)> 「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。

私のあげた親鸞聖人のお言葉で

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

『欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 欲生釈)

『諸有海に回施したまへり』と『諸有の群生を招喚したまふ』では
「全ての人に」ということにはならないですか?


阿弥陀仏の本願は十劫の昔に成就していますが、それは名号法が完成したということであって
十劫の昔に全ての人が信楽の心になってしまっているわけではありません。
「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させてみせる」という随自意の誓いが
名号法のシステムとなり、随他意の19願20願で十方衆生を調機誘引し、
本願招喚の勅命が届いた一念で破闇満願、信楽の心になるのです。


B(本物)氏や清森氏は「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させるシステムが
十八願のお約束」と主張しているのですか?
もしそうなら「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させるのが十八願のお約束」と
いうのとどこが違うのですか?
それとも阿弥陀仏は十方衆生とは約束しておられないと清森氏は主張しているのですか?

No title

とりあえず、高森会長が「必ず絶対の幸福にしてみせる」というのは間違いね。

「必ず極楽に生まれさせる」or「必ず絶対の幸福にして、極楽に生まれさせる」のどちらか。

「極楽に生まれさせる」を省略している善知識は、どこにもおられないからね。

いいえ

>「極楽に生まれさせる」を省略している善知識は、どこにもおられないからね。

絶対の幸福になれば、必ず極楽に生まれられますから、省略して構いません。

No title

> 絶対の幸福になれば、必ず極楽に生まれられますから、省略して構いません。

だったら、信楽になった人に、必ず極楽に生まれさせると誓う必要はありませんね。
ほっておいても極楽に往くんですから。

阿弥陀仏は、必要ないことに、命を懸けられたんですね。

No title

>阿弥陀仏は、必要ないことに、命を懸けられたんですね。

だから、阿弥陀仏が命を懸けられたのは、極楽往生ではなく、絶対の幸福にさせることだったのです。


No title

> だから、阿弥陀仏が命を懸けられたのは、極楽往生ではなく、絶対の幸福にさせることだったのです。

じゃあ、18願を「極楽往生させる」と教えられた親鸞聖人は間違いですか?

No title

>じゃあ、18願を「極楽往生させる」と教えられた親鸞聖人は間違いですか?

言葉は、「極楽往生させる」と書いてあっても、真実信心を得れば、弥陀の御心が知らされ、この真意は「絶対の幸福にさせる」であったと明らかになるのです。

No title

> 言葉は、「極楽往生させる」と書いてあっても、真実信心を得れば、弥陀の御心が知らされ、この真意は「絶対の幸福にさせる」であったと明らかになるのです。

 親鸞聖人が尊号真像銘文を書かれたのは、86歳の御時ですが、このとき親鸞聖人は信心決定されていなかったんですか?

清森氏の主張は?

^_^) > 「極楽に生まれさせる」を省略している善知識は、どこにもおられないからね。

よく理解しておられないようなので何度も同じことを書かせていただきます。
親鸞聖人は第18願の「信楽」を解釈してこうおっしゃっておられます。

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

このお言葉を「極楽往生させる」ということだと解釈しておられるのでしょうか。
「浄信を回施したまへり」ですから、これは「信楽の心を回向する」という意味です。
ここは12願ではなく18願の「信楽」の解釈ですよ。
これでも「18願には信楽の心にしてみせるというお約束はない」と主張なされますか?

しかしながら、親鸞聖人がここでおっしゃっておられるのは
「第十八願には信楽の心にしてみせるということ『だけ』が誓われている」
ということではないのです。根拠を挙げて何度も書きましたが
第十八願には現当二益が誓われています。
清森氏もこの点は同じ解釈なら、どうして
「信楽の心にしてみせるというお約束は第十八願にはない」などと言われるのか、
私には全く理解できません。

報土往生を信楽に収めて言われることもあるし、
信楽を極楽往生に収めて言われることもある。
また、両方を出して言われることもある。
これらは表現の仕方の問題であって、内容が変わるわけではありません。
一益ではなく現当二益が親鸞聖人の教えです。

お念仏が出されていないからといって、
真実信心にお念仏が具せざるわけではありません。
必ず名号を具すからお念仏を省略して
真実信心を強調して言われることがあるのです。

これと同じことではないですか。なぜ、わからないのでしょうか。

清森氏の主張は?

蛇足でしょうが念のため言っておきます。

『この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく』
(顕浄土真実教行証文類 信文類)

第十八願は、本願三心の願、至心信楽の願とも言われますが、
ここに「極楽往生」が出ていますか?
これは報土往生を至心信楽に収めて言われているのです。
一方、『若不生者の願』というように若不生者が願名に冠されているのを
私は見たことがありません。
『若不生者の誓』であって『若不生者の願』ではありません。

至心信楽の願を説明するのに「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせる
というお約束だ」と言ってはなぜいけないのか。


清森氏は『また往相信心の願と名づくべきなり』(教行信証)
ここだけを見ていませんか。
しかしながら、親鸞聖人は第十八願の主眼は信楽とみぬいて
『至心信楽の願』ともおっしゃっておられるのですよ。
なぜ、わからないのでしょうか。

No title

> 『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。』

どこに、約束するとか、命かけるって書いてあるんだろ。
回施するとは書いてあるが、できなければ正覚を捨てるとはどこにも無い。
正覚をかけておられるのは浄土往生だけ。


> 第十八願は、本願三心の願、至心信楽の願とも言われますが、
> ここに「極楽往生」が出ていますか?

これは清森氏が論破済み。
清森問答読んでないんだね。

No title

> ここは12願ではなく18願の「信楽」の解釈ですよ。

(17願で誓われた【名号】を)12願で誓われた【光明】によって阿弥陀仏が「回施」することで、18願の「信楽」が発起するということです。それで何か問題ありますか?

> 至心信楽の願を説明するのに「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせる
> というお約束だ」と言ってはなぜいけないのか。

それなら、
「至心発願の願」(19願)は「発願の心にしてみせるというお約束だ」、
「至心回向の願」(20願)は「回向の心にしてみせるというお約束だ」、
と言っていいんですか?
あなたの論法をそのまま応用すると、そういうことになりますよ。

No title

質疑応答136より再掲。
-------------------------------------------------------------------------------------

19願「至心発願の願」
   =至心発願した人を、浄土往生させるという誓い

20願「至心回向の願」
   =至心回向した人を、浄土往生させるという誓い

ということを考えても、

18願「至心信楽の願」
   =至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い

であることは明白であり、『至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ』と、親鸞聖人が仰った通りです。

順番が逆だと思います

Eさんの

>言葉は、「極楽往生させる」と書いてあっても、真実信心を得れば、弥陀の御心が知らされ、この真意は「絶対の幸福にさせる」であったと明らかになるのです。

は何か変だと思います。
極楽往生できる身になったからこそ、この世が絶対の幸福になるのではありませんか?
私が求めるべきは往生で、絶対の幸福はそれに付随するものだと思います。
 
でも、高森先生もそれを分かっておられて、そういう言葉使いをされているのかもしれません。だって、この世の幸福しか求める心がないのが私ですから。

No title

大沼氏の盗作が多くて、最初は、えっと思いましたが、
高森氏は、よりわかりやすく文章を書かれているのでいいと思います。
弥陀の本願によって今生で助かるということを鮮明にしてもらいよかったです。

親鸞聖人の文章の重箱の隅をつつく議論は枝葉末節的なことかと個人的には味わっています。

No title

「全ての人を信楽に生まれさせる」という約束が十劫の昔に成就した、というのが本当なら、いわゆる「十劫安心」を肯定するものであり、決して「枝葉末節」ではなく、重大な誤りですよ。

「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」という親鸞聖人のお言葉で初めから結論が出ているのに「重箱の隅をつつく」ようなことを言っているのはむしろ親鸞会側ですよ。(言われれば無視するわけにはいかないので応じているだけです。)

No title

>弥陀の本願によって今生で助かるということを鮮明にしてもらいよかったです。

弥陀の本願が、今生で助けるという約束であるなら、今生で助からなかった人が1人でもいれば、弥陀は命を捨てなければなりません。

ということは、地獄に堕ちる人は1人もいないということですね。
こういうのを十劫安心と言います。

清森氏の主張は?

清森氏の主張は?> ここは12願ではなく18願の「信楽」の解釈ですよ。

B(本物)> (17願で誓われた【名号】を)12願で誓われた【光明】によって
B(本物)> 阿弥陀仏が「回施」することで、18願の「信楽」が発起すると
B(本物)> いうことです。それで何か問題ありますか?

第十八願をひらけば、そのようにも説明できます。
その説明自体が問題だといっているのではありません。
しかしここでは「第十八願に信楽の心にしてみせるというお約束(お力)があるか」
ということが問題になっていたのではありませんか?
質疑応答141で結局、清森氏も『「信楽にする力」については、
光明が12願なので、18願だと断定するのには不安がありますが、
五願は18願に納まるという考え方からは、そのようにも言えると思います。』
とお認めになりましたよ。


清森氏の主張は?> 至心信楽の願を説明するのに「阿弥陀仏の本願とは、
清森氏の主張は?> 信楽の心にしてみせる というお約束だ」と言っては
清森氏の主張は?> なぜいけないのか。

B(本物)> それなら、
B(本物)> 「至心発願の願」(19願)は「発願の心にしてみせるというお約束だ」、
B(本物)> 「至心回向の願」(20願)は「回向の心にしてみせるというお約束だ」、
B(本物)> と言っていいんですか?
B(本物)> あなたの論法をそのまま応用すると、そういうことになりますよ。

宗学の定規を当てないで字面だけを見て勝手なことをおっしゃられては困ります。
十九願は自力で二十願は半自半他、十八願は絶対他力です。

親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
の定規を当てて
「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
と言ったのですよ。
あなたのように自分の計らいで勝手なことを言いかかるから
曲がっていくのではありませんか。

^_^)> これは清森氏が論破済み。

だから、その清森氏の議論がおかしいと言っているのです。
清森氏の言うのは『往相信心の願』の味わいだと私は思います。

誤解して頂きたくないのですが、「十八願とは、信楽を獲た人が
必ず極楽往生できるというお約束」という説明が間違いだと
いっているのではないのです。そういう説明もあるし、
第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」
こういう説明もあってよいと言っているのです。


^_^)> どこに、約束するとか、命かけるって書いてあるんだろ。
^_^)> 回施するとは書いてあるが、できなければ正覚を捨てるとはどこにも無い。
^_^)> 正覚をかけておられるのは浄土往生だけ。

結局、あなた方が問題にしているのは「若不生者が何にかかっているのか」
ということですか?
真宗では二度往生があってその二つに若不生者の念力がかかっていますが、
教行信証を拝読する上で定規となる六要抄のお言葉を出してさえも
法の深信が死後の往生だと解釈してしまう方々にはもう説明のしようもありません。

No title

> 質疑応答141で結局、清森氏も『「信楽にする力」については、
> 光明が12願なので、18願だと断定するのには不安がありますが、
> 五願は18願に納まるという考え方からは、そのようにも言えると思います。』
> とお認めになりましたよ。

清森氏は、
「断定するのには不安がありますが」と前置きした上で、
「五願は18願に納まるという考え方からは」という条件付きで、
「そのように【も】言えると【思います】。」と言っているだけです。
「信楽にする力」は調熟・破闇の光明で、
「信楽になった人を浄土に往生させる力」は摂護の光明ですから、
ともに「阿弥陀仏のお力」であり、密接な関係にあることは私も否定しませんよ。
しかし、清森氏は、
----------------------------------------------
> お聖教には「十八願=信楽にする誓い」と直接的に書かれているところが無い以上は、
> 「十八願は信楽にしてみせるという誓い」という表現はすべきではない、ということで宜しいでしょうか。

そうですね。
----------------------------------------------
というように釘を刺しています。ここを無視して都合のいい部分だけを引用するのはやめていただきたいものです。

> 宗学の定規を当てないで字面だけを見て勝手なことをおっしゃられては困ります。
> 十九願は自力で二十願は半自半他、十八願は絶対他力です。

そんなことはもちろん分かっています。私はあくまで、
「あなたの論法をそのまま応用すると」と言ったじゃないですか。

> 至心信楽の願を説明するのに
>「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ってはなぜいけないのか。
> 親鸞聖人は第十八願の主眼は信楽とみぬいて
> 『至心信楽の願』ともおっしゃっておられるのですよ。
というように、18願が「至心信楽の願」と名付けられていることを根拠に
「信楽の心にしてみせるというお約束だ」と、あなた自身が
「字面だけを見て勝手なことをおっしゃ」たわけですから、
仮にそういう論法が通用するなら19願・20願についても同じことが言えてしまうではないか、と言ったまでです。つまり、そういう論法は通用しないのです。

> 親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
> 『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
> 諸有海に回施したまへり。』
> (顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
> の定規を当てて
> 「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ったのですよ。

第18願の「信楽」の心になれるのは阿弥陀仏のお力によってであることは誰も否定していませんよ。しかし、そのことと「第18願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」という主張には隔たりがあることが分かりませんか?

