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私の白道・仏法は聴聞に極まる(投稿)

私の白道・仏法は聴聞に極まる(投稿)


             親鸞会元講師部


 私が「私の白道」を書く目的は、こんな私がお目当てと阿弥陀如来が救い摂って下された喜びと、このご恩を思えば阿弥陀如来の本願の尊きことをお伝えする以外にないと思うからです。
 親鸞聖人が「恩徳讃」にそのみ心をお示しになって下さいました。

     如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
     師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

 常にこの心を忘れず書かせて頂きます。


○{仏法は聴聞に極まる}

 親鸞聖人は両親の死をご縁として、自身の「後生の一大事」死んだらどうなるのだろう、何処へ行くのかに驚かれました。
 解決の道は仏教にあると知られ、わずか9才にして出家なされたその決意は、大変なものでありました。
 だから比叡山での仏道修行は激しく厳しく、自身に容赦なく励まれました。
 しかし、煩悩具足の身、励めば励むほど知らされるのは、仏の覚りに遠い自己ばかり。
 本性は仏性であり、煩悩の穢れ汚れを修行によって清めてゆけば救われると教える聖道門・法華経の教えの限界を20年間の修行の末、身を持って知られました。
 泣き泣き比叡山を下りられた聖人に、「よくぞ参られた、そなたが救われるみ教えは阿弥陀仏の本願だけであるから、よくよく聞きなさい」と法然上人は教えて下さいました。
 雨の日も風の日も法然上人のご説法を聴聞され遂に、「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」(教行信証)
 阿弥陀如来に救い摂られたのです。
 信心決定、獲信なされました。
 それからの恩徳讃のご生涯は皆さんお聞きの通りです。

 ではどうしたら、後生の一大事は解決できるのか。
 法然上人から何を聞かれたか、親鸞聖人はどう教えられたのか、この一点こそ最も重要です。

 仏教を説かれた釈尊は、方便の聖道門・自力の仏教と真実の浄土門、他力の教え、阿弥陀仏の本願を教えてゆかれました。

 阿弥陀仏の本願、誓願、お約束には48願があり、18願こそ全ての人がこの世から救われる阿弥陀仏の本心を誓われたお約束であることを、親鸞聖人は法然上人より聞かれました。

  設我得仏 十方衆生  すべての人よ
  至心信楽 欲生我国  本願を信じて
  乃至十念       念仏申せば
  若不生者 不取正覚  必ず仏に成るべし
  唯除五逆 誹謗正法

 では、後生の一大事の解決が出来る、往生して成仏する因となる、本願を信ずるとはどういうことか。
 親鸞聖人は弥陀の18願文を明らかになされた釈尊の18願成就文をお示しになっておられます。

  諸有衆生 聞其名号  諸有の衆生其の名号を聞きて
  信心歓喜 乃至一念  信心歓喜せんこと乃至一念せん
  至心廻向       至心に廻向せしめたまえり
  願生彼国       彼の国に生まれんと願ずれば
  即得往生 住不退転  即ち往生を得不退転に住す
  唯除五逆 誹謗正法  唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん

「聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向」の釈尊のお言葉を知られて、

・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
(教行信証信巻)

・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
(一念多念証文)

・「廻向」は本願の名号をもって十方の衆生に与えたまう御法なり
(一念多念証文)

 このように、往生成仏の因となる至心信楽欲生我国の信心は、名号を聞く、仏願の生起本末を聞いて疑いの無くなったことであり、これは阿弥陀如来からの廻向、頂きもの、他力の信心であったと体得さなれたのです。


 蓮如上人もここを教えられて、


・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。
 これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(御文章4帖目8通)


・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
(御文章5帖)

・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
(御文章4帖)

・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
 しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
 これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
(御文章3帖目4通)


 ここまで読まれて皆さんどうですか。
 御本尊を御名号にされて朝晩、勤行の時、礼拝されている方は南无阿弥陀仏のみ心を本当に知られて礼拝しておられますか。

 私も、30年以上も前に親鸞会より御名号本尊を御下付され、礼拝してきましたが「無上甚深の功徳利益の広大なることその極まりなきものなり」の御文章のお言葉や、また「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」の御一代記聞書を根拠にこれこそ正しいの思い以外ありませんでした。

 また「聞其名号信心歓喜」が御名号本尊の根拠であることも知っていました。しかし、深いみ心は今思うと本当に分かっていなかったと知らされます。

 親鸞会を退会するとき、家の御本尊を返却するよう言われたので、文章と口頭で強く抗議し、従いませんでした。
 御本尊は最も大事、命をかけて御護りしろ、と指導しながら矛盾であると思ったからです。

