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質疑応答150

【質問】


 自分の中で信楽と正定聚との関係があやふやになっていまして、一度教えていただいたかもしれませんが、もう一度その関係について教えていただけないでしょうか。お手数ですが、よろしくお願いします。



【回答】


 信楽とは、阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態です。(信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません)


 正定聚とは、必ず仏になれる位のことで、通常は浄土往生と同じ意味です。


●仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。(教行信証行巻)


 親鸞聖人は、信楽の人は「若不生者の誓い」によって必ず浄土往生できるので、信心決定すれば正定聚になれる、と表現されているところもあります。


●いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟とは、未だすなわち等しというにはあらずとなり、と。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ(教行信証証巻)
※上地=正定聚

●この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。(尊号真像銘文)

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COMMENTS

異安心が正体

>信楽とは、阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態です。(信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません)


これは、断じて浄土真宗にあらず。似て非なるものなり。
清森氏、馬脚を表わす。

ねずみ様へ

>これは、断じて浄土真宗にあらず。似て非なるものなり。

結論を述べられただけでは何をおっしゃりたいのかよくわかりません。

印象操作のための書き込みとか、批判のために批判と疑われないよう、根拠と理由をきちんと明示すべきでしょう。あるいは清森さんに直接メールを送られ、教義議論をなさってみてはいかがでしょうか。

このサイトの読者として、補足書き込みをなされることを期待しております。

分析

親鸞会元信者として分析しますと、

親鸞会教義では、
「信楽」=「正定聚」=「必ず往生できる」
と間違って教えられていますので、

「信楽にさえなれば、阿弥陀仏の力を借りなくとも、往生できる」
と理解されています。

だからこそ、阿弥陀仏が命を懸けられたのは、
「信楽にさせる」
ということであって、
「往生させる」
というのは間違いだというのが、某出版社の主張です。

親鸞聖人は、18願を、
「信楽をえた者を、必ず浄土往生させる誓い」
と解釈されています。

ですから、信楽になった者が、浄土往生できるのは、阿弥陀仏のお力によることは明白です。

逆に言えば、信楽になっても、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できないので、清森氏は、あのように書かれたのだと思われます。


法の深信は「彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得、と深信す」とありますので、弥陀のお力によらねば往生できないと深信した人が、真実信心の人です。

親鸞会信者が、「信楽にさえなれば、阿弥陀仏のお力がなくても、往生できる」と思っているならば、明らかな異安心です。

No title

信楽ってなんですか?
往生の条件ってことですか??

どこがですか?(元会員)

ねずみさんへ

>これは、断じて浄土真宗にあらず。似て非なるものなり。
>清森氏、馬脚を表わす。

なぜ、異安心 と断定されたのですか?

意見が違う とか おかしい と思ったら

「私は このように思うから 間違いと思います 根拠は○○ですから。いかがでしょうか?」

が 正しいのでは。 お互い、間違いのある人間。だから 問答や信心の沙汰が
あるのでしょう?

清森さんが間違っていると いまのところ思いませんが、仮に間違っていたって いいではないですか? 真実開顕のご縁になれば。

なぜ、そんな、恨みつらみ。余裕のない発言をされるのか?ますます、意地になっているなあ。せっぱつまってつなあ と 見る人に思わせるだけですね

人を 断定するなら 明確に根拠をあげてください


信楽とは凡夫自力のこころにはあらず

ねずみ氏の言いたいことは何かわからないが、

清森説『信楽とは、阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態です。
(信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません)』

この『信じているだけですので』がかなり違和感がある。
そりゃ、自力だよ。

清森氏は「信楽」は阿弥陀佛が回向なされるもの、ということを
全然理解しておらんのでしょう。合点さえできていないと思う。

「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、
わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心
信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
(尊号真像銘文)