繰り返しますが、48願は全て十劫の昔に既に成就したのですよ。だからこそ、法蔵菩薩は正覚を取られたのだし、釈尊は「成就文」を説かれたんですよ。
もし、第18願に「全ての人を信楽に生まれさせる」と誓われていたとするならば、
十劫の昔に全ての人は信心獲得しているはずなんですよ。これは「十劫安心」以外の何物でもなく、とんでもない邪義です。
「十劫の昔に薬は完成したけれども、それを飲まなければ病気は治らない」
と、親鸞会でも説きますよね。それはその通りです。ところが、
「薬を飲む」=「名号を聞く」=「信心(信楽)を獲る」ですから、
「信楽の心にしてみせる」ことまで約束されてそれが成就したというのであれば、
「薬を作るだけでなく、薬を飲ませることまで約束して、それを果たした」ということと同じですから、これが「十劫安心」でなくて何でしょう。あくまで、
「薬が完成している」ということと「その薬を全ての人に飲ませようと阿弥陀仏は常に働きかけておられる」という事実があるのみです。これなら筋が通ります。





No title

> B(本物)氏や清森氏は
> 「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させるシステムが十八願のお約束」
> と主張しているのですか?

私は「全ての人を信楽の心にさせ」なんて主張していません。
とんでもない読み間違い(意図的な曲解?)ですね。
私が質疑応答138で書いたのは以下の通りです。
----------------------------------------------
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。

No title

B氏が、正しく理解されていることはわかりました。
では、B氏は、どのように仏法をもとめていくのが望ましいか、
道を示してくださいませんでしょう。
私たちは、誰から法を聞けばいいのでしょうか?
もったいぶらずに教えていただければと思います。

No title

B氏に質問です。

不特定多数に(著作、講演等)、18願の説明をするとき、以下のうち、どれが最も適切な説き方だと思われますか?

1、「浄土に生まれさせる」
2、「信楽に生まれさせ、浄土に生まれさせる」
3、「信楽に生まれさせる」

No title

> B氏が、正しく理解されていることはわかりました。

有り難うございます。

> では、B氏は、どのように仏法をもとめていくのが望ましいか、
> 道を示してくださいませんでしょう。

やはり三願転入でしょう。
ただし、親鸞会で勧められる諸善は、本来の仏法精神から極度に逸脱したものであり、ほとんど「諸悪」と言っていいほどだと思います。純粋で清らかな善をしようと真剣に努力することが最も大切なことではないでしょうか?

> 私たちは、誰から法を聞けばいいのでしょうか?

もちろん、善知識であり、経典や御聖教通りに正しく仏法を説く人から聞くべきです。それが具体的に誰なのかは、各人が判断すべきことでしょう。

No title

> 不特定多数に(著作、講演等)、18願の説明をするとき、以下のうち、
> どれが最も適切な説き方だと思われますか?
> 1、「浄土に生まれさせる」
> 2、「信楽に生まれさせ、浄土に生まれさせる」
> 3、「信楽に生まれさせる」

私は一貫して、親鸞聖人のお言葉通り
「信楽を獲た人を、浄土に生まれさせる」
と説くべきだと言っているじゃないですか。
つまり、1~3 のどれにも該当しません。

どういう意図で今さらこんな質問をするのでしょう。

No title

>どういう意図で今さらこんな質問をするのでしょう。

失礼、書き間違いです。
「清森氏の主張は?」氏への質問でした。


「清森氏の主張は?」様


不特定多数に(著作、講演等)、18願の説明をするとき、以下のうち、どれが最も適切な説き方だと思われますか?

1、「(信楽の者を)浄土に生まれさせる」
2、「信楽に生まれさせ、浄土に生まれさせる」
3、「信楽に生まれさせる」

No title

B氏にお願いです。

私もそうなのですが、家族や周りの方々にも弥陀の本願を聞き求めてほしいと考えています。

もちろん、完全完璧を善知識には求めません。
親鸞会が駄目ならば、どなたかをよさそうな方を紹介していただけないでしょうか?

No title

> 親鸞会が駄目ならば、どなたかをよさそうな方を紹介していただけないでしょうか?

親鸞会を離れた人の主な受け皿は、
清森氏・上田氏グループか華光会でしょうね。
(今のところ、それ以外の有力な候補を私は知りません。)
あとは、各人が本やネットで情報収集するしかないでしょう。

No title

B氏は、どちらでお求めなのでしょうか?

あなたと一緒の場で求めていきたいと思います。
自利利他と思ってぜひ、お教えください。
誰のもとで聞くのが最良なのでしょうか?

No title

> B氏は、どちらでお求めなのでしょうか?

私の場合は、親鸞会を退会後、清森さんと親しくさせていただき、
「真剣に求めている」という感じでなく、とりあえず質問や相談の
相手になっていただいているという感じです。
因果の道理を信じ、日常生活の中で自己の心をいかにして清めてゆくかが当面の課題です。
最近、上田さんのDVDも注文しました。

清森氏の主張は?

問題点を絞って議論を進めていきましょう。

清森説『18願「至心信楽の願」 =至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』

私の主張『至心信楽の願とは、親鸞聖人が第十八願の主眼は信楽と見抜かれて
名付けられたもの。この観点からは、第十八願とは信楽の心にしてみせるという
お約束といえる』

伝統的にはどのように解釈されているか。
例えば、教行信証講義(山辺・赤沼著)には次のようにある。
少々長くなるが「至心信楽の願」 を説明してある段を全文挙げる。

「(四)至心信楽之願
この願名の解釈に就いて二説ある。
一には至心信楽とは、真実信心の異名であると云い、
二には、至心信楽之願は、具には至心信楽欲生之願であるが、
その欲生は信楽に摂〈おさ〉めて、文字を略したと云う。
しかし大体に於いて、意味の上には、一致している説である。
しかし大握〈おおづか〉みに真実信心とするよりも、
願文によりて、特に「至心信楽」と仰せられたことであるからも
後の説が適切であると思われる。
欲生は第十九、第二十の二願の三心にも通じているから、
第十八願の特色としては、至心信楽の文字である。
『三経往生文類』の初めに、また真実信心あり。
すなわち念仏往生の悲願にあらわれたり。
信楽の悲願は、云々と標して、第十八願文を出されてある。
我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。
故に欲生を略して、至心信楽之願と命名せられたのである。
それならば、「至心」も「欲生」と等しく、十九二十の三心に通じているから、
それを略して、簡明に信楽之願と標せられないのであるかと云えば、
これにも種々〈いろいろ〉の説がある。第一には、三心の体は一浄信である。
即ち信楽の一をあげても欠くる所はないが、その上に二をあげ、三をあげてもよい。
今は至心信楽の二つ丈を挙げたという。第二には、至心信楽は、
願力回向の体であるから、その体によりて、願名とせられたという。
第三には願名の排列上から立論している。
我聖人の命名せられた三名の中、第一の「本願三心之願」は、
三信全体を掲げ、第二の「至心信楽之願」は、初めの二信をあげ、
第三の「往相信心之願」は、三心即一の信心一つをあげたのであるという。
かくの如く、三、二、一という排列の順序上、欲生を信楽に摂して、
「至心信楽之願」と標せられたと云うのである。
どの説も相応の理由があるから、寧ろこの三説を合糅にしたらよいと思われる。
即ち第十八願の主眼は信楽であるが、さればとて、その主眼丈を挙げねばならぬ
理由は毫〈すこし〉もない。今の場合の如きは、その主眼に至心の文字を添うれば、
益々豊富〈ふくゆか〉に第十八願の面目は表われるのである。
「如来の至心によりて成ぜられた信楽、」「如来の至心を体とする信楽」又は簡単に
「真実の信楽」という意味となりて、信楽の内容が、ふくゆかに表現〈あらわ〉れる。
この種の事柄は、乾燥な思弁のみに奔〈はし〉らず、宗教的情操の上から見れば、
円〈まどか〉に聖人の真意を了解することが出来ると思う。 」


清森氏の主張なされたような
「至心信楽の願とは、至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い」
というような意味合いを私はどこにも見つけることはできませんでした。
清森氏の主張を裏付ける記述が上記にあるなら示していただけますか。
私はそのためにわざわざ全文を挙げました。

『我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。』
と書かれてあるでしょう。それが読めないのですか。
それとも都合の悪い記述は目に入りませんか。
あなた方は自説がまず先にありきとなっているから
この意味が汲み取れないのでしょう。


親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』 (顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
の定規を当て、『我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。』
の相伝に随って、

第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」

と私は言っているのです。

『至心信楽の願』と親鸞聖人が名付けられた意味を貶めているのは
清森氏ではありませんか。

あなた方は、相伝を無視して、自分の計らいで勝手なことを言いかかるから
曲がっていってしまっているのではないでしょうか。

「とりあえず」なんて気持ちでは、仏教の真意を測れませんよ。
親鸞聖人が最も嫌われた学者じゃないですか!

No title

> 「とりあえず」なんて気持ちでは、仏教の真意を測れませんよ。

人格攻撃で論点スライドですね。
私は現時点での心境を(要請があったので)素直に語っただけです。
それを人格攻撃のネタにするとは卑怯ですね。
私は純粋に教義面の議論をしているのです。
私自身の求道のスタイルがどうであろうと議論の内容とは無関係です。

No title

> 「至心信楽の願とは、至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い」
> というような意味合いを私はどこにも見つけることはできませんでした。

尊号真像銘文の親鸞聖人直々の明確なお言葉を何度も出しているのに、
まだ分かりませんか?

> 『我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。』
> と書かれてあるでしょう。それが読めないのですか。

信楽を獲たかどうかで浄土往生できるかどうかが決まるのですから、
確かに信楽を獲ることは大事なことであり、その意味で「主眼」と言えるでしょう。
それで、あなたが親鸞聖人のお言葉よりも重視する山辺・赤沼氏の本に
「全ての人を信楽に生まれさせる」のが第18願だ、とどこかに書かれていますか?