 アニメでも親鸞聖人は、非難して去ってゆく信楽房に御下付された御本尊、与えられたお聖教をお弟子が取り返そうとしたら止められているでありませんか。アニメの聖人のされたことと違いませんか。こんなことでいいでしょうか。

 最近またも、退会をした人に支部長が御本尊を返せと迫ったことを聞きましたが、悲しいことです。六字のみ心がわかれば絶対出来ないことです。
 もう止めて下さい。親鸞聖人が嘆かれています。



○増井悟朗先生「本願の心」より

「聞によって廻向される」

「それでは、その信心歓喜乃至一念の廻向というものが、どのような方法で衆生に起こってくるか、つまり廻向の方法を示されたものが聞其名号ということであります。
 阿弥陀様は五劫の御思案、兆載永劫の御修行によって仕上がった大功徳というものを、全部南无阿弥陀仏のお六字におさめこんで、この名号のおいわれを説く声として、名声超十方と衆生にお与え下さる。
 それで衆生はこれを「聞」という形でいただく。
 声による廻向だから、衆生はこれを聞で受けるわけです。
 こういう仕掛けが聞其名号ということです。
 だから親鸞聖人は願文の「欲生」を解釈なさるのに勅命と廻向の二つの意味で味わっていなさる。如来様が「諸有の群生を招喚したまう勅命なり」勅命すなわち仏の呼び声ですから、衆生はこれを聞くということでこれを自分に受けとることができる。
 欲生の勅命の中に、その声の中に至心も信楽もおさめて廻向して下さるというのです。
 だから聞其名号によって信心歓喜乃至一念が起こってまいります。
 それを親鸞聖人は
「経に聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞といふなり」
と仰って、ここから聞即信という真宗独特の法門を展開されたのであります。


○いかに仏願の生起本末を聞くことが大事かが分かるではありませんか。


・おかる、庄松、山口善太郎、山本良介妙好人は19願の諸善を励んで、遂に18願に転入したと、いつ高森先生は説法されただろうか。誰か覚えていますか。

おかるーーこうにも聞こえにゃ聞かぬがましかーー
庄松ーーー合点ゆかずば合点するまで聞きなされーー
山口善太郎ーー聞けよ聞けよのお勧めがーー
山本良介ーーー金沢から四国高松、庄松の許へ聞きにゆく

 皆、真剣な聴聞をしているのではないですか。


 蓮如上人は親鸞学徒の鏡と言われますが、蓮如上人はどう説かれているでしょうか。


・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
(御文章2帖目15通)


「私の白道」にコメントをする人があり、読んでいるとその方の真意が分かります。
 退会した人を「それに騙される者など、よそ見をしている虚けか、鼻のイカれた病持ちだけだ」と書いて批判する人がありましたが、この人は阿弥陀仏の御心の分からない人だなと悲しくなりました。

・つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどということは不可説なり。(歎異鈔第6章)


 高森先生も「歎異鈔をひらく」に詳しく書いておられる。
 支部長はよく読んで、今後の退会者に無理な引き止めをしないで下さい。

「親鸞会、高森先生を離れて後生の一大事の解決は出来ませんよ。どうするんですか。絶対に助かりませんよ。」
などと決して言わないで下さい。それこそ親鸞聖人のみ教えに反しますよ。

 阿弥陀仏は十劫の昔から、どうしたら南无阿弥陀仏の心を伝えることができるか、受け取ってくれるか、このことひとつに掛り果てて一時も油断無く調熟の光明をもってお育て下さっている。
 阿弥陀仏のご苦労、ご恩を知れば自分から離れてゆく人を、「聞法の敗残者」とか「よそ見している虚けか、鼻のイカれた病持ち」など言うのは余りにも自分勝手で無慈悲です。
 阿弥陀仏は見放されないのです、決して。救い摂るまで付いて離れたまいません。
 こんなことを言うから会員さんが離れてゆくのも当然です。

 また、

「Sま田よ、昔も今も、少しも変わっておらぬの。「黒い心」の特有の黒さも。自前でこしらえた「白い心」の頼りなさも」

と教えて頂きました。

 親しい言葉つかいは、よほど私を知っておられる方のようです。
 その通り「黒い心」(煩悩)は信前も信後も少しも変わりません。
 変わらぬどころか、光明に照らされ余計に見えて、見えて恥ずかしい限りです。こんな私だから阿弥陀仏は棄てておけぬと、どれほどご苦労して下さったのか、申し訳なく有難い。南无阿弥陀仏。