阿弥陀佛のお力によって「信じさせられる」。
凡夫自力のこころでは全然ないんですよ。
阿弥陀佛の勅命なんです。
信じ切らない者が、絶対「ハイ」とは随えない者が、
ぎりぎりまいして火の大海原のただ中で、
弥陀の勅命に「ハイ」と言わしめられた、それが真実信心だから、
『信じているだけ』では絶対にありえないんです。
そして、ただ弥陀のお力に引かれて極楽でも地獄でも
どこへでも参らせていただくんですよ。

清森氏には、必死の求道もなく、机上の空論、
お浄土に参る稽古ばかりしておるから
『信じているだけですので』なんぞという言葉が出て来るんです。

弥陀の絶対のお力を『信じているだけですので』なんぞという者が、
真宗の流れを汲んでいるはずがない。
清森氏のその言は、自身に求道の体験も教学の研鑚もないことの告白でしょう。

元会員ですが

なんか 言葉の いいまわし を あらさがし しているようにしか 見えませんね。
どこか、違和感がないか。 「おかしい!」という目でしか 見れないから
全面否定の 言葉でしか いえないのですね。

しょせん、相対の言葉のこと。 真意を確認する とかしたうえなら いいですが、
いいかげんな思い込みのコメントは 節操がないですよ。
ちゃんと 疑義があるなら、質問しなさいよ。
勝手に イメージをつけるのは、 もう ほどほどにしたらどうですか。

信楽とは凡夫自力のこころにはあらずさんへ

読ませていただきましたが、論理の流れに飛躍があるように感じられました。

>この『信じているだけですので』がかなり違和感がある。
>そりゃ、自力だよ。

確かに、『信じているだけですので』という表現はやや誤解を招きうるのではないか、という議論もありうるかもしれませんが、すでに清森氏は信楽について「疑いなく信じた状態」と述べておられるわけで、信楽について述べられた両表現を鑑みつつ考察・議論する必要があると思います。

・「如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず」(尊号真像銘文)

親鸞聖人は「本願の真実をふたごころなくふかく信じて疑わない」ゆえに信楽というのだ、とおっしゃっておられます。「凡夫自力のこころにはあらず」ですから、この信心が他力信心であることは自明ですので、祖師はわざわざ他力と断ってはおられませんね?

・「ただ、往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の仔細そうらわず。」(一枚起請文)

「疑いなく往生するぞと思いとりて」は他力である、と親鸞会の教学テキストで教えられませんでしたか?
「ふたごころなくふかく信じて疑はざれば」や「疑いなく往生するぞと思いとりて」の表現を念頭に置かれて、清森氏流には「疑いなく信じた状態」=他力という表現をなされたのではないでしょうか。

「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず」氏の「そりゃ、自力だよ。 」という表現は論理に飛躍があり、例によって清森氏を貶めるための一種の印象操作の恣意的な決め付と感じざるをません。いつもの親鸞会的な、断章取義的な曲解と解さられても仕方ないのではないでしょうか。

補足

念のため補足しておく。

この辺の清森氏の誤謬は一貫しているのではないか思う。

清森氏は、「真実信心は他力回向」ということが合点さえできていないのです。
そして、他力回向の信心が第十八願の主眼です。
そこが全然理解できていない。
言われてから「そんなことはじめから知っている」と答えるのは易いが、
本当のところまるでわかってはいらっしゃらないのです。

清森氏いわく『信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、
浄土往生できません』
とんでもない、阿弥陀佛のお力で信じさせられたからこそ、
ただ弥陀のお力に引かれて必ず極楽参りさしていただけるのです。
このことに全く疑いがなくなるのが他力回向の真実信心です。
清森氏が今思っている以上に
「信心獲得も死後の極楽往生もすべて弥陀の独用(ひとりばたらき)」
ということが明らかに知られます。
「真実信心は他力回向」ということがわかってないから、
清森氏のそういう発言になるんです。


清森氏は「至心信楽の願」と親鸞聖人が名付けられていることを
理解しておらず、『善知識方も(中略)誰一人「信楽にしてみせる」と
(第十八願を)解釈されている方は ありません』などと吹聴している。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-221.html