> それとも都合の悪い記述は目に入りませんか。
> あなた方は自説がまず先にありきとなっているから
> この意味が汲み取れないのでしょう。

このセリフをそのままあなたにお返しします。

No title

> 『至心信楽の願とは、親鸞聖人が第十八願の主眼は信楽と見抜かれて
> 名付けられたもの。この観点からは、第十八願とは信楽の心にしてみせるという
> お約束といえる』

まだ分かってないようですね。もう一度言いますよ。
もしこういう論法が正しいと仮定すると、

『至心発願の願とは、親鸞聖人が第十九願の主眼は発願と見抜かれて
名付けられたもの。この観点からは、第十九願とは発願の心にしてみせるという
お約束といえる』

という言い方ができてしまうわけです。
(18願は他力で19願は自力とか、そういう情報は無関係です。
 あなたの論法に忠実に沿うならば、論理的・必然的に、そうなるんですよ。)
しかし、これはおかしいですよね。
故に、あなたのこの論法は間違いです。
(「背理法」って知ってますよね?)

No title

B氏に同感です。

「主眼」を辞書で調べると、「物事の最も重要な点」としか書いていません。

 18願は、信楽になった人のみが、浄土往生できるという誓いですから、信楽とはどういうことが、が最も重要なのは、当然です。

 教行信証講義の件の部分を、何回も、目を皿のようにして読みましたが、どこにも「若不生者は、信楽に生まれさせるという意味だ」と解釈できる部分はありませんでした。

 勝手に「相伝」を捏造しないで頂きたく思います。



>「至心信楽の願とは、至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い」
>というような意味合いを私はどこにも見つけることはできませんでした。

 これは、学者の説によらずとも、親鸞聖人が何箇所も書かれている内容です。
『清森氏の主張は?』氏には、都合の悪い記述は目に入りませんか。

清森氏の主張は?

B(本物)> 尊号真像銘文の親鸞聖人直々の明確なお言葉を何度も出しているのに、
B(本物)> まだ分かりませんか?

論点がずれています。

いま問題にしているのは、清森説の『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、
浄土往生させるという誓い』ですよ。
理解できないんですか。

あなた方の言う尊号真像銘文のお言葉に
『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』
とあると主張されるなら、そのお言葉をまず挙げていただけますか?


B(本物)> 山辺・赤沼氏の本に「全ての人を信楽に生まれさせる」のが
B(本物)> 第18願だ、とどこかに書かれていますか?

問題点を整理して議論をすすめやすくしているのに
『「全ての人を信楽に生まれさせる」のが第18願だ、とどこかに書かれていますか?』
などと自問自答してどうするんですか。自問自答はよそでおやりなさいな。

あなたがいま議論すべきは、
私の主張である『至心信楽の願とは、親鸞聖人が第十八願の主眼は信楽と見抜かれて
名付けられたもの。この観点からは、第十八願とは信楽の心にしてみせるという
お約束といえる』と
『第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」』ですよ。
何を議論すべきか教えてもらわないと、あなた方は議論をすすめることさえできないんですか。


B(本物)> それで、あなたが親鸞聖人のお言葉よりも重視する

何言っとるの、あなた?

清森氏の主張は?> 親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
清森氏の主張は?> 『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
清森氏の主張は?> 諸有海に回施したまへり。』 (顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
清森氏の主張は?> の定規を当て、『我聖人は、第十八願の主眼として、
清森氏の主張は?> この信楽の二字を選ばれた。』の相伝に随って、

ちゃんとお読みなさい。
そんないいかげんな態度だから「曲がっていってしまっている」と
言われているのが分かりませんか。


善知識方は「至心信楽の願」をどうおっしゃっておられるか
もう少し挙げましょうか。


『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)


真実の信の願は至心信楽の願である。
至心信楽の願心とは信楽だ。
至心信楽の願のこころとは真実の信、真実の心だ。

こうおっしゃっておられますが、これをあなた方は
『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』
と自説だけにまだ固執しますか。

「至心信楽の願」とは報土往生を信楽に収めて、第十八願の願心は信楽だ
と言われたお言葉なんですよ。


そして、この「信楽」の解釈が

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

という善知識のお言葉ですから

『第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」』

と私は言っているのです。


あなた方は善知識方のお言葉も相伝も無視しているから
『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』
という自説だけに固執することになるんです。

No title

> 私の主張である『至心信楽の願とは、親鸞聖人が第十八願の主眼は信楽と見抜かれて
> 名付けられたもの。この観点からは、第十八願とは信楽の心にしてみせるという
> お約束といえる』と

まれに見る珍説ですね。

貴方の論法なら、

『至心発願の願とは、親鸞聖人が第十九願の主眼は信楽と見抜かれて名付けられたもの。この観点からは、第十九願とは発願の心にしてみせるというお約束といえる』

『至心回向の願とは、親鸞聖人が第二十願の主眼は回向と見抜かれて名付けられたもの。この観点からは、第二十願とは回向の心にしてみせるというお約束といえる』

これも成り立ちますね。


>『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』
>という自説だけに固執することになるんです。

これは親鸞聖人の説ですが…固執して何が悪いんでしょう。

貴方こそ、聖教の何処にもない自説に固執していませんか?


あなたの説を「相伝」した善知識は誰でしょう?
高森氏ですか?

No title

都合の悪い質問はスルーですか?

「清森氏の主張は?」様


不特定多数に(著作、講演等)、18願の説明をするとき、以下のうち、どれが最も適切な説き方だと思われますか?

1、「(信楽の者を)浄土に生まれさせる」
2、「信楽に生まれさせ、浄土に生まれさせる」
3、「信楽に生まれさせる」

清森氏の主張は?

私は、『至心信楽の願』と親鸞聖人が名付けられた意味を
親鸞聖人のお言葉を挙げ、蓮如上人のお言葉を挙げ、
また伝統的な解釈を挙げ説明しています。

清森氏、B(本物)氏、H氏、あなたがたは
お聖教の言葉を挙げることもなく、ただ自説を述べるだけ。
だから、善知識方のお言葉も相伝も無視しているといっておるのです。
あなた方のその態度が自ずから証明しているではありませんか。


私の言っておることが、まだよく理解できておらないようだから
何度もくりかえしますよ。


「至心信楽の願」とはどういう意味か。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)

これで十分なのですが、あなた方は「信楽」の意味も理解しておらないのでしょう。
至心信楽之願の心である「信楽」を親鸞聖人は
次のように解釈しておられますよ。

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

だから、

『第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」』

と私は言っているのです。


そして、あなた方はこんなバカげたことまで言いかかる。

B(本物)> 『至心発願の願とは、親鸞聖人が第十九願の主眼は発願と
B(本物)> 見抜かれて 名付けられたもの。この観点からは、第十九願とは
B(本物)> 発願の心にしてみせるという お約束といえる』

こんなことを言いかかるのは、あなた方が宗学の定規に即していない
何よりの証拠なのです。

あなた方は、「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた意味も
理解していないが、「至心発願の願」の意味も「至心回向の願」の
意味も理解できていないと自ら証明しています。

至心発願とは自力、至心回向とは半自半他、至心信楽は絶対他力です。

あなた方は「そんなことは知っている」といいなさったが、
私は合点さえできていないと思います。


いいですか、反論をなさるときには相手の主張を
まずよく理解しないといけないのです。
あなた方は反論なさってるつもりで、
実際は自らの無知をさらけ出していますよ。


あなた方は、議論のやり方さえ知らないようだから
教えて差し上げましょう。

まず、相手の結論だけ見て脊髄反射で反論しても無意味です。
あなた方の上記の反論はこれですよ。

結論を導いた論拠があるはずですから、はじめにそれを検討しなければ
ならないんです。

だから、あなた方がまず考えるべきは「私の挙げた根拠が適切かどうか」です。


議論しているの相手に議論の仕方を教わっているようでは
はっきり言ってお話になりません。


H> 不特定多数に(著作、講演等)、18願の説明をするとき、
H> 以下のうち、どれが最も適切な説き方だと思われますか?

議論の仕方を当の議論している相手に教わっているあなた方が
異なる議論を2つ3つ並行してできるわけがないでしょう。
表現の仕方などという皮相な部分ではなく、根本的なところで
あなた方はネジ曲がってしまっているようですから、
至心信楽の願の願意を通してそれを明らかにしていきます。

根本的なところで反省がなされれば、言い回しの問題は自ずと
解消されるはずです。

No title

 私は、お三方の主張は、決して矛盾するものでは無いと思います。


「清森氏の主張は?」様の仰るとおり、信楽になれるのは、阿弥陀仏のお力によるものです。

 また、B様、H様、の仰るとおり、18願は、信楽になった人を、浄土往生させる約束です。


 ですから、「阿弥陀仏は、18願に、信楽になった人を、浄土往生させると誓われ、まだ、信楽になっていない人には、信楽になれるよう、力つくされている」

 このようにまとめれば良いかと思います。


No title

>『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
>諸有海に回施したまへり。』
>(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
>
>だから、
>
>『第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」』
>
>と私は言っているのです。


 論拠としては、まったく不適切ですね。

 上記の親鸞聖人のお言葉は、弥陀が信心を与えて下さると仰っているだけで、そのことに正覚を懸けて誓われているとは、どこにも書かれていません、

 あくまで聖教に忠実に読むべきです。貴方の勝手な思いは、根拠になりません。


 これ以上の議論は無駄でしょう。ご自由に、貴方の信じる道を進んでください。

No title

争いは醜いなと思います。
辟易してるのは、私だけではないのではないでしょう。
どうか、皆さん、人類、皆兄弟です。
いつの日かみんなが阿弥陀様に救われともに幸せになっていただきたいと思うばかりです。

清森氏の主張は?

何度も指摘しましたが、
あなた方は、議論の進め方をまるで理解しておられません。

H> 上記の親鸞聖人のお言葉は、弥陀が信心を与えて下さると
H> 仰っているだけで、そのことに正覚を懸けて誓われているとは、
H> どこにも書かれていません、

相手が主張していないことに対して自説を立て勝手に反論していても
無意味だと何度申し上げればあなたがたには理解できるのでしょうか。

あなた方はまだ理解できていないようだから、
「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた願題の意味を
もう一度、説明しますよ。


「至心信楽の願」とはどういう意味か。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)


その至心信楽之願の心である「信楽」を親鸞聖人は
次のように解釈しておられます。

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

だから、

『第十八願=至心信楽の願=「信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束」』

と私は言っているのです。

これでもまだ理解できませんか。

相手の言っていないことを批判していても仕方ないのです。
議論のやり方がこれで飲み込めましたか?


H> あくまで聖教に忠実に読むべきです。貴方の勝手な思いは、根拠になりません。

私は宗学の定規を当てて解釈しております。
勝手な思い込みで何ら根拠を挙げることもなく、
善智識方のご教導も相伝も無視して
自説に固執しているのはあなた方ですよ。
そこを「曲がってしまっている」と批判されているのが
まだわかりませんか。


まあまあ> 私は、お三方の主張は、決して矛盾するものでは無いと思います。

今、議論となっているのは「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた
願題の意味についてです。
まず議論の対象となっている事柄をご理解いただきたく思います。


みんなが幸せになれるといいですね> 争いは醜いなと思います。
みんなが幸せになれるといいですね> 辟易してるのは、私だけでは
みんなが幸せになれるといいですね> ないのではないでしょう。

私自身、同門同士で言い争いはしたくないのです。
ですから「言い回しの問題ではないのか?」と初めに何度も助け舟を出して
清森氏たちに翻意を促しました。
しかしながら、善智識方のご教導も相伝も無視し続けているので
仕方なく、「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた願題の意味を通して
その清森氏たちの態度に反省を促しているのです。

私の方が間違いと言われるなら、清森氏たちは根拠を挙げて反論されれば
よいではありませんか。
しかしながら、清森氏たちは何ら根拠を挙げることもなく、勝手に自説を立て
それに反論するということしかしておりません。
彼らは自ずから自分たちがネジ曲がってしまっていることを証明しているのです。

そこに早く気付いて反省してくださればよいのだが、と念ずるばかりです。

No title

『清森氏の主張は? 』の主張は、結局、分相の18願ですよね。

「若不生者」は分相の11願なので、「信楽に生まれさせる」は、おかしいのでは?


