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投稿

清森様

親鸞会の議論の進め方を理解するのにとても参考になりましたの
で、清森問答でも紹介いただきたいと思います。

【カルトのインチキ法論の定石(第3版)】
1,「絶対に正しい」と思っている(思わされている)意見を、壞
れたテープレコーダーのごとく何度も繰り返す。
2,上記に抵触した対話者の提出した資料は、見なかったことにし
て無視。
3,対話者の意見を自分の解答しやすい形に改変(捏造)して反論。
4,対話者の人格を攻撃し、対話者の意見が価値のないものである
かのように印象操作。
5,自分の提示した見解が論破されたら「そんなことはわかってい
た」と居直り。
6,それまで行っていた論点での議論で勝ち目がないことがわかっ
たら論点スライド。
7,自分は答えないくせに、複数の不当質問で、相手を呆れさせる
ように誘導。
8,対話者があきれて反応しなくなった所で勝利宣言。

以下、対話者の反応がなくなったにも関わらず、
「勝利宣言」できない位ボロ負けしてしまった際の対処法。

9,相手の主張の都合の悪い部分を削除し、ボロ負けしていないか
のように印象操作。
10,これまでの議論で扱ってなかった話題を積極的に扱い論点拡散。
11,まともな発言中にインチキドグマをブレンドし、あたかも全
部がまともな発言であるかのように偽装。
12,これまでの議論で根拠を出さ(せ)なかったにも関わらず、
そのことを前提に一方的に議論を進行。
13,指摘された資料は、ドグマに都合のよい形に資料改変。
14,対話者がいないので、最後の勝利宣言まで言いたい放題。

※ただし、以上の定石はツッコミが入らない場合に限り有効。
 ツッコミが入った場合は、要注意!

以上
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-65.html



【詭弁の特徴(応用編)】

例:「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っているかどうか?」とい
う議論をしている場合

「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓ったという親鸞聖人の言葉はな
い」と言ったのに対して、
チ●ーリップ企画(=親●会)は…

1.事実に対して仮定を持ち出す
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓った』という、まだ発
見されていない親鸞聖人の言葉があるかもしれないじゃありませんか!」

2.ごくまれな反例をとりあげる
「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っていると言わなければ、信楽
になれない人がいるかもしれません!」

3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓った』とい
う親鸞聖人の言葉が発見されないという保証はありません!」

4.主観で決め付ける
「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓わないはずがありません!」

5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
「浄土真宗では、『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓ってい
る』というのは伝統であり、常識です!」

6.一見、関係がありそうで関係のない話を始める
「浄土真宗では、信は一念で頂くということをご存じでしょうか!」

7.陰謀であると力説する
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』とすると
親●会が長年教えていたことが間違っていることとになり、そうな
ると都合の良い本願●が画策した陰謀でしょう!」

8.知能障害を起こす
「上●・清●の印象操作には全くうんざり。バ~カバ~カ!」

9.自分の見解を述べずに人格批判をする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』などと言
いなさる方は、真剣な聴聞が全く足りてないのです。全く信仰の幼
稚園と言わざるをえません!」

10.ありえない解決策を図る
「貴方が、信楽に生まれさせることを誓われた阿弥陀仏の御心に気
づくことを念じております!」

11.レッテル貼りをする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』など言い
なさる貴方の主張は、まさに善慧房の主張そのものです!辻斬り強
盗のような真似はやめていただきたい!」

12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「信楽に生まれるために、何の力が必要なのでしょうか?」

13.勝利宣言をする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』ことは、浄
土真宗の伝統です!このようなこともわからないまま逃げ出されました」

14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「必墮無間の後生の一大事もわからない信仰の幼稚園の貴方に、阿
弥陀仏の御心がわかるはずがありません!」(※親●会ドグマと異
なる=ミスと認識した人限定の発言)

15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』ということ
がなければ、浄土真宗の根底が崩れてしまいます!」

16.全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』という親鸞
聖人の言葉がないことを、現在発見されていない親鸞聖人の言葉も
含め調査し証明するのは不可能です!(だから、阿弥陀仏が信楽に
生まれさせることを誓っています!)」

17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている』とい
う親鸞聖人の言葉はないかもしれません、しかしだからと言って、
浄土真宗に関係する全ての文献に『信楽に生まれさせる』と書かれ
ていないと言うのは言い過ぎではありませんか?」
「『阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っていない』という親
鸞聖人の言葉はないはずです。」
「『若不生者の生は、極楽に生まれることだけ』と親鸞聖人は述べ
ておられません!」

18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
「現在問題なのは何の力によって信楽に生まれるかどうかです。大
切な問題をお忘れになられてはいけません!」

19.権威主義におちいって話を聞かなくなる。
「信楽に生まれてもいない貴方に阿弥陀仏の深い御心がわかるはず
がありません!唯一絶対の善知識、高●先生だけが阿弥陀仏の御心
を明かにできるのです!」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-72.html
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No title

http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/2008/08/post_11.html

2008年08月14日

第十八願
 信心の無かった人に、あるとき信心ができる。浄土真宗ではこれを信心決定という。極楽浄土に往生するのも、仏になるのも、浄土真宗の考えによれば、信心がなければならないのだ。信心が決定するというのは、浄土真宗では、極めて重要な問題である。それでは、この信心決定はどのようにして起きるのか。田中氏とチューリップ企画との論争も、結局これを巡る議論だったと言っていいだろう。