「自前でこしらえた白い心の頼りなさ」と言えるのは、この人の体験かなと思ってしまいます。自分もそうだったからお前も多分、と思われてるなら随分と思い込みの激しい方だ。
 思い当たる人が一人あるが、今の親鸞会の現状は想定外で、相当あせってその上の発言とも思える。これは私の思い込みになるからやめておこう。



 本県では10月だけでも10名以上が退会していると聞いている。
 しかも、20年、30年の会員暦、幹部とか。
 合計はもう25名以上になるとか。
 原因を真面目に考えず、退会した人を非難したり、私のせいだとののしったりしているようでは、お粗末すぎる。
 自分の後生を真剣に考えてのことだから、現在の親鸞会、高森先生の指導に見切をつけられたことに間違いない。
 会員は何を言っても、善知識高森先生には無条件にハイハイと従うものだと思い込んでおられるようだが、皆さん正邪に自覚を持ち始めておられる証拠だろう。

「深いみ心ですから」は、もう通用しないことに気づいて下さい。
 絵に1億円の募財などと、怒っておられる方があったが、会員の心を無視して勝手な指示を出しておれば残っておられる会員さんも、同じ思いになられるのもすぐではありませんか。

 身を斬る思いの反省と、正しい教えを説くことに専念しなければ、親鸞会の使命は尽きることになるでしょう。



○三大諍論ーー親鸞聖人が法然門下の法友となされた諍論

●体失不体失の諍論

善慧房証空ーーー法然上人は諸行往生の者と言われた。

「諸行往生の機は臨終を期し来迎を待ち得ずしては、胎生邊地(化土)までも生まるべからず。諸行往生は非本願なるによりて定散の機にかぎる。」
(口伝鈔)

「講師部員は19願の入り口にも入っておらん」といわれたそうだから、化土さえ行けない。
 30年、40年、何をしていることになるのだろう。
 私は不安をいつも感じていた。
 高森先生は真面目に活動していれば、臨終に観音菩薩の説法にあえると言われたが、どこが根拠ですか。聞きましたか。
 また何を聞いて何処へ行くつもりだろうか。
 こんなことで安心して死を迎えられるのか、私には無理と思ったものです。
 講師部の皆さん、本当にそんな事信じているのですか。
 会員さんに本気で言えますか。

 阿弥陀仏の18願の救いは疑いながら、高森先生の言われることは疑いませんと言うのは、おかしくありませんか。
 一体どなたに助けて頂くつもりですか。
 とんでもない間違い、方向違いをしていると思いませんか。
 私も長い間、この矛盾に気が付きませんでした。

 親鸞聖人は常に「弥陀の本願まことにおはしまさば」だから弥陀の本願を伝えられた法然上人を心から尊敬なされたのです。
 よーく考えてみて下さい。
 そんなもろい信心なんて続きませんよ。これからも、まして臨終に通用しません、必ず崩れます、後悔しますよ。



 30年間聞いていても助からん者が、他所で1年かからずハッキリした、救われたと言うのはおかしいとトンチンカンな批判をしていることは前回書きました。

 聴聞は30年の時間より内容、聞き心が大事ということが分かったということです。
 山本良介も金沢で何十年聞いたが分からず、四国まで聞きに行って庄松同行の一言で弥陀の救いにあったと高森先生より聞きましたが、私への批判は矛盾していませんか。
 何が不思議なものか。
 おかしいと言う人こそ、弥陀の本願力不思議が分かってない人です、善慧房と同じですよ。
「聞其名号信心歓喜乃至一念」と何十年も聞いていながら、お気の毒な人です。この御文が信じられないから批判してしまうのです。
 平生業成、一念往生が弥陀の救いであることを強く自覚して下さい。



●信心同異の諍論

勢観房、念仏房、聖信房ーーー法然上人は自力の信心と言われた


 親鸞聖人が法然上人の信心と同じと言われたので、大先輩の三人が怒って諍論になった。
 私にも大先輩が沢山おられる。
 私を批判される心に、この三人と同じ心がありませんか。
 あんな奴が、あんな程度の聞き方で、あんな活動で何が獲信か。よく言うな。と。
 他力廻向の信心が分からねば、知恵、才能、学問、経験の三業で信心の有無を判断したくなるのです。
 何十年聞いていても、そうしか思えないのです。
 これが自力の信心です。
 阿弥陀仏の救いには、それは役にたちません。