※某巨大掲示板より引用


678 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:21:20 ID:/nmFEKvb
ちょっと時間が余った。よく読め。

>一願該摂と五願開示

一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

しかし親鸞聖人は十八願を開いて五願に配当されて意を明らかに
されたんです。これが五願開示。

どちらが正しいということでなく、開合の違いといいます。


679 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:23:15 ID:/nmFEKvb
>一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

正信偈や田中氏が根拠に出した唯信鈔文意の「選択本願」は十八願を指しているから
この一願該摂の法門に当たる。

本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
  真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。(正信偈)


 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。
  (唯信鈔文意)


だが祖師聖人はこれだけではないんだよ。



680 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:24:21 ID:/nmFEKvb
如来二種回向文には十七、十八、十一願をあげて
「これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。」と
十七願、十一願も選択本願とされている。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)



681 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:26:37 ID:qtbNF16F
十八願の信楽によって十一願の証果を得るのが難思議往生。

分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

「滅度を得る」という意味は無くなるから、信巻の最初は[正定聚の機] になる。

「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。」

分相の法門において滅度は十八願の結果ではない。


これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。
現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。
これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。
これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、
また難思議往生と申すなり。(浄土三経往生文類)


682 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:27:32 ID:qtbNF16F
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

さきに出した回向文。回向とは「与える」ということ。

他力の行を与えるという誓願が十七願。

他力の信を与えるのが十八願。

他力の証果を与えるのが十一願。

ちゃんと書いてあるだろ。



683 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:28:35 ID:wp+JR0yG
この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

正定聚の位につくのも十一願による。
十八願で信楽を獲たひとは正定聚の機になるのと
十七願の名号をいただいたひとがつく位だから
本来は十一願で獲る位だが
十一願と共通するので信巻巻頭に書かれている。

成等覚証大涅槃(正信偈)も意は同じ。

純粋な意味で十八願は「信楽を与える」という意味になる。

相伝義書で「若し信心生まれずは」という口伝になっているのは
少なくともその部分は相伝義書は正しいということ。



688 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:21:22 ID:SSHL9SRG

●●● 墓穴を掘ったちび丸 ●●●

 ちび丸の説によると…

     ┌至心信楽 ─ 18願 ─ 信楽を与える
18願─┼若不生者 ─ 11願 ─ 信楽の者を、浄土往生させる
     └その他

> 分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

分相の18願は、「信楽を与える」という約束
分相の11願は、「信楽の者を、浄土往生させる」という約束

だから、18願は「信楽を与える」という約束、とは一応言える。

しかし!!

分相の18願に対応するのは、「至心信楽」
分相の11願に対応するのは、「若不生者」

なので、一願該摂で「信楽を与える」に対応するのは「至心信楽」でなければならない!!!

田中氏の「不体失往生の根拠は、至心信楽だ」という主張を、全面的に認めたわけだ。



689 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:31:11 ID:SSHL9SRG

ちび丸も元会員を自称するからには、

五願開示で、

分相の18願→至心信楽
分相の11願→若不生者

だということは、知っているだろうな。

親鸞会の教学解説書(かなり古いものだが…)にも載っていたし、
講師試験に出たこともある。

というより、浄土真宗の常識だ。



分相の18願が「必ず信楽にさせる」と認めたということは、
  「必ず信楽にさせる根拠」は「至心信楽」だと認めたわけだ。

分相の11願が「必ず浄土往生させる」と認めたということは、
  「必ず浄土往生させる根拠」は「若不生者」だと認めたわけだ。

 チューリップの間違いと、田中氏の主張の根拠を、同時に教えてくれて有難う。

No title

ちび丸先生って、実は以下2点を証明するために2ちゃんねるに張り付いて
必死に書込みしていたわけですね。
・田中氏の主張が正しいこと。
・親鸞会の主張が誤っていること。



清森氏の主張は?

あなた方は何度言えば議論の進め方という一般常識を
理解なさるのでしょうか。

某巨大掲示板より> 『清森氏の主張は? 』の主張は、結局、分相の18願ですよね。
某巨大掲示板より> 「若不生者」は分相の11願なので、「信楽に生まれさせる」は、
某巨大掲示板より> おかしいのでは?
某巨大掲示板より> (以下、ちび丸氏の主張)

別の人がしている別の議論を今ここでいろいろ言ってみても仕方なんですよ。
そのぐらいのことがなぜ理解できないのか全くもって不思議です。

今ここで議論されているのは、
「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた願題の意味とその内容です。

清森氏は『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』
と主張していますが、何を根拠に願題の意味をそのように解釈しているのですか。
再三言っているのに、一つも根拠が挙げられていないではないですか。
それこそ、あなた方が善智識方のご教導も相伝も無視して
自分の考えにあったところしか見ようとしていない何よりの証拠なんです。
あなた方は、まず自説ありきで物事を考えているから
ネジ曲がってしまっていると指弾されているのです。


私はいくつも根拠を挙げて言っているんですよ。
別の人の別の議論を出してこられても無意味なんです。
それぐらいのことがなぜ何べんも言われないとわからないのでしょうか。


さて、「至心信楽の願」とはどういう意味か。もう一度言いますよ。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)


その至心信楽之願の心である「信楽」を親鸞聖人は
次のように解釈しておられます。

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

だから、

『至心信楽の願=信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束』

と私は言っているのです。

ここで今なにが議論されているのか理解できましたか?


1つのことさえまともに議論できないあなた方に
2つも3つも並行して議論が進められるわけがありません。
あなた方は、まず今議論している1つのことを合点できるよう
努めてごらんなさい。
そうすれば、あなた方が如何に善智識方のご教導も相伝も無視してきたか
自ずと反省されることでしょう。
その上で他のことを議論されたらよいと私は思います。

No title

> 清森氏は『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い』
> と主張していますが、何を根拠に願題の意味をそのように解釈しているのですか。
> 再三言っているのに、一つも根拠が挙げられていないではないですか。


清森氏がこのように主張する根拠は、『このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』だと、何度も書いてあるではありませんか?

これは聖人の18願の解説ですよ。

日本語読めないのですか?

都合の悪い根拠は読めないですか?



貴方がしつこく挙げている願題の意味ですが、

分相の18願の願意を示した言葉で、一願該摂の意味ではありませんよ。

教行信証信巻が、分相の18願の解説であることは、常識であって、それさえ分からぬようでは、浄土真宗を語る資格などありません。

親鸞聖人は、18願を、5願に分けられ、分相の11願、12願、13願、17願、18願を、教行信証の行、信、証、真仏土巻に分類して教えられたのです。

信巻は、分相の18願なので、「至心信楽」の解説。

だから、題意を、『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』 と解説された。それだけのことです。

これは分相の18願、即ち「至心信楽」の解説。



「若不生者」は、分相の11願に当たります。

これは必ず滅度に至る願。「若不生者」の解説は、こちらです。



一願該摂なら、両方の意味が含まれるが、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」という解釈は、どこからも出てきません。

清森氏の主張は?

某巨大掲示板より> 清森氏がこのように主張する根拠は、
某巨大掲示板より> 『このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、
某巨大掲示板より> わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる
某巨大掲示板より> 御のりなり。』だと、何度も書いてあるではありませんか?

あなた方は『尊号真像銘文の親鸞聖人直々の明確なお言葉』と
述べるだけで、私との議論の中でそのお言葉が
『「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた願題の意味とは、
「至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い」である』
という根拠だと明言したことはありませんでした。

私には、あなた方の言う『明確なお言葉』がどれを指すのか
わからなかったから何度も根拠を求めたのですよ。

それがあなた方の言う『「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた
願題の意味の根拠』ですか。
『このこころはすなはち』とある『この』とは「至心信楽の願」のことでしょうか?
私は、「若不生者不取正覚」だと解釈致します。
したがって、このお言葉は「至心信楽の願」の願題の意味を言われた
お言葉ではありません。

あなた方が、これは「至心信楽の願」の願題の意味の解説と
主張されるなら、『この』が「至心信楽の願」を指すことを
示していただけますでしょうか。

もし、それを示せないのであれば、そのお言葉は
「至心信楽の願」の願題の意味の解説ではないことを
まずお認めになってください。


某巨大掲示板より> 「若不生者」は、分相の11願に当たります。
某巨大掲示板より> これは必ず滅度に至る願。「若不生者」の解説は、こちらです。
某巨大掲示板より> 一願該摂なら、両方の意味が含まれるが、
某巨大掲示板より> 「若不生者」を「信楽に生まれさせる」という解釈は、
某巨大掲示板より> どこからも出てきません。


今ここで議論されているのは、
「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた願題の意味とその内容です。
何べん言えば、あなた方は理解できるのでしょうか。


某巨大掲示板より> 貴方がしつこく挙げている願題の意味ですが、
某巨大掲示板より> 分相の18願の願意を示した言葉で、
某巨大掲示板より> 一願該摂の意味ではありませんよ。


それで結局、清森氏の主張である『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、
浄土往生させるという誓い』 は願題の意味の説明として
正しいんですか、間違いなんですか。
あなた方は、そこを有耶無耶にしているから曲がっていくのです。


いいですか、もう一度言いますよ。

「至心信楽の願」についてはこのように解説なされています。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)


これで十分なのですが「信楽」の意味をあなた方は
理解しておらないのでしょう。
至心信楽之願の心である「信楽」を親鸞聖人は
次のように解釈しておられますよ。


『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

だから、

『至心信楽の願=信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束』

と私は言っているのです。


『諸有海に』とありますから『十方衆生に信楽を回向なされる』ということ
なのですが、あなた方にでも納得しやすいように
ここではわざわざ『十方衆生』は削って議論を進めやすくしているのですよ。
また、上記のお言葉には『必ず』に当たる部分が私には見当たりませんので
それを忠実に解釈して、そんな文言を初めから入れていないのです。
そこも議論の俎上にのせたい場合には当然別の根拠も挙げています。
分かりやすくするために、今はそれらを争点にはしていないのです。
議論の進め方さえ理解していないあなた方では理解できないのでしょうが、
問題を簡単化するために、はじめからかなり議論を絞っておるのですよ。

人の主張はよく聞かないと、まともな反論はできません。

議論している相手に1つ1つここまで説明して貰わなくては
ならないようでは、かなり先が思いやられます。


さて、もう一度あなた方に問います。

清森氏の主張である『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、
浄土往生させるという誓い』 は願題の意味の説明として
正しいですか、間違いですか。

何度も言うように、正しいのは、清森氏の言うようなことではなく、
『至心信楽の願=信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束』
ではないでしょうか。

No title

「某巨大掲示板より」さん

日本語が通じないみたいですから、議論するだけ無駄ですよ。

No title

そのようですね。

親鸞会にいると、こんなふうになってしまうのでしょうか…

かわいそうです。

No title

> 今ここで議論されているのは、
> 「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられた願題の意味とその内容です。

そうだったの?
清森氏はこのトピックで願題の説明はしてないと思うけど。
あなたが勝手に願題の話題にすりかえようとしてるだけでしょ。
それを「今ここで議論されているのは」とか書くのはおかしい。

清森氏はこのトピックに以下のように書いている。

> 浄土往生まで、必ず進ませるというのが18願の誓いであり、そのお力が、いわゆる「若不生者の念力」なのです。

願題についてではなくて「若不生者」について述べているでしょ。

> そこを「曲がってしまっている」と批判されているのが
> まだわかりませんか。

批判してるのはあなたでしょ。
それを「批判されている」と第三者の行為のように書くのは
印象操作でフェアじゃない。
「議論されている」も同様。
自分がその話題に持っていきたかっただけでしょ。

上記のような状態で「議論の仕方を教えてやっている」
なんてちゃんちゃらおかしい。

あとさ、

清森氏はコメントの1つ1つにまで目を通せないので
質問があったらメールしてくれと再三書いている。

にもかかわらず何でコメント欄でくだを巻いているの?