これについては一切訂正も謝罪もない。
清森氏はまだ間違ったままということだろう。
その清森氏の主張が完全な誤謬であることはいくつか根拠を挙げて解説した。

『至心信楽の願=阿弥陀佛が十方衆生に信楽を回向なされるというお約束』

と言えるのです。

「至心信楽の願」とは第十八願の主眼は「弥陀回向の信楽」ということです。
その「信楽」が我が身、我が胸に届いて、
『信じているだけですので』なんぞとは口が腐っても出てきやせんのです。
そんなことを口にするのは、弥陀回向の大信心を知らない者だけです。

信心よろこぶそのひとを  如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり     仏性すなはち如来なり (浄土和讃)


「ああ、不可称不可説不可思議の信楽よ」とただただ仰いで
お念仏を称えさしていただくばかり。
それがこの大信心であって、『信じているだけですので』という信心は
まったくの別物でしょう。


さて、三業と信心の関係にぎりぎりまいして苦しんで求道したことのない者たちに
申し添えておきましょう。

「いかなる振舞に『信じているだけですので』と言うのは入るの、入らないの?」
などとバカげたことを口にする者は、机上の空論をしているだけで
求道になっていません。いつまでそこに止まるおつもりですか。
ぐるぐる回る考えに果てはないが、あなたの命には限りがありますよ。
必死になって求道してご覧なさい。
弥陀のお力があなた一人にかかっているから、
必ず無碍の世界に出さしていただけますよ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

No title

教学的に考えれば、分かることだと思いますが…

「信楽」という言葉自体には、「往生できる」という意味は含まれていません。

もし含まれているなら、阿弥陀仏が「信楽の者を、必ず往生させる」と誓われるはずがありません。

親鸞聖人も、「信楽」については、「疑いが晴れた状態」としか仰っていません。

これを、勝手に「往生できる」という意味を付け加えている人の間違いを正すために「だけ」という表現を取られていることは、前後を読めば明らかだと思います。

無理やり清森氏を異安心扱いしたいのは分かりますが(そもそも、清森氏は獲信したと言っていませんが)、言葉尻を捕らえた不適切な批判としか思えません。

「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず 」様へ2

>清森氏いわく『信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、
>浄土往生できません』
>とんでもない、阿弥陀佛のお力で信じさせられたからこそ、
>ただ弥陀のお力に引かれて必ず極楽参りさしていただけるのです。

清森氏は「信じているだけ」=自力心とどこかで述べているんでしょうかね?
そうでなければ(非難中傷はじめにありきの)曲解としか思えませんが?

>清森氏が今思っている以上に 「信心獲得も死後の極楽往生もすべて弥陀の独用(ひとりばたらき)」 ということが明らかに知られます。

思い込みが強い方ですね。自分には読心術の超能力があるという主張でしょうか?

>「真実信心は他力回向」ということがわかってないから、 清森氏のそういう発言になるんです

これも残念ながら、あなた個人の思い込み発言にしか過ぎませんね。論拠が弱いです。
そういう議論を展開されるのなら、清森氏が他所において、「阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態」は自力回向だとどこかでおっしゃっている箇所を示せなくてはなりませんね。

>清森氏はまだ間違ったままということだろう。
>その清森氏の主張が完全な誤謬であることはいくつか根拠を挙げて解説した。

清森氏が他所において、「阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態」は自力回向だとどこかでおっしゃっている箇所があるのかと思って見てみたら、今回とは違う論点の議論を引っ張り出してきただけでしたね。

ちなみに、その議論において、おっしゃるような、「完全な誤謬である」という決着はいつ、どこで、どのようについたのか、具体的にご指摘いただけますか?

さて、以上述べましたように、「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず 」氏の説をここの閲覧者に認めてもらうためにすべき前提がありますのでそれを実行していただけますか?