 相談して来られる会員さんの中には、トンチンカンな批判の間違いをを見抜いておられる方もありました。
 その方は今月退会されたそうですが、気をつけて批判記事を書いて下さい、逆効果ですよ。



●信行両座の諍論

380余人は行の座ーーー法然上人は親鸞聖人の信の座に入られた。


 19願の諸善を力一杯やらねば自力無功と知らされず、20願の念仏、そして18願へ転入だ、だから今は諸善、活動をすればいいと思っている人は皆、行の座ですよ。
 教学に自信のある人は、せめて頭だけ信の座のつもりでしょうが、やはり行の座です。

「雑行が分かるだけでも30年40年かかる」と教学講義で高森先生より聞いたが、行の座に何十年もどっしりと座り続けている自分をどう思いますか。
 死ぬまでそこに座り続けるのですか。
 それでは70歳で初めて仏教聞いた人、聴聞会場に行けない病人は助からぬことになりませんか。

 蓮如上人「白骨の章」の御文章の心が分かりませんか。

・されば人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり
(5帖目16通)

 無常の命の私に阿弥陀仏の本願がかかっている、現在、ただ今間違いなく救われるから聞けよと教えておられるではありませんか。
 どんな聴聞しておられますか。
 こんな間違った教え方に気付いた人が、次々と退会をしているのですよ。
「こんな話をいくら聞いていても助からない」図星です。

 50周年の参詣の誘いに苦慮していると聞きますが、50年たってやっと皆さん気が付き始められたんだなと思います。



 阿弥陀仏、親鸞聖人はあなたをどのように見ておられれますか。それこそ「仏智疑う罪深し」本願を疑う恐ろしい人ではありませんか。
 親鸞学徒と看板を出していても、心は「仏敵」なのです。
 阿弥陀仏を真如法性の仏の座から引きずり降ろし、法蔵比丘にさせてまで五劫の思惟と兆載永劫の修行をさせたのは誰なのか。
 十劫の成仏以来、南无阿弥陀仏、死ぬぞ、堕ちるぞ、危ないぞ、早くまかせよ、我をたのめ、必ず助ける、堕としはせぬ、我が浄土へ生まれさせて仏の覚りをひらかせる、若し出来ねば共に地獄へ堕ちても離れんぞーの叫びが聞こえませんか。
 南无阿弥陀仏は名号、名のりであり、号は叫び、お前を助ける弥陀がここにおるぞー、早く来い、まかせよー、助けさせてくれーと叫び続けておられるのです。
 響流十方、大宇宙届かぬところは無く、今もあなたを呼んで、呼んで、呼びづくめです。

・「南無」の言は帰命なり。「帰命」は本願招喚の勅命なり
親鸞聖人(教行信証行巻)

・「そのまま来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」
(おかる同行)

・「私しゃあなたに拝まれて、助かってくれよと拝まれて ご恩うれしや南無阿弥陀仏」
(浅原才一同行)

・「四つとせよくよくお慈悲を聞いてみりゃ 助くる弥陀が手を下げて
  まかせてくれよの仰とは ほんに今まで知らなんだ」


 私もこの呼び声が聞こえたとき、大慈悲心に貫かれ、心の頭が下がり、無条件にまかせられてしまいました。文句も不足もないようにさせられてしまいました。すごい力です。


南无阿弥陀仏




○東京公開講演会の案内です。

日時  10月18日(土) 昼1時~5時まで
会場  全林野会館6階(文京区大塚3丁目3-28-7)
    入場無料
講師  増井信先生(華光誌編集長)
            質疑応答も有り


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COMMENTS

信心を三年間確かめなさい、と言われた意味をよく考えてみて下さい

No title

この方の、組織の問題、上層部の問題に対する警鐘には賛同いたします。

しかし、三願転入は心の道なのですよね?
だから妙好人と言われる方も、振り返れば実際は通っておられるのですよね?

19願の諸善って何ですか。親鸞会で勧められる顕正や財施の事を言っておられる
のですか。
19願の諸善は必要ない、聴聞だけせよ、という感じに受け取られるのですが、
確かに諸善が間に合って救われるのではないとお聞きしていますが、
やらなくてもよい、って事ですか。

この点だけお聞きしたいと思いました。
分かる方教えてください。

真の知識は、どなたですか

私の白道の著者様

誰のもとで聞けばいちばんなのでしょうか?
家族や知人をお誘いしても恥ずかしくない、自信を持ってお連れできる先生を教えてください。

私は行かないけど

↑こんなところで質問しないで、
東京の講演会とやらに行ってみたら良いのでは?