清森氏が間違っていると思うなら清森氏自身とやりとりし、
それをブログで公開でもすればいい。
それであなたの方が正しいとなったら、
あなたにとってそれが一番いいことでしょ。

論破されるのが怖いのかな?

清森氏の主張は?

さて、結論が出ましたので読者のためにまとめておきましょう。

清森氏が『「至心信楽の願」= 至心信楽した人を、 浄土往生させるという誓い』
などと願名の意味を無視して、善知識のご教導にも相伝にもないことを
吹聴しはじめたので、そんなバカげた主張をする根拠を再三再四求めたが、
終に一つも根拠を挙げることはできなかった。

『このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土に
もし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』
は、「若不生者不取正覚」のこころを仰ったもので、
「至心信楽の願」の願題をご説明なされたものではありません。
したがって、清森氏の上の主張は完全な誤謬です。

清森氏をはじめ、B(本物)さん、^_^) さん、Hさん、
「某巨大掲示板より」さん、名無しさんなどと
彼らは次から次へと色々な名前で反論を試みられましたが、
結局何一つ根拠は挙げられず、一つとしてまともな
反論はありませんでした。

清森氏は『善知識方も「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と
解釈されています。誰一人「信楽にしてみせる」と解釈されている方は
ありません。』などと吹聴していますが、とんでもない誤りです。
これはひとえに彼らがお聖教を先とするのではなく、
自説に合ったところだけお聖教を拾い読みしている何よりの証左でありましょう。


「至心信楽の願」とは何か。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)


その至心信楽之願の心である「信楽」の解釈とは、


『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

したがって、

『至心信楽の願=信楽を阿弥陀佛が回向なされるというお約束』

と言えるのです。

善知識方は誰一人「十八願は、信楽の心にしてみせるというお約束」と
言っておられないなどとは、「至心信楽の願」の意味も「信楽」の解釈も
知らない者の言う妄言です。不勉強も甚だしい。

宗学の基本中の基本も知らなかったと、
彼ら自身が己の言動で証明しました。


第十八願を「若不生者の誓い」と言われるときと
「至心信楽の願」と言われるときとでは、
主眼にしている内容が違うのです。
同じ十八願だからといって、「若不生者の誓い」と言われるときの説明しか
認めないというのでは、「至心信楽の願」とわが親鸞聖人が名付けられた
その意味を貶めることになるのです。

何度言っても彼らには理解不能のようでしたが、
善知識のご教導も相伝も無視して、
根拠もなしに自説を吹聴している輩ですから、仕方ありません。

賢明な読者は、何が正で何が邪か、善知識方のご教導と相伝に随って
選び取られればよいでしょう。


それにしても、思い出されるのは親鸞会を飛び出して、
白鷺会を始めた中根のことです。
中根は結局、真宗の看板を下ろしました。
善知識のご教導も相伝も無視して、上田教・清森教を
唱えはじめたようですから、彼らも同じ道を辿るのかもしれません。
いずれ真宗の看板を下ろして、会社でも始めるのならば
それもよいでしょう。それなら私も何も申しません。


真宗に連なる読者は、高森師でも清森氏でもなく、
どうか親鸞聖人の仰せに随ってください。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

No title

>そんなバカげた主張をする根拠を再三再四求めたが、
>終に一つも根拠を挙げることはできなかった。

だから清森氏に聞いてみたらいいじゃない。
それができないのは論破されるのが怖いからでしょうね。

No title

>>清森氏の主張は?

真宗の看板を下ろしてブログ荒らしに粘着しているのはアナタじゃないの?
ココを見ているほとんどの人はわかってるよ。

カルトのインチキ法論の定石

【カルトのインチキ法論の定石(改訂版)】
 ↓
1,「絶対に正しい」と思っている(思わされている)意見を、壞れたテープレコーダーのごとく何度も繰り返す。
2,上記に抵触した対話者の提出した資料は、見なかったことにして無視。
3,対話者の意見を自分の解答しやすい形に改変(捏造)して反論。
4,対話者の人格を攻撃し、対話者の意見が価値のないものであるかのように印象操作。
5,自分の提示した見解が論破されたら「そんなことはわかっていた」と居直る。
6,それまで行っていた論点での議論で勝ち目がないことがわかったら論点スライド。
7,自分は答えないくせに、複数の不当質問で、相手を呆れさせるように誘導。
8,対話者があきれて反応しなくなった所で勝利宣言。

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-2.html

お!ここにもいたねw

どんな人をも必ず助ける信ずる一念絶対の幸福に

上田氏って18願をどんなふうに解説してるんですか?

No title

いろいろ言われとっても、清森氏は教学的なことでは間違いなんやろ
と思っていたが、どうなんだろと思いはじめてきた。

「清森氏の主張は?」氏はいろいろ根拠を挙げてるみたいだけど、
清森氏たちは根拠は1つも挙げることができなかったみたいだね。

清森氏は「若不生者の誓い」と 「至心信楽の願」を取り違えて説明しちゃった、
ということなのかなぁ?

No title

第18願を晩年の親鸞聖人が直々に『尊号真像銘文』に懇切丁寧に解釈されました。
「清森氏たち」は、その親鸞聖人のお言葉をそのまま素直に読んでいるだけです。
(質疑応答144参照。)
さらに、教行信証信巻からも「根拠」を挙げています。(質疑応答138参照。)
これで充分じゃないですか?
これ以上、何を議論する必要があるでしょうか?

「至心信楽を獲れば必ず我が浄土に往生させる」という第18願の、
「至心信楽」に重点を置くか、「若不生者」に重点を置くかによって、
第18願を「至心信楽の願」と呼んだり「若不生者の誓い」と呼んだり、
他にもいろいろな名前がありますが、全て第18願の別名です。

> 第十八願を「若不生者の誓い」と言われるときと
> 「至心信楽の願」と言われるときとでは、
> 主眼にしている内容が違うのです。

> 清森氏は「若不生者の誓い」と 「至心信楽の願」を取り違えて説明しちゃった、
> ということなのかなぁ?

第18願のどの部分に着目して命名したかはいろいろありますが、
あくまで 第18願の内容は同一です。
まるで、名前の付け方によって第18願の内容がコロコロ変わるかのように認識しているのは全く意味不明です。
とにかく、第18願の内容そのものを明らかにすることがここでの論点であって、
名前の付け方がどうのこうのという話は、論点が本質からずれています。
どうしてそんなことにこだわるのでしょう? もううんざりです。

No title

868 神も仏も名無しさん [] Date:2008/09/09(火) 07:46:03 ID:FlOilO48 Be:
清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-221.html

ぶはは、とうとう中根といっしょにされちった。


それにしても、思い出されるのは親鸞会を飛び出して、
白鷺会を始めた中根のことです。
中根は結局、真宗の看板を下ろしました。
善知識のご教導も相伝も無視して、上田教・清森教を
唱えはじめたようですから、彼らも同じ道を辿るのかもしれません。
いずれ真宗の看板を下ろして、会社でも始めるのならば
それもよいでしょう。それなら私も何も申しません。

2008年09月08日 | 清森氏の主張は?

869 神も仏も名無しさん [] Date:2008/09/09(火) 08:10:33 ID:FlOilO48 Be:
要するにさ、これって

清森氏は『善知識方も「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と
解釈されています。誰一人「信楽にしてみせる」と解釈されている方は
ありません。』などと吹聴していますが、とんでもない誤りです。

これが言いたいだけだよね、おそらく。
「至心信楽の願」の意味から言うと
「十八願は十方衆生に信楽の心を与えるというお約束」と言えるわけだからさ。

素直に間違いを認めないから、

上田・清森 = 中根

扱いされちった。
でもオレなら

中根 > 上田・清森

だな。彼らには磯部みたいな信者いないっしょ、カリスマ性ないから。

No title

実際のところ、親鸞会と一の会って、どちらがカルトNo.1なの?

中根 > 高森 ?
高森 > 中根 ?

一の会は、親鸞会の特徴をよく現している団体だからなあ。

No title

親鸞会の狂義と、一の会の狂義は、殆ど同じです。
規模は違いますが、カルト性という点では優劣を付けられないと思います。

No title

親鸞会の狂義をベースにした上田・清森教は、
真宗からさらに輪をかけて逸脱しています。
しかしながら、規模は違いますが、
カルト性という点では優劣を付けられないと思います。

No title

親鸞会はあいかわらず単細胞やな~
論点ずらしも甚だしいで~

若不生者の生まれるが信楽かどうかが事の発端だろうが…。
かならず生まれさせると誓っておられるではありませんか!(笑)って
ビデオで言わせたことが問題だったんだよ
んでこれによって親鸞会の物知らずが明らかになっちまった
それをなんとかごまかそうと必死なのは分かるが
こっちが言ってもいないことを騒ぎ立ててもなあ…。
ますます教義知らずが知れるというものだよ
恥をしりなさい


親鸞聖人は
「十方衆生、心をつくして阿弥陀仏を信じて来世浄土に生まれようと思って念仏を十回(成就文より一回でもよいとなる)
でも称えれば誰でも極楽に行ける」といった法然上人以来の本願解釈の、「阿弥陀仏を信じて」の部分を
凡夫に信じることなどできない(真実の信楽の心などない)と(おそらく御内証から)喝破されて
阿弥陀仏から回向されたものだと解釈された。
つまり、本願を
「十方衆生、おまえたちにはまことの心は残念ながらないだろう、五劫の昔にそれゆえ悩んだ
しかし私の回向する『心をつくし弥陀を信じ浄土に生まれよう』という三心でもって念仏を称えれば極楽に生まれさせてみせる(意訳w)」
と解釈されたってこと。

こう考え直すと
確かに本願には弥陀が三心を回向するという前提が書かれているのだから
三心を誓われた願とよんでもよさそうではある。
しかし、若不生者の生まれるを信楽に生まれさせるとし、仏の命をかけて信楽を誓われた本願だと言えば完全に間違いだろう・・。

もう何度もだれもが指摘してきたことなので
今さら私の拙劣な文章で説明したところで二番煎じにすらなっておらず恐縮だが
バカが現れ続けるので微力ながら尽力しました。



至心信楽の願について。
至心信楽の願とは三心即一心を表した名で、それゆえ聖人が愛用した本願の名称であると古今の学者が
説明しているようだよ。
聖人によれば三心はとどまるところ弥陀の”信楽”=信心ひとつに収まる。
そして、弥陀の信心(弥陀の心)ゆえにこの心によって凡夫は往生をもしまた成仏をもすると言っておられて
祖師は信心にすべての因を見出していることが分かる。

ここからは私個人の意見だが
本願ももとは弥陀の心からはじまっており本願に相応するということは
弥陀のこころに相応することとも言えまいか。
名号に万善円備しているのも名号を称えることが往生の業になることも
すべては弥陀、しいては弥陀のこころがすばらしいからありえることではないか
我々がこの弥陀の大いなるこころに同調したとき、
凡夫にはまったくない心なので回向されたと感じるのではなかろうか。

信心をうれば本願に相応するゆえに浄土に往生できる。
いや往生できるなどと、とても信じられない私たちが往生できると信じさせていただくのだ。
それゆえよろこべない私たちが本願まこととよろこべるのだ。

しかし、もし弥陀が我々をかならず信じさせると若不生者で誓ったとして
一体何を信じさせるのだ。
信じさせると誓ったことが信じられない人はどうするのだ。
信じられないひとは何が相応していないのだ。何が足りないのだ。
さもなくば弥陀が嘘をついていることになるか、十劫安心だ。
三心を我々のために用意されたことと、三心を与えると誓われたことは明確に分別をつけるべきことだと思う。

『至心信楽の願』とは

終了した議論にまた何一つ根拠を挙げることなく、
親鸞聖人の名を騙って自説を吹聴する輩が現れた。
嘆かわしいことである。

私はすべて根拠を挙げて述べている。
文句があるなら親鸞聖人におっしゃいな。


○親鸞さま、「至心信楽の願」とはどういう意味でしょうか。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)


○では、親鸞さま、その至心信楽之願の心である「信楽」を
どのように解釈なさいますか?