それは、具体的に、あなたが攻撃するところの、清森氏が「阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態=自力回向」説と述べている箇所を指摘することです。
非難の根拠として、『信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、 浄土往生できません』 のみというのでは、あまりに論拠が弱すぎといわざるをえないと思います。

「阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態=自力回向」説という、清森氏が主張してもいない説を捏造して、その捏造説を否定したに過ぎないといわれないようによろしくお願いいたします。

PS
『故意に相手を、おとし入れる為に言葉の端や文章の一句を抜きとって非難攻撃するのなら、私はどんな人でも非難攻撃することが出来るし、どんな方でも立派に異安心者にすることが出来る。』(高森顕徹著「顕正」P.34)

「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず 」さんは、高森先生の忠実なお弟子さんとお見受けしますが・・

No title

清森シンパ乙

名無し様

>清森シンパ乙

私に対してのコメントでしょうか?

私はいつも「親鸞会よ、頼むからもっと良く(ましに)なってほしい」という願いをこめて書き込みしております。
そういう意味では清森シンパというよりはむしろ親鸞会シンパの立場ですので、くれぐれも誤解なきように・・。

バカだねこいつら

清森・上田一派は『信楽とは、阿弥陀仏の本願を、(中略)信じているだけ』
なんていってるんでしょ。オイオイオイ。
『だけ』ってなんですかぁ~、『だけ』って。
そんな信心だから、死後の往生に疑い晴れないわけ。

『阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません』なんて
臨終にもういっぺんご来迎をたのむ必要はないわけ。
ご来迎をたのむのは他宗。
まあ他宗じゃしょうがないけどね。何言ってもわからんでしょ。

体失・不体失往生のじょう論があってさえ、
死後の往生しかわからん連中ばっかりだよ。
宗学も碌に勉強しとらん奴らが、ピーチクわめいているんだから
どうしようもないわな。

こいつらアレでしょ、親鸞聖人が不体失往生が弥陀の本願だと
ハッキリおっしゃっておられるのに、体失往生をとなえているバカどもでしょ。
それじゃ、真宗を語る資格はないわな。

早く中根のように真宗騙るのやめればぁ~。
まあ中根ほどカリスマがないから磯部のようについていく人もないやろけどな。

バカだねこいつら 様

「バカだねこいつら 」氏のコメントを読ませていただきました。
いろんな意味で興味深いですね。
HNからして、いかにも親鸞会会員らしいネーミングですし。

さて、あなたの主張を理解するためにも是非確認したいので、ひとつ教えていただけますか?

>親鸞聖人が不体失往生が弥陀の本願だと ハッキリおっしゃっておられるのに、体失往生をとなえている

清森氏または上田氏が「体失往生をとなえている」と読める、具体的な箇所を挙げていただけますでしょうか?

もう一個だけ質問よろしいでしょうか。

>ご来迎をたのむのは他宗。

もしも清森氏または上田氏が「ご来迎をたのむべし」と主張されていると仮定すれば、それは明白に真宗とはいえないことになると思いますが、そのように主張されているというのでしたら、具体的な箇所をご指摘いただきたいのですが。

また、臨終時の観音菩薩の説法をたのむのは真宗ですか?他宗ですか?教えてください。

ちなみに私は親鸞会シンパです。

当家ではないよね

おう様には、過去一方的に意見を頂戴したものです。

親鸞聖人一流の教えは「平生業成」って、いつも親鸞会で聞いてきましたよね。
一枚看板とも聞いてきました。

ちなみに親鸞会シンパのおう様は、どちらだと思いますか?

そのお答えは、御文1-4に顕かに示されていますよね。

「来迎を期するなんどまうすことは、諸行の機にとりてのことなり、真実信心の行者は一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり、されば聖人のおほせには、来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚に住する、正定聚に住するがゆへに、かならず滅度にいたる、かるがゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなしといへり、この御ことばをもてこころうべきものなり」

極悪人様

>ちなみに親鸞会シンパのおう様は、どちらだと思いますか?