  悪を廃し善を実践する。浄土真宗ではこれを廃悪修善という。力一杯に廃悪修善を行い、行い、行い切っていくと、「ああ自分には善を全く実践できない人間だった。悪をやめることができない人間だった」、そう知れてくるという。こう知れてくると、人には思わず「南無阿弥陀仏」という言葉が出、その一念で信心が決定する。チューリップ企画の背後団体は親鸞会であり、親鸞会ではそのように考え、チューリップ企画もその路線で主張を行っていた。

  親鸞会の教義は理解が困難なのだが、修善とは、二つの概念を包含しているようだ。一つは、破邪顕正という専門用語で呼ばれる行為であり、もう一つは布施と呼ばれている献金活動だ。破邪顕正とは、わかりやすく言えばいわゆる布教活動であるらしい。ただ、我々の理解を超えている点は、嘘をつくことを許容し、嘘つきを勧奨するという独特の価値観をもっているということである。

  布教活動と献金活動を、嘘をついて死にものぐるいで行うと、思わず「南無阿弥陀仏」という言葉が出るのだそうだ。常人は理解に苦しむ教義だが、とにかく彼らはそう信じている。ただし、死にものぐるいで行うということと、南無阿弥陀仏という言葉が出るというのは、どうやら不連続でもあるそうだ。不連続とか連続という概念には、彼らは独特の定義を付与している趣がある。まあ、詭弁なんだろう。正直言って、ここの理屈は他人には、まともには理解できない。親鸞会では、ここで、自力だ、他力だ、宿善だ、三願転入だという、理解不能の専門用語を機関銃のように噴出させる。次いで、「だから阿弥陀様の本願によって信心が得られ、南無阿弥陀仏という言葉が出る」という。廃悪という中に、嘘をつかないというルールはないようだから、なんとも珍妙な議論である。

  チューリップ企画で田中さんの相手になって論陣を張っていたのは、親鸞会の会長自身だったそうだ。少なくとも2ちゃんねるでは公然とそう言われていた。会長自身が他人の名を名乗って議論をするというのは信じられないことだが、親鸞会というのは、常人の理解を超えた世界なのだろう。

 親鸞会の議論は、雲をつかむような話である。全体は雲をつかむような話だということは、そのすべてが理解不能で論筋が見えないということではない。連続的につながっている議論の鎖の輪のなかで、ところどころ理解可能な輪もある。理解可能な輪の一つ前の鎖の輪は理解不能かも知れない。一つ後の鎖の輪も理解不能かもしれない。これでは前後の脈絡はわからない。前後の脈絡は分からないが、しかし少なくとも、ところどころ理解可能な輪もある。その理解可能な輪について言えば、よく見ると確実に破断していた。つまり破断している輪が存在する。そう分かれば、前後の輪の構造はわからなくても、雲を掴むようなその話は、第三者に分かる範囲で全体が破断していると言っていいだろう。鎖は、一カ所でも切れていれば、外は連続していても全体が切れていることになるはずだ。

  信心の無かった人に、あるとき信心ができる。これは阿弥陀仏の第十八願によるという。親鸞会の議論で、こんなところになぜ唐突に阿弥陀仏の第十八願が登場するのか、前後の脈絡は理解できない。しかし、前と後の間にある中間のこの部分では論理の鎖の輪が切れていた。このことは、今回、田中さんの指摘で判明した。同じように理解不能の部分にも切れがあるのかも分からないが、数少ない理解可能だった部分の輪は、少なくともそこは切れていた。それが分かった。

  「信心の無かった人に、あるとき信心を与えると言うこと」これは阿弥陀仏の第十八願で誓われている。チューリップ企画はそういう。前後の脈絡は意味不明でも、少なくともここの鎖の輪が切れていれば、親鸞会の議論は、全体が切れていることを意味する。

 仮に、チューリップ企画の主張が正しいとすれば、阿弥陀仏の第十八願は、信心の無かった人を救済の対象としている記載事項でなければならない。阿弥陀仏の第十八願は、信心の無かった人に信心を与えるとはそう言うことだろう。しかし、これがそうではなかった。それは、田中さんが証拠をもって指摘していた。阿弥陀仏の第十八願は、「信楽を得た人、つまりすでに信心のある人について、極楽浄土に引き入れるぞ」という誓いだったのだ。

 田中さんが挙げた根拠は、尊号真像銘文という親鸞が書いた文献である。田中さんは親鸞の教えに従っている。親鸞の教えに従う限り、信心のなかった人が阿弥陀仏の第十八願をもって救われるという主張は誤りである。

 仮に、自分は親鸞の説に従わないというのであれば、田中さんの主張は意味をなさなくなる。しかし、親鸞会は一応、親鸞の教えに従うと言うことを公言している。そうであれば、信心の無かった人が信心を得る根拠に阿弥陀仏の十八願をもってくることは誤りである。

  議論の前後のつながりは他人には不明である。しかし、少なくとも一カ所、確実に論理の鎖は切れていた。そういうことが判明したのである。

  信心の無かった人が、どうして信心を得ることができるようになるのか、親鸞説の範囲内でもう一度よく考えていこう。

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