スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答140

【質問】


清森様

また、コメント欄に質問がついていました。よろしくお願いします。

> 「難思の弘誓は難度海を度する大船. 無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」. (教行信証).
> 無明の闇を破する=信楽の身に生まれさせる
> と理解しておりましたが、いかがでしょうか。


> 子供が100点を取れたのは、親の教育・指導の影響も大いにありますが、子供の才能・努力によるところもあります。
> 私達が救われるのは、阿弥陀仏のお力であって、私の力は一切足しにならないはずです。この例えに関しては、珍しく清森さん本質を間違えていませんか?



【回答】

 質問はメールのみ、とお伝えしていますので、コメントされずに、質問者本人から以下のアドレスにお願いします。匿名でも結構です。(投稿は匿名不可)


 QWN01215@nifty.ne.jp


●難思の弘誓は難度海を度する大船

「難思の弘誓」とは、弥陀の18願のことです。
「難度海を度する大船」とは、この娑婆世界から、浄土まで渡して下さる船という意味です。

 ですから、これは「18願は、必ず浄土に連れていく誓いである」と親鸞聖人が仰ったお言葉です。


●無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

「無碍の光明」は阿弥陀仏のお力のことです。
「無明の闇を破する」とは、信楽になることです。

 ですから、「阿弥陀仏のお力によって信楽になれる」と仰ったお言葉です。


 では、これを、「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる約束」と言い換えて良いでしょうか?

 光明を誓われたのは12願ですが、どこを探しても「必ず信楽にさせる」とは誓われていません。12願をそのように解釈されている善知識も1人もありません。

 また、これを五願開示に当てはめて、「信」の働きと、言えないことはありませんが、12願にさえ「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と誓われていませんので、まして18願を「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と解釈するのは無理があると思います。


 喩えにつきましては、「Aならば、必ずBにする」という文章と、「必ずAにする」という文章は、決してイコールにならない、ということを示すためです。

 何でも、かんでも当てはめないで頂きたく思います。私が、何を喩えているかという、本質を分かって頂けば、このような誤解は無かったと思いますが、文章力不足をお詫び致します。

 もちろん、「Aの力によって、Bになる」という文章と、「Aは必ずBにすると誓っている」という文章も、イコールではありません。

 この辺りを、混同して考えている方が、多いように思います。



 私も、長年信じてきた、「命をかけて、必ず信楽にしてみせる」という解釈が、間違っているとは思いたくありません。

 どこかに、そのような根拠は無いかと、徹底的に探しました。

 皆さんから質問されるような内容は、すべて検討済みのものばかりです。

 しかし、残念なことに、調べれば調べるほど、明らかになるのは「必ず浄土に生まれさせる」という解釈以外は有り得ない、ということです。



 皆さんが、何とか18願を、「必ず信楽にしてみせる」と解釈したいという気持ちは、痛いほどよく分かりますが、釈尊も、善知識方も「必ず浄土に生まれさせる」としか解釈されていないという歴史的事実は曲げようがありません。


 高森先生は、おそらく個人的な味わいで「信楽に生まれさせる」と言われているのだと思います。

 ですから、「釈尊、善知識方とは違う、個人的な味わい」ということを、よく踏まえた上で、聴聞されたら良いと思います。

スポンサーサイト

COMMENTS

No title

親鸞会の人は、なんでそんなに間違った解釈にこだわるのでしょう。
困ったものですね~。

お父さんと子供の例えは、今回のような場合に当てはまらないのは明らかですよ。

よく考え直されてみて下さい。

No title

どっちに転んだところで、歴代善知識の「信楽をえた人を、浄土に生まれさせる」という解釈は揺るがないのに、今さら、何をごねているんだ。

要するに、善知識方は間違い、高森会長のみ正しいのと言いたいのか?

清森氏の主張は?

>高森先生は、おそらく個人的な味わいで「信楽に生まれさせる」と
>言われているのだと思います。

もっと正確に言っていただけますでしょうか。
高森師は大沼師の言われたことを剽窃して
「第十八願は信楽の心に生まれさせるお約束」と言っているにすぎません。
「絶対の幸福」や「相対の幸福」の言葉は創価学会からの剽窃でしょう。
(大沼師も「絶対の幸福」といわれている箇所はありますが。)

信じたい気持ちもわかりますが、客観的に見て
高森師に本当の信仰の味わいがあるのかどうかは不明ではないでしょうか。
本願文の解釈すら、剽窃しなければ高森師ご自身では
できなかったのではないですか?

件の相論も元をただせば、高森師の剽窃し損ないが根本的な原因です。
大沼師が慎重に述べておられるのを勝手に削ったりするから
問題になってしまったのではないですか。

大体、真宗学の肝心かなめの部分はほとんど大沼師からの剽窃です。
華光会の伊藤師に依る所もありますが、量的には大沼師からの剽窃が
群を抜いて多いです。

さらに言うと、例えば「一切衆生必堕無間」は
大沼師や伊藤師の書かれたものに見つけることは
できませんでした。(「必堕無間」はあります。)
これは高森師ご自身の言葉と思いますが、かなり誤解を招く表現で
間違いと言われても仕方ないと思います。
このブログでも徹底的に叩いておられましたね。

伝統的宗学にないと叩かれているのは大概、高森師が言い出したことですよ。
大沼師や伊藤師の言われていることと高森師の言葉をよく引き比べてみて、
大沼師や伊藤師が同じ事を言われている場合には、もう少し慎重に宗学に
当たってから批判を始められた方がよいのではないですか。
生半可に批判を始めると、結局はご自身を傷つけることになってしまうと
危惧します。

同門同士で言い合いをしたくはないのですが、間違ったことが流布される
ようなら「それは間違い」と言わざるを得ないのです。

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。