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

○それでは、

『至心信楽の願=阿弥陀佛が信楽を十方衆生に回向なされるというお約束』

と言えますね。
では、善知識方は誰一人「十八願は、信楽の心にしてみせるというお約束」と
言っておられないなどと、とんでもないことを吹聴する清森氏は
完全に間違っていますね。よくわかりました。
親鸞さま、どうもありがとうございました。


名無しさん> ここからは私個人の意見だが

誰もあなたの意見など聞いていない。
親鸞聖人の名を騙って、根拠も相伝もない自説を吹聴して回る
のはおやめなさい。
親鸞聖人の御名を出されるなら、根拠を挙げてからにしなさい。

あなた方は、自説がまず先にあってお聖教を読もうとしているから
捻じ曲がっていくのです。
自分の考えよりも上に、まずお聖教のお言葉を置きなさい。

そういうことだから、あなた方は十九願の入口にさえ立ってはいないのですよ。

名無しさん> 単細胞やな~
名無しさん> バカが現れ続ける

などなど、汚い言葉を吐き続けるあなた方のその言動が
自らそれを証明しています。

早くそこに気付いて、罵詈雑言しか出ないその口で
お念仏申し上げる身になられることを念じます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

No title

>あなた方は十九願の入口にさえ立ってはいないのですよ

会長の金言だな

脱税・パクリ・捏造を繰り返す親鸞会は、19願の入り口にも入っていないだろ

そん体たらくで、人を見下すとは片腹いたい。

会計疑惑・パクリ・ウソ勧誘・本尊捏造・会長一族繁栄のための集金活動

これが仏教を説いていると自慢している団体のすることか

これまで、違法を問われたことがないのもウソ

豊田商事事件のときや餓死事件、学生過労死のときも、相当

問われている。

あまりにも弱小なカルトだったから相手にされなかっただけ。

だが、これからはそうはゆかないだろう。

親鸞会崩壊の序章がはじまる。

No title

○親鸞さま、「至心信楽の願」とはどういう意味でしょうか。


『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

(真実の信によって救われる願は、至心信楽の願である)

 この御文から、信楽をえた人が、浄土往生できるが願であることが分かります。



『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

(お釈迦様が、至心信楽の願心を宣説されました。報土に往生できる真実の因は、信楽である。だから大経に「信楽」と仰ったのである)

 この御文からも、信楽を得た人が報土に往ける願が、至心信楽の願心であると分かります。



○では、親鸞さま、その至心信楽之願の心である「信楽」を
どのように解釈なさいますか?

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)

(阿弥陀如来が、苦しみの衆生を哀れまれて、無碍広大の清らかな心で、私たちに与えて下される)

 わたしたちに信心を与えて下されると書かれていますが、どこにも正覚をかけるとか、約束すると書かれていません。これは、信楽の解釈で、若不生者の解釈ではありません。



○それでは、

『至心信楽の願=阿弥陀佛が信楽を十方衆生に回向なされるというお約束』

というのは、間違いですね。


親鸞聖人のお言葉を、恣意的に解釈して、「必ず信楽に生まれさせる」と吹聴する人がいるので、注意しておきます。

No title

ネットをいろいろ見ていてたまたまここに来てしまった。
なんだか、とんでもな事を言う者が多いと思ったのだが、
やっぱり親鸞会か。

なんというかムチャクチャ。
回答者って誰これ、何者?

==========================================================
【回答】
だからといって、18願を「必ず信楽にしてみせる」と言ってよい
という理由にはなりません。

また、善知識方も「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と解釈されています。
誰一人「信楽にしてみせる」と解釈されている方はありません。

ですから、私達が18願を「必ず信楽にしてみせる」と理解してしまうと、
善知識方の理解と、私達の理解が異なることになってしまいます。
============================================================

いやぁ、だって第十八願は至心信楽の願といわれるんだから、
信楽を回向するという願でしょ。何いってんだか。
回答者の理解が親鸞と異なるのは異安心だからでしょ。
いやまあ、親鸞会だから異安心なのはある意味当たり前だが。


コメントも時々まともなのはあるが、だいたいムチャクチャ。

親鸞の言葉を挙げてわりとまともなことを言ってるのは、
「清森氏の主張は?」氏かな。
「B(本物)」氏は、『副産物として現益も獲られます。』
なんて表現しているから、こりゃ真宗の同行じゃないぞな。
えせ同行やろ、親鸞会特有の。
真宗では現益を『副産物』などとは言わん。
総益に対して別益という言い方はあるが、
意味も指し示す内容も全然違う・・・


んん、ああ、なんだ結局「清森氏の主張は?」氏も
『至心信楽の願=阿弥陀佛が信楽を十方衆生に
回向なされるというお約束』 と言っているのか。
なら、はじめからそう言えばよかろうに。

親鸞会なんかに関わるな、といわれていたが、
理由がよくわかった気がする。
議論するだけ時間の無駄だわ。
お互い攻撃的だし、何いっても誰も自分の間違いを認めないんだから。
それがわかっただけでも有意義。(今後の時間の無駄が省けた。)

まあ、まともな同行は相手にしてくれんでしょうな。

No title

「部外者より」さま、

貴下にはご理解いただけたようで感謝しております。

私は、清森氏を攻撃するつもりはなくて、やんわりと
軌道修正されたらいかがですか、とはじめに何度も申し上げたのです。
清森氏は、知らない人ではないし角を立てたくなかった。
しかし、どう言ってもダメなので仕方なく、清森氏の主張は間違いと
指摘するに至りました。
そこは、どうかご理解いただきたい。

貴下はご存知ないようなので、一応申し上げておきますと、
回答者の清森氏は親鸞会を除名処分になった元専任講師
(親鸞会専属の布教者)です。
したがって、清森氏はもはや親鸞会の一員ではありません。

しかしながら、親鸞会で染み付いてしまった彼らの態度は
貴下の御覧になられた通りです。

私も、もう親鸞会の会員ではありません。
どうか、彼らとは一緒にしないでいただきたく思います。
私自身は彼らとは既に一線を画しているつもりです。

貴下に私の態度が攻撃的と映ったのであれば、反省します。
他に気付いた点があればおっしゃってください。
とても参考になると思います。

No title

信楽を回向されただけでは浄土に往生しないだろうが…。
そうでなければ、弥陀は十方衆生信楽を与えると誓えばよかったろう
何度言えば分かるのだろうか

「至心信楽の願だから、信楽を誓われた願だ。」

・・・単細胞もいいかげんにしてほしいよ

No title

「清森氏の主張は?」さん、

これは、どうもご丁寧に。
自分も不良同行だから、参考になるかどうか。

>回答者の清森氏は親鸞会を除名処分になった元専任講師
>(親鸞会専属の布教者)です。

ああ、回答者の清森さんって方は今は親鸞会じゃないんですか。
聞いていた親鸞会の雰囲気そのまんまだったもので、勘違いした。
親鸞会を長くやってた人なの?
異安心ぶりも議論のムチャクチャぶりも聞いていた親鸞会そのままなんだけど。


それで、第十八願は信楽を回向するぞという誓いだというのは
真宗では当たり前だと思うが、なんでそんなことが議論になるのかなぁ。
一体なにが問題になっているの?

まさか、念仏往生の願も至心信楽の願も若不生者の誓いも
第十八願を指すから、どれでも同じ意味だと、
算数みたいに考えているのではあるまいね?
それぞれにお謂れがあるから、算数のようにはいかないよ、
当たり前だが。

心は一つでも、それぞれ主眼として言われていることが違う。
その辺、親鸞会はいいかげんな高森教学しかやってないそうだから
理解していないんでしょうな。どうですか?

No title

>清森氏の主張は?

挙げている根拠が根拠になってないから問題なんだよ

弥陀が三心を回向するというのは聖人の御己証であり
法然上人でさえ言っておられない。
私も真宗門徒である以上聖人に従うが
なぜ従来衆生が起こすはずだった三心を弥陀が用意されて回向
されるものだと解釈するようになったかそこが大切だろう。
まずもともと、従来の本願解釈では信楽を与えると誓われたとはしない。
そこを基本認識としてもってなければ聖人の信仰の表明も理解できないだろう。

No title

「部外者より」さま、

清森氏は30年近く親鸞会で活動してこられた人です。

チューリップ企画(T社)と田中氏の「法論」についてはご存知でしょうか。
T社のアニメ第2部で体失・不体失往生のじょう論について描かれています。
その根拠としてアニメでは「若不生者」が使われました。
まあ、真宗では「即得往生」を出すのが常識でしょう。

それで、「若不生者」に現生の義はないから、
アニメの本願の解釈は誤りというのが田中氏と清森氏の主張です。

そこから派生して、今度は

清森説『善知識方も「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」と解釈されています。
誰一人「信楽にしてみせる」と(第十八願を)解釈されている方はありません。』

という方向に振り切れてしまったということのようです。

そこで、その清森氏の主張は完全な誤謬で

『至心信楽の願=阿弥陀佛が信楽を十方衆生に回向なされるというお約束』

と私は根拠を挙げてなんべんもなんべんも繰り返し繰り返し言ってきた。

清森氏らは、間違いに気付いても今更「まちがいでした、すいません」とは
謝れないというのが真相でしょう。
実際、彼らは何一つ根拠を挙げて反論することができませんでした。

信楽に当来の極楽往生も収まっているということを知らんのです。
当益のない現生正定聚はありえないのだが、そこが理解できていない。
無論、分ければ現益の正定聚不退と当益の極楽往生の現当二益です。
その辺の融通無碍というか自在さが彼らにはないのです。

「右だ」といえば、「右だけがほんとう」と勘違いし、
「いやもう少し左」といえば、「左だけがほんとう」と勘違いする。
真中にならんのですよ、それは真が真とほんとうにはわかっていないから。

だいたい問題の背景はこんな感じです。
(ただし、私からの視点ですが。)

No title

「?」さん、

挙げている根拠が根拠になってないから問題なんだよ
========================================

でたぁ、親鸞会特有の罵倒攻撃。

挙げられている根拠は、適切かどうかしらんが、
第十八願は信楽を回向するという誓いでしょう。
「清森氏の主張は?」さんの言っていることは、
そこに関しては変ではないですよ。

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

「清森氏の主張は?」さん、

> チューリップ企画(T社)と田中氏の「法論」についてはご存知でしょうか。

いや、詳しくは知りません。アニメは1、2回見たことはあると思う。
多分、それだと思うが、あまりハッキリ覚えてはいない。
つっこみどころ満載で、なんだろうな、これは?という記憶しかない。


>それで、「若不生者」に現生の義はないから、
>アニメの本願の解釈は誤りというのが田中氏と清森氏の主張です。

本願三心が現生で、若不生者は当来だから、
そこは清森氏が正しいのでは?