シンパという表現には「ひねり」が入っていますので念のため誤解なきようにお願いします。
高森会長がご自身の剽窃問題を認められ、「善知識に対する絶対服従」を会員に強いるなどに代表される異常な教義理解、華光会時代の隠蔽をやめられて過去の一切を会員に向けて総括なされること、息子殿に対する処断の誤りを認め直ちに正すこと、独善的・排他主義な運営方針を改めるなど、もろもろの総括をなされぬ限り、親鸞会が良くなることはありえないと考えております。

>親鸞聖人一流の教えは「平生業成」
>一枚看板とも聞いてきました。
>どちらだと思いますか?

臨終来迎・臨終業成に対して、本願成就文の聞信一念即得往生に基づき、「聞信の一念に浄土往生の業因が成就して、必ず浄土に生れ得ることが決定すること」という意味でしたら同意します。

ただし、平生業成=「大事業完成」「人生の目的完成」というラベリングについては、一概に同意しがたいのですが。
むしろこういう理解では、今を、永遠に生きることを教えられた平生業成の教えを矮小化する恐れが生じるように思います。こう申しても会員さんにはおそらく伝わらないでしょうけど。

会長さんの失でよく指摘されることは、「信後に師匠につかれず、独断専行し、周囲をイエスマンのみで固め、信後の求道、(禅宗で言えば)悟後の修行をおろそかにしてきたこと」があげられます。(高森会長が本当に信後であるかどうかについては異論があるかもしれませんがここでは議論しません)
二河白道の比喩にしても、二河を歩いている途上は信後の求道と味わうべきであって、いまはどう教えられているかは存じませんが、信を獲るまでの道程と味わうべきではありませんね。「白道」は願生心であり他力信心です。

No title

>高森会長がご自身の剽窃問題を認められ、「善知識に対する絶対服従」を会員>に強いるなどに代表される異常な教義理解、華光会時代の隠蔽をやめられて過>去の一切を会員に向けて総括なされること、息子殿に対する処断の誤りを認め
>直ちに正すこと、独善的・排他主義な運営方針を改めるなど、もろもろの総括を>なされぬ限り、親鸞会が良くなることはありえないと考えております。

残念ながら最早このような可能性はないとおもわれます。
こういった親鸞会の軌道修正を行おうとしたのが、M晴氏の不倫事件の背景なのですから。
会長自らが、親鸞会は高森一族のためのものであることを、事実上決定し、反対
するものを粛清したのが、あの事件の結末なのです。

ルイス様

返信ありがとうございます。

>残念ながら最早このような可能性はないとおもわれます。
>親鸞会は高森一族のためのものであることを、事実上決定し、反対 するものを粛清したのが、あの事件の結末なのです

確かにそのとおりなのでしょうね。会の私物化は順調に進んでいるようですし。

ひょっとして高森会長がここを見ている可能性があるかも知れないと思って書き込みしているんですが、一応彼が生きている限りは、親鸞会の体質改善の可能性は限りなくゼロに近いといっても完全にゼロではないわけです。

息子さんの代になれば親鸞会の体質改善などは到底望むべくもないでしょうから、こうしておせっかいなことを書き込んでいるというわけです。

『信じているだけ』の信心とは

アハハハハ、ハっ

さすがは、上田くん、『信じているだけ』の信心ですねぇ~。
なにせ、狐さまだか龍神さまだかより賜りたる信心だからなぁ~。
そんな信心じゃ臨終にもういっぺん何かのお力におすがりするよりないわなぁ。
後念相続のない信心かぁ、そりゃ龍神回向の信だからじゃよ。

清森くんもそんなお説教ばかりきいとるから

>信楽とは、阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態です。
>(信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません)

な~んてお粗末な信仰がポロッと口から出ちゃうのよ。
まあ他宗に流れた者たちはしょうがないわなぁ。
でも、親鸞聖人だけは誹謗してくれるなよ~。

No title

なぜ清森氏を批判する人たちは、
こんなにも言葉遣いが汚いのでしょう。
人間性も穢れてしまっているのでしょうか?
こんな人の語る仏法など聞きたくもありませんし、
こんな人の所属する団体には入りたくありません。

No title

>こんな人の所属する団体には入りたくありません。
私は親鸞会会員ですが、親鸞会会員(講師部?)と思われる人の、口汚い書き込みにはショックを受けています。
一体、この人は何を聞いてこられたのだろうか、親鸞学徒としての誇りとか、そういうものはないのでしょうか。

>でも、親鸞聖人だけは誹謗してくれるなよ~。
こんなこと書いていますが、この人の発言が一番親鸞聖人のお名前を汚しているように思うんですよね。本当に残念です。


No title

>人間性も穢れてしまっているのでしょうか?

