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 教学聖典(6)問(22)に、破邪顕正しない者は仏弟子ではない涅槃経の根拠があげられています。某掲示板で、これは往生要集に出ていると某氏が言っておられましたが、よく似た根拠を教行信証に見つけました。

 「涅槃」の第三に云はく、
「如来今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属したまへり。(優婆塞優婆夷この諸の国王大臣および四部の衆、当に諸の学人等を勧励して、上の戒定智恵を増長することを得しむべし。もしこの三品の法を学せざることあらば懈怠なり。)戒を破り正法を毀つ者あらば、王及び大臣・四部衆、應當に苦治すべし。
是の如きの王臣等、無量の功徳を得ん。(当に小罪あることなかるべし、我が涅槃の後その方面に持戒の比丘あって正法を護持せん。壊法の者を見てはすなわち能く駆遣し呵嘖し恋治せよ。)是れ我が弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん。(もしは善比丘法を壊する者を見て、置きて嘖むべからず。当に知るべし、この
人は仏法の中の怨なり。)」
是の如きの制文、往往衆多なり。皆是正法に明かす所の制文にして、像・末の教に非ず。 


       (教行信証化土巻  法蔵館真宗聖典P475)

 ( )内は、教行信証では「乃至」とされているところですが、六要抄で補いました。

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??

>是の如きの制文、往往衆多なり。皆是正法に明かす所の制文にして、像・末の教に非ず。 

教学的には、無智なのですが、
どうなんでしょうね、「像・末の教に非ず」って、書いてあるなら、やっぱり違うんじゃないですか?
今は、末法の時代でしょう。

そして、この箇所の文面の前には、
但正法の時の破戒の比丘は、清浄衆を穢すが故に、佛固く禁制して衆に入れず
所以は・・・
そして、その後には、
然る所以は、像季・末法には正法を行ぜず、法として毀(こぼ)つ可(べ)き無し・・・

然る・・の意味は、「しかるに」「しかれども」「しかし」とよみ、「けれども」と訳す。
逆接の意を示す接続詞。
大事なのは、その後の文面だと思います。
(お陰様で、その後の箇所、有り難く拝読させて頂きました)

ただ、私は何しろ、暗記力が乏しいので、教学試験では四苦八苦していたのですが、そのおかげでしょうか?疑問が一杯起きてきたのです。
どうして、浄土三部経が、真宗の要と聞かされてきたのに、全く聞いたこともないお経を根拠にした問題が一杯あるんだろう。ましてや御文章には「一文不知の尼入道でも助かる」って書いてあるのに、矛盾しているなと思っていました。(講師にでもなる人は、別な教えも聞いてこられたのかも知れません)

No title

仏法中怨で検索してみると涅槃経には1箇所しかありませんでした。教学聖典の根拠も、往生要集も、教行信証も、同じ根拠だと思われます。親鸞聖人は「像末の教に非ず」と仰ってますが、親鸞会では破邪顕正の根拠ですか。「設し末法の中に持戒の者有らば、既に是れ怪異なり。市に虎有らんが如し。此れ誰か信ず可きや」

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