>だいたい問題の背景はこんな感じです。
>(ただし、私からの視点ですが。)

まあ、なんでこんな基本中の基本を認められないのか、
バックグラウンドはわかりました・・・
でも、自分みたいな部外者にはバカバカしい争論としか思えませんね。
申し訳ないけど。
間違いを認められないのも問題ですが、
そんな人に関わっているのも時間の無駄では?
議論する意味ないでしょ。

真宗学を勉強されたいなら、こんなところでウダウダやってないで
本願寺系の文化講座にでもいらっしゃったらどうですか。
得るものが多いと思いますよ。

No title

「部外者より」さま、

お返事どうもありがとうございます。

>>それで、「若不生者」に現生の義はないから、
>>アニメの本願の解釈は誤りというのが田中氏と清森氏の主張です。
>
>本願三心が現生で、若不生者は当来だから、
>そこは清森氏が正しいのでは?


ええ、もちろんその解釈もありますが、若不生者は当来だけか?
ということが問題になっています。
「若不生者」で現生の義は、全く無いのかという質問です。


>本願寺系の文化講座にでもいらっしゃったらどうですか。

内藤先生の講座など、いくつか受講したことはあります。
大変勉強になりました。

No title

「清森氏の主張は?」さん、

>ええ、もちろんその解釈もありますが、若不生者は当来だけか?
>ということが問題になっています。
>「若不生者」で現生の義は、全く無いのかという質問です。

ああ、若不と唯除で二種深心という解釈ですか、もしかして。
どこかで聞いたことはありますね、確かに。

でも、体失・不体失往生のじょう論での根拠ということなら、
「即得往生」でしょう、どう考えても。
なして、「若不生者」?口伝抄に若不はなかったような・・・

あれ?わかんなくなってきたんだが、「若不生者」と「即得往生」とが根拠に
出されていて、「若不生者」の方はおかしいよね?という話?


>内藤先生の講座など、いくつか受講したことはあります。

何度か受講されたことがあるなら、もしかしてどこかでお会いしている
可能性もありますな。こりゃ奇遇だ・・・

No title

「部外者より」さま、

>でも、体失・不体失往生のじょう論での根拠ということなら、
>「即得往生」でしょう、どう考えても。
>なして、「若不生者」?口伝抄に若不はなかったような・・・
>
>あれ?わかんなくなってきたんだが、「若不生者」と「即得往生」とが根拠に
>出されていて、「若不生者」の方はおかしいよね?という話?


いえ、アニメでは「若不生者」だけが根拠として出されていたので
そこが問題視されたのです。

実はここにも背景があって、大沼法龍師という方が、
「若不生者」と「即得往生」とを出して
体失・不体失往生のじょう論を説明していたんです。
若不は当来で語られることが多いが、
対応する成就文の「即得往生」は現生でしょう、
不体失往生が真宗ですよ、というような説明です。
(どちらも二義ありますけどね。)

「部外者より」さんはご存知ないでしょうが、
親鸞会の高森師は大沼師の本から多数パクっています。
ここもどうやらパクってきて、しかも肝心な「即得往生」の方を
落としてしまったというのが真相のようです。

ちょっとつつくとボロボロととんでもないものが出て来るのが
親鸞会のようですね。非難されてしかるべき団体です、確かに。


>何度か受講されたことがあるなら、もしかしてどこかでお会いしている
>可能性もありますな。こりゃ奇遇だ・・・

え~、そうですか。もしそうなら、それはすごい。

No title

「清森氏の主張は?」さん、

>「部外者より」さんはご存知ないでしょうが、
>親鸞会の高森師は大沼師の本から多数パクっています。
>ここもどうやらパクってきて、しかも肝心な「即得往生」の方を
>落としてしまったというのが真相のようです。

えっ、えぇ~~~。
多数パクってるって、本当それ???
いやぁ、事実は小説より奇なりとは言うけど、
さすがに予想だにしなかったわぁ~。
ちょっと勉強して、知ったかで攻撃的なことばかり言って
しかも自分の間違いは絶対に認めないのが親鸞会と思っていたが、
盗作は別の次元の問題でしょ。

アニメの根拠がどうとかなんて、ちょ、もうどうでもいいわぁ~。

ええ~、うそでしょ、それ!?

No title

「部外者より」さま、

>多数パクってるって、本当それ???

驚きでしょうが、本当です。私も親鸞会を退会してから、初めて知りました。
大変驚きました。そして悲しくなりました。
たとえば「大沼法龍 親鸞会」でググッて見てください。
多数見つかるはずです。
私は大沼師の本を入手して読んでいますので、
それらは事実と断言できます。

No title

「清森氏の主張は?」さん、

>たとえば「大沼法龍 親鸞会」でググッて見てください。

ああ、ほんとだ、こりゃすごい・・・

いやぁ、ほんというと親鸞会をちょっとからかってやるぐらいのつもり
だったんだけど、すごいもの教えてもらってどうもありがとう。

これからじっくり見てみますわ。

それでは、どこかでお会いしたらそのときはよろしく~

No title

「部外者より」さま、

いえいえ、私も偶然ネットで教えてもらったことですから。

こちらこそ、文化講座などでお会いしたときはよろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

No title

どうやら、親鸞会も嫌いだけど清森氏や上田氏も嫌いという人がいるようだな。

そんなに「正しい教え」とやらを主張したいなら、こんなところをチマチマ荒らしてないで、
マイブログでもマイHPでも立ち上げて、清森問答の読者を全員かっさらってみせればよかろうに。

「正しい教え」が説かれていれば、広報活動などしなくても、自ずと人が集まるものだ。

No title

ニュータイプのネット対策かと思っていましたが、どうやら友達いない君のマスターベーションのようですなw

自作自演のキャッチボールとは片腹痛いw

No title

【カルトのインチキ法論の定石(第3版)】
1,「絶対に正しい」と思っている(思わされている)意見を、壞れたテープレコーダーのごとく何度も繰り返す。
2,上記に抵触した対話者の提出した資料は、見なかったことにして無視。
3,対話者の意見を自分の解答しやすい形に改変(捏造)して反論。
4,対話者の人格を攻撃し、対話者の意見が価値のないものであるかのように印象操作。
5,自分の提示した見解が論破されたら「そんなことはわかっていた」と居直り。
6,それまで行っていた論点での議論で勝ち目がないことがわかったら論点スライド。
7,自分は答えないくせに、複数の不当質問で、相手を呆れさせるように誘導。
8,対話者があきれて反応しなくなった所で勝利宣言。

以下、対話者の反応がなくなったにも関わらず、
「勝利宣言」できない位ボロ負けしてしまった際の対処法。

9,相手の主張の都合の悪い部分を削除し、ボロ負けしていないかのように印象操作。
10,これまでの議論で扱ってなかった話題を積極的に扱い論点拡散。
11,まともな発言中にインチキドグマをブレンドし、あたかも全部がまともな発言であるかのように偽装。
12,これまでの議論で根拠を出さ(せ)なかったにも関わらず、そのことを前提に一方的に議論を進行。
13,指摘された資料は、ドグマに都合のよい形に資料改変。
14,対話者がいないので、最後の勝利宣言まで言いたい放題。

※ただし、以上の定石はツッコミが入らない場合に限り有効。
 ツッコミが入った場合は、要注意!

以上

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-65.html

苦笑が親鸞会を想定して作ったものだが、アンチ親鸞会かつアンチ清森・上田(親鸞会出身)にも適応されるようだな。

No title

>元会員X殿

>内藤とかいう布教師の自作自演にBET!

内藤とかいう布教師・・って誰?
もうちょい詳しい情報キボンヌ。

No title

>内藤先生の講座など、いくつか受講したことはあります。

自作自演キャッチボール君は、親鸞会臭がプンプンするんだけど、その人は元親鸞会?

それから何故、清森氏・上田氏も嫌いなの?

No title

昨日はやたら忙しくて見る時間なかったが
今日やってくるとすごいことになってるな

ソープランド氏の言うごとく嘘臭(うそしゅう)、自演臭がプンプンする展開に
なっててビックリです。
教義が正しいと思わせれば、会員を何とか引き留められると講師が捨て身
攻撃にでてきたのか、はたまた親鸞会関係者ともども嫌いなようなので華
光会関係の人なのかとも推測してみたりしています。
私としては、やたら権威を見せつけてもったいぶってくるしゃべり方辺りに思わず
チ○丸を連想させられましたので、親鸞会関係者にbetしたいと思いますね。

会を辞めようか悩んでおられる方、百聞は一見に如かず。
一度本願寺の文化講座に行ってみるといいですよ。
案外面白い結果が出ると思いますし。

ここで自作自演キャッチボールを指摘され、
見事に生き恥を晒した腹いせに、
2ちゃんねるにコピペしてた輩がいましたが、
結局誰にもかまってもらえなかったようですなw

せっかく親鸞会を離れたのだから、その硬直した思考回路も柔らかくして頂きたいものですなww

一人キャッチボールから一人ドッチボールに?

完全にキレちゃったよw
どんびきw

No title

自作自演一人キャッチボールを指摘され生き恥を晒し、
2ちゃんで憂さ晴らしを試みるも誰にも相手にされず、
腹いせの一人ドッチボールとは全く愚劣極まりない。

トルコ風呂、元会員X、ソープランドは、
誰かさんを笑いものにしただけで議論などしておらぬわ。

むなしい「一人遊び」をする前に、友達を見つかけのが先決であろう。

レッテルにはレッテル

清森シンパはじまた
もうこれはダメかもわからんね

愚劣な一人ドッチボール野郎を嘲笑したことに対して「清森シンパ」のレッテル張りとは、
言語禁治産者の語彙の貧困さに呆れてものが言えぬわ。

友達なき者に「友達を作れ」と言うのは極めて親切なアドバイス。
率直に申し上げて、存在が不要であり目障りなので、別blogでも何でも立ち上げて、一刻も早く視界から消えて頂きたい。

それとも、既に存在する別blogが誰にも相手にされず、
ここでこうして嘲笑されることに、己の存在価値でも見出だしたのか。

No title

親鸞会のネット対策員はいつもマスターベーション

というより、親鸞会の活動はマスターベーション

No title

親鸞会教義を「パクリ損ない」と言えるまで大人になったんだから、
もうちょっと頑張って友達作るまで成長してもらいたいですねw

No title

しっかり読んで脊髄反射してるじゃんw

No title

それとさぁ、パクリパクリって、ネットで捏造された情報にあんたら踊らされてる
だけなんだよ。バカみたい。
口惜しかったらネットで捏造されているもの以外のソースを見せてなよ。
ググれってバカじゃないのか。そんなもの wiki 丸写しの答案なみで0点なんだが。
1部似た表現があったから、全部がパクリってアホじゃないの?
全部が全部、「ほんとうだ。パクリだ。間違いない!」ってバカ丸出しなんだよ。
お聖教読んでりゃ、似た表現なんて出て来るもんなんだよ。
まあ、まともに教学もしてないあんたらじゃ、わかるまいがね。

