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質疑応答143

【質問】


 親鸞会では、『唯除五逆誹謗正法』を、『十方衆生』は『助かる縁手がかりの無い五逆謗法の者』だと見抜かれた、と教わりましたが、この解釈は正しいのでしょうか?



【回答】



 結論から言いますと、親鸞聖人は、そのように解釈されていません。


●善知識をおろかにおもい、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。親をそしる者をば、五逆の者と申すなり。同座をせざれと候なり。(末灯鈔)


 ここで親鸞聖人は、五逆罪・謗法罪の人と「同座するな」と仰っています。分かりやすく言えば、「近づくな」ということです。

 全人類が五逆謗法であれば、無人島で暮らすしかありません。

 五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくなと仰っているのです。

 もちろん、「親を邪魔だと一度でも思ったら五逆罪」とか、「善知識の話が長かったとか短かったと思うのが謗法罪だ」という教えは、仏教にはありません。



 また、少々難しいですが、教行信証信巻には以下のように書かれています。


●四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。

(乃至)

 しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。

 彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。

『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。



 ここに説かれていることは、

・五逆謗法を造っていない人には、これから造らせないために「除く」と言われた。

・五逆謗法を造ってしまった人も、実際は浄土に往生できる。

・ただし、「仏・聖衆が見えない」「正法が聞けない」「仏を供養できない」という3つの障りがあり、本当の幸せにはなれないけれど、地獄に堕ちるよりマシである。


 以上の3点です。


 浄土がなぜ素晴らしいのかと言えば、「仏・聖衆が見える」「正法が聞ける」「仏を供養できる」からであり、それが出来ないのであれば、浄土の幸福は享受できません。

 ですから、五逆謗法でない方が良いに決まっていますが、五逆謗法を造っていても、信楽をえた人は、地獄に堕ちないのです。

 これも、信楽をえた人に、五逆謗法の人と、そうでない人の2種類あるという前提で説かれていますので、全人類が五逆謗法と解釈するのは無理があります。



 結論として、阿弥陀仏が「唯除五逆誹謗正法」と仰ったのは、五逆罪、謗法罪の恐ろしさを教えて、造らせないようにするためだ、ということになります。

 これを「十方衆生は五逆謗法だ」と教えてしまうと、五逆罪、謗法罪を造るのは仕方ないということになり、誓われた意味がなくなります。

 ですから、親鸞聖人の教えられたように解釈すべきだと思います。

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COMMENTS

No title

親鸞会では、こんな人生、しんだほうがましだと思っただけで五逆罪だとか、善知識の法話に参詣しないのも謗法罪と教わりました。
善知識の法話を聞きにいけば、他のことを考えて謗法罪になるし、いかなければ謗法罪なので、全人類謗法罪とききました。
これは間違いだったのでしょうか。

No title

> 善知識の法話を聞きにいけば、他のことを考えて謗法罪になるし、いかなければ謗法罪なので、全人類謗法罪とききました。


 だったら、法話は無い方がいいね。

 みんなの地獄に落としてるのは高森さんか。

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