hさんへ

19願の諸善は、相手を大切にする心から行う行為と思います。
相手を幸せにすることです。
幸せとは、相手の苦しみを取り除くことや、仏法で説かれる幸せに相手が向くために
することです。

顕正や財施も、相手を大切にする心から行い、かつ相手が喜ぶことなら
19願の諸善だと思います。

ただし、
顕正の場合は、教義にかなっていても、相手が押し付けと思ったらダメだと思います。
押し付けは、心の面で、相手からすると「殺生の悪」と同じに感じるでしょう。
だから、押し付けと思われないように、正しい教義を、相手がその通りと納得するまで、
時間を掛けてゆっくり導くことが顕正と思います。

財施の場合は、法を正しく伝える方(相手)にするものだと思います。
お金が仏法を伝えるために使われているか、当然考えて財施する必要があります。
財施を通して、自分が仏法の理解を深めているかも、重要なポイントと思います。

自分が深く考えない顕正や財施は、たいてい悪になってしまうのではないでしょうか?
相手を大切に思い、押し付けず、仏法へ向かわせることが19願の諸善でしょう。

それから、
19願の諸善なく、聴聞だけでは救われないと思います。
19願の諸善は、三願転入に示されるとおり、信心決定に不可欠です。

hさんへ

19願の諸善は、相手を大切にする心から行う行為と思います。
相手を幸せにすることです。
幸せとは、相手の苦しみを取り除くことや、
仏法で説かれる幸せに相手が向くためにすることです。

顕正や財施も、相手を大切にする心から行い、
かつ相手が喜ぶことなら19願の諸善だと思います。

ただし、
顕正の場合は、教義にかなっていても、
相手が押し付けと思ったらダメだと思います。
押し付けは、心の面で、相手からすると
「殺生の悪」と同じに感じるでしょう。
だから、押し付けと思われないように、
正しい教義を、相手がその通りと納得するまで、
時間を掛けてゆっくり導くことが顕正と思います。

財施の場合は、
法を正しく伝える方(相手)にするものだと思います。
お金が仏法を伝えるために使われているか、
当然考えて財施する必要があります。
財施を通して、自分が仏法の理解を
深めているかも、重要なポイントと思います。

自分が深く考えない顕正や財施は、
たいてい悪になってしまうのではないでしょうか?
相手を大切に思い、押し付けず、
仏法へ向かわせることが19願の諸善と思います。

それから、
19願の諸善なく、聴聞だけでは救われないと思います。
19願の諸善は、三願転入に示されるとおり、信心決定に不可欠です。

No title

4、5ヶ月ぶりの書き込みになると思います。
華光会で2ヶ月ほど聞かせていただいております。知らされたことを書かさせていただきます。聞き間違いがあるかもしれませんがその点はご了承ください。

「19願の諸善なく、聴聞だけでは救われないと思います。」とありますが、まさしく行の座に入っている姿です。

華光会では「三願転入は親鸞聖人だからできたことで19願・20願は私たちにできることではない」と教えています。
阿弥陀仏が19願・20願を建てられた目的は18願の「五逆謗法のお前をそのまま救う」と誓われた本願を聞いても信じようという気さえ起きず、19願・20願の善ができるとうぬぼれている人を導くために説かれたものです。

阿弥陀仏のお誓いはこの時この場所このままの私を救うという本願です。宿善厚くなって来いと誓われていません。

聴聞だけでは救われるかどうかということですが、聴聞だけで救われます。ただし、「聴聞しておればいつか救われる」という聞き方では救われることはありません。聴聞の場で「今、ここで、このままの私を救う」という弥陀の呼び声を聞かせていただくのです(聴聞の場に限定されませんが…)。

聖人はご消息集(お手紙)に盛んに、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』のご文を拝読・信者に読み聞かせることを進めておられます。これらのご文の中に諸善の勧めはありません。

また、ご文章の中にも弥陀の救いを求めて諸善を勧めている所は1箇所もありません。


こう書くと批判されるかもしれませんが。
自分が深く考えたこと=正しいのでしょうか?

No title

↑の名無しさんは何を指して言ってるのかわかりませんが、
元自称福徳会員さんは、書き込みの最初に以下のように書かれています。


「聞き間違いがあるかもしれませんがその点はご了承ください。 」

道俗時衆共同心唯可信斯高僧説

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
いま私はうれしくてなりません。「私の白道」さま、今後ともご聖教の御心をご教示ください。よろしくお願いいたします。

No title

清森さんって華光会の人ですか?