No title

【詭弁の特徴(応用編)】

例:「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っているかどうか?」とい
う議論をしている場合

「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓ったという親鸞聖人の言葉はな
い」と言ったのに対して、
チ●ーリップ企画(=親●会)は…

1.事実に対して仮定を持ち出す
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓った』という、まだ発
見されていない親鸞聖人の言葉があるかもしれないじゃありませんか!」

2.ごくまれな反例をとりあげる
「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っていると言わなければ、信楽
になれない人がいるかもしれません!」

3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓った』とい
う親鸞聖人の言葉が発見されないという保証はありません!」

4.主観で決め付ける
「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓わないはずがありません!」

5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「浄土真宗では、『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓ってい
る』というのは伝統であり、常識です!」

6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「浄土真宗では、信は一念で頂くということをご存じでしょうか!」

7.陰謀であると力説する
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』とすると
親●会が長年教えていたことが間違っていることとになり、そうな
ると都合の良い本願●が画策した陰謀でしょう!」

8.知能障害を起こす
「上●・清●の印象操作には全くうんざり。バ~カバ~カ!」

9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』などと言
いなさる方は、真剣な聴聞が全く足りてないのです。全く信仰の幼
稚園と言わざるをえません!」

10.ありえない解決策を図る
「貴方が、信楽に生まれさせることを誓われた阿弥陀仏の御心に気
づくことを念じております!」

11.レッテル貼りをする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』など言い
なさる貴方の主張は、まさに善慧房の主張そのものです!辻斬り強
盗のような真似はやめていただきたい!」

12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「信楽に生まれるために、何の力が必要なのでしょうか?」

13.勝利宣言をする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』ことは、浄
土真宗の伝統です!このようなこともわからないまま逃げ出されました」

14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「必墮無間の後生の一大事もわからない信仰の幼稚園の貴方に、阿
弥陀仏の御心がわかるはずがありません!」(※親●会ドグマと異
なる=ミスと認識した人限定の発言)

15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』ということ
がなければ、浄土真宗の根底が崩れてしまいます!」

16.全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』という親鸞
聖人の言葉がないことを、現在発見されていない親鸞聖人の言葉も
含め調査し証明するのは不可能です!(だから、阿弥陀仏が信楽に
生まれさせることを誓っています!)」

17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』とい
う親鸞聖人の言葉はないかもしれません、しかしだからと言って、
浄土真宗に関係する全ての文献に『信楽に生まれさせる』と書かれ
ていないと言うのは言い過ぎではありませんか?」
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』という親
鸞聖人の言葉はないはずです。」
「『若不生者の生は、極楽に生まれることだけ』と親鸞聖人は述べ
ておられません!」

18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは何の力によって信楽に生まれるかどうかです。大
切な問題をお忘れになられてはいけません!」

19.権威主義におちいって話を聞かなくなる。
「信楽に生まれてもいない貴方に阿弥陀仏の深い御心がわかるはず
がありません!唯一絶対の善知識、高●先生だけが阿弥陀仏の御心
を明かにできるのです!」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-72.html

サンプル回収w

No title

なんかまたアホらしいことをほざいてるね、自演(?)クンが。

煩瑣だから省略したのを『見なかったことにして無視』とは恐れ入る。
自分に読解力がないのを棚にあげて、よくものうのうと雑言をならべたてれますね。
親鸞会に入っていた理由が分かる気がします。

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"『至心廻向』とは名号と願生彼国の2つを与えるという事だ"
というのが「成上起下」。

『至心回向の四字は、成上起下とならうなり。成上と云うは、
かみの信心歓喜を引き起すこと、法蔵因中の至心より生ず。
起下というは、しもの住不退転の前途を達すること、
また至心に回向したまえる如来大悲の無縁の慈悲より
成ぜらるるものなり』(願々鈔)

この解説を山辺赤沼の教行信証講義では、

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此の説の根底は、如来の大悲回向を示すにある。
即ち信心も往生も、皆如来の与え給う所に外ならぬ。
(~乃至~)
至心回向が中間にありて、信心と往生を.私共に与える
という説である
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とあります。
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この部分は誰も否定していません。

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子供が100点を取れたのは、親の教育・指導の影響も大いにありますが、子供の才能・努力によるところもあります。
私達が救われるのは、阿弥陀仏のお力であって、私の力は一切足しにならないはずです。この例えに関しては、珍しく清森さん本質を間違えていませんか?
例えは一部分だけを表します。ところが、ここを間違えては絶対にいけないという箇所があります。
絶対他力と半自力半他力の例え話知っておられますか?
子供は例え目の前にニンジンつり下げられたって、いつも0点とってる子なら百点満点はとれませんよ。
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たとえ話を悪用しては、他力本願という言葉の語弊が広がるばかりで迷惑この上ない。
不注意に相手の揚げ足とりをして真宗を汚さないでいただきたい。
十方衆生の救済がすべて弥陀一仏のお力であり、私たちが何もしなくてよいなら
聴聞も布教も必要ないでしょう。それどころか政治も経済も要りません。
みんな幸せな世がとっくに実現しているはずです。

絶対他力とはそういうことではありません。
見た目は自力ながら内容は他力ということがあるのです。
なにより自身の救われがたさの絶対性を確信することこそが
絶対他力の要点であって、何もしなくてもよいという救済の力の絶対性を
主張するものなら、あやまりという他ないでしょう。
なぜなら、現に世界には弥陀に救われていない人が大勢いるのですから。

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そうですね。
ここは、清森さんが、悪知識になってますね。
清森さんの回答は、間違いだと思います。
誤解を招きますから、弥陀の本願を説くときは慎重に正確にしていただきたいと思います。
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清森さんを擁護するきはないが、単じゅんに見解の相違としか見えませんね。
清森さんの気持ちを受け取れば、私はこうは読めませんでした。

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「至心信楽の願」とは何か。

『その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。』
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

『しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。
報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり』
(顕浄土真実教行証文類 化身土文類)

『真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を
真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。』
(教行信証大意)

その至心信楽之願の心である「信楽」の解釈とは、

『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
諸有海に回施したまへり。』
(顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
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宗祖が三心と十念を救済の条件にしている十八願の三心に注目していったことは知っています。
信心一つで救われるがために念仏が諸行と質的にまったく異なるものであると確信されたのだと思われます。
そして、三心=信心であると思想の展開を行っていくのです。

しかし、三心を誓われた願が十八願であることと
三心に必ずしてみせると弥陀が約束したことはまったくちがいます。
ここに挙げられている根拠の中で上の二つを弁別している根拠がありましょうか?
次にこれらの根拠をあげる場合は必ずこれに答えてもらいたいと思います。
答えないのなら、こちらも論を戦わせる意味がありませんので以後無視します。
よろしいですね?

また、弥陀が衆生に三心を回向することを約束された願と言うのもいいすぎです。
回向は本願成就文によって明らかにされるのであり、弥陀の真実信心(御心)とは言えても
そう約束されているとまでは行かないでしょう。
清森さんのたとえを借りれば、
親は、子供が100点を絶対とれないことを知っている、
だがなんとか100点をとらせたいために
あらゆる勉強の手助けをし、やる気がなさそうなときは機嫌をとり、
自分も率先して娯楽を避けるといった行為をする。
しかし、これは約束ではなく、親の本音です。
本音をしった子供があの約束はこういう親の気持ちが隠されていたのかと分かったところで
親が自分を必ず勉強させると約束したとは思わないでしょうし、
事実そういう約束ではありません。
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伝統的にはどのように解釈されているか。
例えば、教行信証講義(山辺・赤沼著)には次のようにある。
少々長くなるが「至心信楽の願」 を説明してある段を全文挙げる。

「(四)至心信楽之願
この願名の解釈に就いて二説ある。
一には至心信楽とは、真実信心の異名であると云い、
二には、至心信楽之願は、具には至心信楽欲生之願であるが、
その欲生は信楽に摂〈おさ〉めて、文字を略したと云う。
しかし大体に於いて、意味の上には、一致している説である。
しかし大握〈おおづか〉みに真実信心とするよりも、
願文によりて、特に「至心信楽」と仰せられたことであるからも
後の説が適切であると思われる。
欲生は第十九、第二十の二願の三心にも通じているから、
第十八願の特色としては、至心信楽の文字である。
『三経往生文類』の初めに、また真実信心あり。
すなわち念仏往生の悲願にあらわれたり。
信楽の悲願は、云々と標して、第十八願文を出されてある。
我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。
故に欲生を略して、至心信楽之願と命名せられたのである。
それならば、「至心」も「欲生」と等しく、十九二十の三心に通じているから、
それを略して、簡明に信楽之願と標せられないのであるかと云えば、
これにも種々〈いろいろ〉の説がある。第一には、三心の体は一浄信である。
即ち信楽の一をあげても欠くる所はないが、その上に二をあげ、三をあげてもよい。
今は至心信楽の二つ丈を挙げたという。第二には、至心信楽は、
願力回向の体であるから、その体によりて、願名とせられたという。
第三には願名の排列上から立論している。
我聖人の命名せられた三名の中、第一の「本願三心之願」は、
三信全体を掲げ、第二の「至心信楽之願」は、初めの二信をあげ、
第三の「往相信心之願」は、三心即一の信心一つをあげたのであるという。
かくの如く、三、二、一という排列の順序上、欲生を信楽に摂して、
「至心信楽之願」と標せられたと云うのである。
どの説も相応の理由があるから、寧ろこの三説を合糅にしたらよいと思われる。
即ち第十八願の主眼は信楽であるが、さればとて、その主眼丈を挙げねばならぬ
理由は毫〈すこし〉もない。今の場合の如きは、その主眼に至心の文字を添うれば、
益々豊富〈ふくゆか〉に第十八願の面目は表われるのである。
「如来の至心によりて成ぜられた信楽、」「如来の至心を体とする信楽」又は簡単に
「真実の信楽」という意味となりて、信楽の内容が、ふくゆかに表現〈あらわ〉れる。
この種の事柄は、乾燥な思弁のみに奔〈はし〉らず、宗教的情操の上から見れば、
円〈まどか〉に聖人の真意を了解することが出来ると思う。 」
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苦笑氏ではありませんが、これが何か?です。
あなたの説を支持するような内容はまったく書かれていませんよ?
これを見て何に反論すればいいのかよく分かりません。
つーか知っている内容ばかりです。
できれば何が言いたいかおしえてくれませんか?

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清森氏の主張なされたような
『我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。』
と書かれてあるでしょう。それが読めないのですか。
それとも都合の悪い記述は目に入りませんか。
あなた方は自説がまず先にありきとなっているから
この意味が汲み取れないのでしょう。
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断章取義が好きなのですかね。
それとも鳥のように一瞬前まで見ていたものを忘れてしまうのでしょうか?
前後の文脈を見れば、十八願の主眼として信楽をえらばれたのは
三心の中から、信楽を主眼としてえらばれたのは明らかです。
そもそも信巻は信心、大信についての文類であって
それに着目して、十八願を挙げているのですから
信心を冠した願名を名付けるのは不思議ではありません。
また聖人が本願の三心に注目されたことは浄土教の中で特異であり
聖人の教えの真髄でありますから、そのような願名を
好まれたとしてもこれまた不思議ではありません。
しかし、それをもって十八願が信楽を約束された願と言えるとは
まったく言えません。悪しからず。

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