>私は親鸞会会員ですが、親鸞会会員(講師部?)と思われる人の、口汚い書き込みにはショックを受けています。

『故意に相手を、おとし入れる為に言葉の端や文章の一句を抜きとって非難攻撃するのなら、私はどんな人でも非難攻撃することが出来るし、どんな方でも立派に異安心者にすることが出来る。』(高森顕徹著「顕正」P.34)

彼ら(HNを換えていても実はお一人かもしれませんが)は、きっと高森先生の教えに無条件服従し、ひたすら忠実な弟子であろうとしているのでしょう。

No title

おう様

>ひょっとして高森会長がここを見ている可能性があるかも知れないと思って書き
>込みしているんですが、一応彼が生きている限りは、親鸞会の体質改善の可能
>性は限りなくゼロに近いといっても完全にゼロではないわけです。

たしかに、かなりの確立で高森会長はここをよんでいるとおもわれます。
私は高森会長の個人のPCの設定をした人物を知っていますが、会長はPCを
自分で操作できるように大分練習もしたようです。

しかし、親鸞会の改革となると、最早悪化の一途をたどっており、改善の可能性は
ないといわざるを得ません。
元々杜撰かつカルトじみた運営だったのが、会長の勢いで、前進をすることによって
そういった異常な部分が目立たなく、見えなくなっていました。それも会長がめっきり
年老いて、何の反省も修正もなされなくなった現状、益々悪化(カルト化)し、一層
坂道を転げ堕ちるように評判を落とし、会員が離反してゆくことでしょう。

最近、昔からの幹部会員が次々とやめているという事実を多くの方から聞いています。

清森氏の粛清などは、親鸞会の終わりのはじまり、と捉えています。

龍神回向の信

龍神回向の信=『信じているだけ』の信心 ?

まあ、少なくとも他力回向の信ではないわな。

No title

「大きな虫を生かすには 小さなの虫を殺さねば成らない」

と高森会長は最高会議でいったことをある参加者から聞きました。

M晴不倫事件の際、ある若手講師を粛清したときの言葉です。

この人(会長)の信心は、少なくとも真実の信心ではないと確信しました

その後、次々とM晴を批判した講師を除名にしました。これからも

粛清は続くでしょう。親鸞会はただのカルト宗教教団です。

おう様へ

お返事ありがとうございます。

>>ちなみに親鸞会シンパのおう様は、どちらだと思いますか?

>シンパという表現には「ひねり」が入っていますので念のため誤解なきようにお願いします

もちろん、分っていますよ。
でもね、おう様も、私のコメントに、誤解なきようにって書いてあるでしょう。

このような場所では、私はそのような回りくどい書き方は返って、誤解されると思ったんです。

皆さんとコメント欄を共有するなら、(ましてや、御自分の意見を分ってもらいたいなら)、そんな書き方でなく、御自分のお立場を明確にし、尚且つ、皆さんのご意見をお伺いする方が、読んでいる人にはハッキリと理解できると思います。

私は、親鸞会を聞いてきて、そして辞めてもなお、親鸞会の呪縛に苦しんで、完全に親鸞会から離れられない人に、少しでも、客観的に物事を判断してもらう材料が提供できたらと、そのような箇所を探してきました。
離れてまで、どうして苦しまなければいけないのでしょう。

ここにもご紹介されている苦笑(本物)さんのような方のHPが出てきて、良かったと思います。
後は、御自分で判断されることだと思います。

ここでおう様とも御縁頂き有難うございました。

No title

親鸞会教義というものが相対化されたことによって、
阿弥陀仏の本願をより真剣に求めようと聞法されている方は、
どのぐらいいるのですか?