一言

私は華光会の会員でもありませんし、一度も華光会に聞きにいったこともありませんが、私の教義理解はおそらく元自称福徳会員さんのご理解ととほぼ同じと考えております。

教行信証は、誰を対機にして説かれているのか、それは方便仮門に迷ってきた他流、そして他宗の学僧たちです。この点を忘れるべきではないと思います。一般の人々ではありません。特に法然上人の浄土宗を批判し、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著した明恵上人を念頭においていると言われています。

そして『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』のご文は誰を対機にして説かれているのか、祖師聖人は一般の人に対してどちらをよく読みなさいと勧められているのか、
一度お考えになっていただきたいものです。

興味あるかたは2001-2年ごろの「カルト親鸞会(親鸞会総合スレ パート9) 」スレッド過去ログにおける話題提供氏(=ちび丸氏)と昔々の会員氏(=華光会同人の方)の法論を読んでみられるといいでしょう。
427あたりから始まります。
http://life.2ch.net/psy/kako/999/999873436.html

私がこのスレッドで一番印象的だった発言はこれでした。

622 名前: ex飼い員 投稿日: 01/12/16 22:13

御恩報謝する気は起きないんだよ。
だから「念仏称えるべし」、なんだよ。
南無阿弥陀仏の意味をよく心得て念仏すりゃいいんだよ。
親鸞会の人は高森の巧みなレトリックに騙されて誰も信心を得られない。
高森は18願の世界に鍵をかけた。念仏の世界へ誰も行けなくなった。
本願をありがたく受け取り、念仏称える人の口を手で塞ぐような奴だ。
法の魔障、仏の怨敵とは高森のことだ。

追加

>また、ご文章の中にも弥陀の救いを求めて諸善を勧めている所は1箇所もありません。

これもまさにそのとおりでしょう。毎日御文章を拝読しておられるかたもいらっしゃるでしょうにね。どなたか、一箇所でも御文章において往生のために諸善を勧めておられると読める箇所を指摘していただきたいものです。

五重の義にしても、本来は善知識だのみに傾くことの戒めの教えであったはずなのに、親鸞会では逆に善知識だのみ的な信心(善知識に無条件信順しなくては阿弥陀仏に無条件信順できる道理がない、など)に傾かせるために会員に対して恣意的に歪めて教えているように思われるのは私だけなのでしょうか。

また、御一代記聞書において蓮如上人を過度にカリスマ視していたり、善知識に対する無条件服従を強調するような部分は大いに親鸞会において利用されていますが、はたして丸々鵜呑みにしてよろしいものでしょうか。

『真宗小事典』 瓜生津隆真、細川行信 編 法蔵館 によれば下記のとおりです。

本願寺八世蓮如(1415~1499)のおりおりの法話・訓戒・行状などを収録した書であるが、なかには九世実如の法話をはじめ、親しく蓮如の教えを受けた人びとの言行も若干収められている。・・・本書は『空善記』(空善著)『蓮如上人御物語次第』(蓮悟著)『蓮如上人一語記(実悟旧記)』(実悟著)などより抄出して再編集したもので、文中、蓮如を前々住上人、実如を前住上人と呼称することから、第十世証如の時代の編集と思われる。編者については諸説があるが、今日では蓮如の子実悟の編とする説が有力。また実悟の子顕悟の編とする見解もある。
(『真宗小事典』 瓜生津隆真、細川行信 編 法蔵館 より)

以上から、蓮如上人の言行録や生の御説法として100%信用することは危険であり、子や孫たちが蓮如上人が浄土に旅立たれた後の本願寺の組織強化をもくろんで「善知識」の権威づけのために蓮如上人の神格化・カリスマ化を画策して、脚色・肉付けしたと考えることがむしろ自然ではないかと一般には考えられています。

>『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』のご文

加えて、御自身が著された『唯信鈔文意』・『一念多念文意』、隆寛律師が書かれた『一念多念分別事』も同様ですね。
これらをよく拝読する人こそ祖師の教えを守る、正しい親鸞学徒であると考えます。そしてその中には、三願転入を修行の階梯であるかのように教えられている箇所は見出すことはできません。

さきにくだしまいらせそうらいし、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』なんどの文どもにて、御覧そうろうべし。それこそ、この世にとりては、よきひとびとにてもおわします。
(末燈鈔)

ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。いづかたのひとびとにも、このこころを仰せられ候ふべし。なほおぼつかなきことあらば、今日まで生きて候へば、わざともこれへたづねたまふべし。
(親鸞聖人御消息集)

また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも、みなそらごとになりて候ふときこえ候ふは、いかやうにすすめられたるやらん。不可思議のことときき候ふこそ、不便に候へ。よくよくきかせたまふべし。(親鸞聖人御消息集)

かならず一念ばかりにて往生すといひて、多念をせんは往生すまじきと申すことは、ゆめゆめあるまじきことなり。『唯信鈔』をよくよく御覧候ふべし。
(親鸞聖人御消息集)

No title

「元自称福徳会員」さんは、聴聞だけで救われた方なのでしょうか?

