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質疑応答144

【質問】


 この議論で書かれていることは正しいのでしょうか。もし、違っている部分があればご指摘お願いします。



【回答】


> > この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
> > すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
> >  (如来二種回向文)

 この御文は、本願成就文から、11願を解釈されたものと思われます。

 五願開示の考え方からは、11願が「若不生者」に対応すると解釈できるのですが、そのように親鸞聖人がハッキリ書かれている根拠はありませんので、これが親鸞聖人の教えだと断言するのは躊躇があります。

 ですから、「若不生者」に、正定聚にさせるという意味があるとは断定できません。(そういう解釈も成り立つ、ということです)



 この文章を書かれた方は、

> 本願成就文を基準に読むなら、「信楽のものを、正定聚に生まれさせる」のが、「若不生者」の意味。

 このように解釈されていますが、正定聚になるのは、「若不生者」の前段階だと親鸞聖人は説明されているようです。

 本願文を詳しく解説された『尊号真像銘文』には、以下のように書かれています。


●「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。

 「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。

 「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。

 「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。

 如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。



 このように、「乃至十念」と「若不生者」の間に、「信心をえれば、正定聚になれる」と書かれています。

 正定聚になるのは、浄土往生の前ですから、この部分に入れざるをえなかったのではないかと拝察いたします。


 ですから、不体失往生の根拠は、本願文では「乃至十念」と「若不生者」の間の空白部分ですので、挙げようがありません。

 本願成就文によって、この空白部分に、「正定聚にしてみせる」の御心があることを、親鸞聖人は明らかにされたのです。




> > 分相の18願は、「信楽を与える」という約束
>
> と、ちび丸に合わせて、このように書いたが、聖教には、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」としか書かれていない。


 これも、分相の18願を、「信楽を与える」と味わうのは良いと思うのですけど、親鸞聖人が、そのような言い方をされている部分が一箇所もないので、やはり慎重な姿勢を取る必要があると思います。

 この方の言うように、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」という表現に止めるのが、無難だと思います。




> 「【信楽を獲た人は現益も獲られる】ということの根拠は
> 「即得往生住不退転」しか有り得ない。」
> と言うほうが、より正確な表現ですね。
> あくまで「若不生者」の「生」は「わが浄土に…」です。

 この意見で、問題ないように思います。

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