No title

>親鸞会教義というものが相対化されたことによって、
>阿弥陀仏の本願をより真剣に求めようと聞法されている方は、
>どのぐらいいるのですか?

阿弥陀仏の本願を求める過程は廃悪修善と教えられます。
親鸞会という悪を廃することは、阿弥陀仏の本願を求める上で大切なことだと思います。

上田・清森の龍神信仰

>信楽とは、阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態です。
>(信じているだけですので、阿弥陀仏のお力がなければ、浄土往生できません)

臨終にもういっぺん何かのお力におすがりするよりない信仰。
後念相続のないのは、龍神信仰だから。
上田・清森のいう「阿弥陀仏」= 龍神さま

No title

観音菩薩の臨終説法を期待して日々の苦痛に顔をゆがめながら

高森一族にすべてを捧げている親鸞会会員の信仰は?

No title

> 高森一族にすべてを捧げている親鸞会会員の信仰は?

そりゃ、善知識だのみでしょ。
他になにか?

No title

ネットをいろいろ見ていてたまたまここに来てしまった。

この回答者、親鸞会でしょ?
だいたいムチャクチャ。

=======================================================
【回答】

正定聚とは、必ず仏になれる位のことで、通常は浄土往生と同じ意味です。
======================================================

お東とお西では、違うんだが、この回答者は「往生」を現生と解釈しているのかな?
以降を読んでみると、どう考えても当来と解釈しているとしか思えないが。
この「浄土往生」が当来だとすると、「正定聚=浄土往生」はおかしいでしょ。
当益としての正定聚は、極楽往生した後の広門示現相を言われたものだよね。
浄土往生と同じ意味ではないでしょ。

日本語としてもおかしい。この浄土往生が当来なら、往生即成仏が真宗だから、
極楽往生して「必ず仏になれる位につく」というのはおかしい。
まあ、それは当来の正定聚の意味と現生の正定聚の意味をごっちゃに
しているからだろうが。

「通常は」も変な表現で、真宗では正定聚不退の位は現生で言われることが
多いと思いますね。当来の意味は、補足的に言われることが多い。
当来に力を入れたいなら、当来と現生と並列で言うべきでしょうな。
だから「通常は」を当来の極楽往生にかけるのはかなりおかしい。

というように、たった一文にこれだけのおかしなことが言われているわけ。

まさに親鸞会。
異安心でなおかつ不勉強!

こんな団体、相手にしたくないわな。
しかもコメントに間違いが指摘されていても、訂正するどころか
相手を罵倒してるんだから、病こうもうというかなんというか。
いやぁ、親鸞会としかいいようがない。

キチンと真宗を学びたい方は、こんなところをみているより
本願寺系の文化講座にでもいって勉強した方がいいだろうね。
熱心に勉強会をしているお寺さんもあるしね。

「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず 」様へ質問

お待ちしているのですが、まだお返事はいただけませんか?

繰り返します。

1)具体的に、あなたが攻撃するところの、清森氏が「阿弥陀仏の本願を、疑いなく信じた状態=自力回向」説と述べている箇所を指摘してください。

2)おっしゃるような、「完全な誤謬である」という決着はいつ、どこで、どのようについたのか、具体的にご指摘いただけますか?

No title

>おう殿
私見ですが、「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず 」氏は、別トピックで愚劣な自作自演一人ドッチボールを行った人物と同一なのではないでしょうか?

めでたく言語空間から抹殺されたのであれば、今後はシカトで更に発言の機会を与える必要はないかと。

トルコライス 様

> トルコライス 様

了解いたしました。
荒らしを相手にするものも荒らしといわれますしね。

では、この件はこれで終了とさせていただきます。
「信楽とは凡夫自力のこころにはあらず 」様、お返事はもう不要ですので。

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