「おう」さんは、信後の方なのでしょうか?

「元自称福徳会員」さん、「おう」さん、
八萬四千の法門、要門が、なぜお聖教に出てくるのか、教えて下さい。

2008年10月15日書き込みの名無しさんへ

2008年10月15日書き込みの名無しさんへ

チビ丸さんではありませんが(笑)、他人に質問するのでしたらまずはHNをつけてください。
対話が成立しませんので。

そして、あなたの立場(会員か元会員か専任講師か脱会したシンパetc.)と、あなたが信前か信後かについてまずご紹介ください。

ここは某巨大匿名掲示板ではありません。上記はあなたのご質問に答えるうえで、最低限のことと思います。

>八萬四千の法門、要門が、なぜお聖教に出てくるのか、教えて下さい。

これについても私なりの考えはもっていますし、「元自称福徳会員」さんもお答えになっておられますが。
あなたのご質問の意図を知りたいので、あなたのお考えをまず披露していただけますでしょうか。

No title

おう様

「割符」が合うってお言葉御存知ですか?

不思議ですね。

「往生の鏡」と言われる後文章は、
やはり、往生の為の道しるべでした。

とても有難いです。
御文4-1
「・・・・されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得といふも宿善にあらずといふことなし、しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよはしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり、このこころを聖人の御ことばに遇獲信心・遠慶宿縁とおほせられたり、これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善無宿善のふたつを分別せずば、いたづらごとなるべし・・・・」

色々の方の見解も大事でしょうが、一番大事な事は、同じ一味の方かどうかです。
蓮如上人の御文も信じられないのでは、何を指針とするべきなのでしょう。

私達は、救われた後は、御恩報謝のお念仏だけでいいのですが、自分の信心と、蓮如上人、それは釈尊にまで通ずる教えと、全く一味同行ですので、拝読させて頂けば頂くほど、ただただ、過去世の宿縁を慶ばずにおれないのです。

No title

失礼しました。

後は御の間違えですね。

でも、有難いですね。

こんな、馬鹿な私でも、救われるんですね。

ありがとうございます

皆様色々教えていただきありがとうございます。
 自分なりに色々考えてみますと、弥陀如来に救われるのに、こうすればよい、というような方法はなく、「雑行を捨てて」本願に帰すとありますが、雑行が廃るのも阿弥陀仏の光明によるのであって、聴聞によりそれを聞かせて頂く他ないのだと思います。
でもそこまでには色々なご方便が必要だということでしょうか。

 しかし三願転入のお話を聞きますと、「じゃあ、こうしにゃならん、求めにゃ救われん!」となって、こういう自分の思いと、教えがいつの間にかごっちゃになってしまって、混同して、「親鸞聖人は19願の善をしないと救われないと教えておられる」という誤りになるのではないかと思いました。

 あと、おう様。話題提供氏と昔々の会員さんの法論初めて見ました。昔々の会員さんは素晴らしい方ですね。まだ詳しく読んでいませんが、私が感銘を受けましたのは

>親鸞会をやめたからといって阿弥陀様との御縁が遠のくわけではないですよ。というか
阿弥陀様の方が無縁大悲で離して下さりません。この間、久々にジャンヌの掲示板を
覗いてみたら、親鸞会の会員の方で御信心をいただかれたという方が書き込まれてい
ましたが、書かれている内容を読ませていただく限りでは、心境に無理もなく本当に
仏法を喜ばれているように感じました(所謂、「さくら」でないことを願います。)。
私自身は、現在の親鸞会の方向性には問題があるとは思いますが(御信心の自覚を大事にされる等、既成宗派が忘れている良い面もあると思いますが)、組織などとは関係なく御 法を喜ばれる方がいても不思議ではありません。若しかしたら、熱心な活動家の方より目立たない方に喜ばれている方がいるのかもしれません。こういう所に親鸞会の問題点を感じますが、仏法は知りそまなき人が知らせていただくものでしょうかね。…そんな形式は無関係です。信仰は私の内面のことです。

です。お互いに、自分の会こそ真実信心だとか他では信心決定できないと主張される方もありますが、私は華光会の中にも、親鸞会の中にも真実信心の方はきっといらっしゃる、そう思っています。

おうさんへ

おうさん

心を煩わせたようで、恐縮です。

<質問の意図について>
信前の方なら、ご自分の不審な点をはらすために問答するのかと、
信後の方なら、有縁の方の獲信を願うとともに、
自ら二河白道を進むために問答するのかと思っておりました。

一連のコメントを私が読む限り、信前・信後どちらかハッキリ
分からなかったもので、素朴な質問をさせて頂いた次第です。

<私の立場>
私は、親鸞会シンパでも、アンチでも、会員でもありません。
縁あって、春頃から清森問答を時々拝読するものです。

私は、信後のものです。

コメント欄へは、自由に書き込み・質問していいのかと単純に
思っていたもので、そして今回初めて書き込ませて頂いたので、
本当に素朴に質問させて頂きました。

悪質な妨害的コメントは当然悪いことと承知しておりますが、
私が質問するのも自由で、回答頂けなくともやむを得ないし、
という風に考えていたので、回答頂けるのか、特に回答無しか、
いずれかと思ってました。
逆質問されると思ってませんでしたので、少しだけイラッと
してしまいました。

でも、おかげさまで、少し火の河が迫ってきたので、また一歩、
二河白道を進ませて頂き、感謝しております。

イラッとしたのは、私の不徳の致すところです。
おうさんが逆質問されるお気持ちも、理解できます。
些細なことでイラッとしてしまい、またこんな内容で
恐縮ですが、私が伝えたいこと・回答したいことは以上です。

お返事

既視感がある書き込みと思ったら、名無しのちび丸さんを慇懃無礼にしたようなキャラのかたでしたか。よくあるパターンですが、「親鸞会とは無関係で信後」ということで親鸞会タームを多用されるあなたがどういう立場の方かはこれ以上おっしゃらなくとも、よくわかりました。

イラっとさせてすみませんでしたね。失礼しました。

>心を煩わせたようで、恐縮です。

お気遣いさせてしまったようですね、どうも痛み入ります。

>信前の方なら、ご自分の不審な点をはらすために問答するのかと、
>信後の方なら、有縁の方の獲信を願うとともに、
>自ら二河白道を進むために問答するのかと思っておりました。

違いますね。でも、それについて必ずしもあなたとお話しする必要も感じなくなりました。

私はさほど立派な人格でもないし、お人よしではありませんし、一定の目的をもってここに書き込みしています。時間も有効利用したいと思っています。
質問するのでしたらそれなりの礼儀を示せない人とは、あえてやりとりしようとは思いません。

>でも、おかげさまで、少し火の河が迫ってきたので、また一歩、 二河白道を進ませて頂き、感謝しております。

どういたしまして、よかったですね。私も感謝しております。
ご縁どうもありがとうございました。
今後も犀の角のように進んでいきたいものですね。

PS
「少し火の河が迫ってきたので」という表現は少々気になりますが、あえてこれ以上は突っ込まないことにしておきます。

親鸞会では

一、「『さてさて開山聖人の御流を申しみだすことの浅ましさよ、憎さよ』と仰せられ候て、
御歯をくい締められて、さて『切り刻みても飽くかよ飽くかよ』と仰せられ候」。
(御一代記聞書二四三).

はよく耳にしますが、

一、安芸の蓮崇、国をくつがへし、くせごとにつきて、御門徒をはなされ候ふ。前前住上人(蓮如)御病中に御寺内へまゐり御詫言申し候へども、とりつぎ候ふ人なく候ひし。
その折節、前前住上人ふと仰せられ候ふ。安芸をなほさうと思ふよと仰せられ候ふ。
御兄弟以下御申すには、一度仏法にあだをなしまうす人にて候へば、いかがと御申し候へば、仰せられ候ふ。それぞとよ、あさましきことをいふぞとよ、心中だに直らば、なにたるものなりとも、御もらしなきことに候ふと仰せられ候ひて、御赦免候ひき。そのとき御前へまゐり、御目にかかられ候ふとき、感涙畳にうかび候ふと云云。しかうして御中陰のうち蓮崇も寺内にてすぎられ候ふ。
(御一代記聞書二四〇).

こちらのほうは拝読しているんでしょうかね?
こういう例はかつて親鸞会であったんでしょうか。一度清森さんにお尋ねしようかと思っております。

さて、高森会長はいつご心中を改められるんでしょうね?自称親鸞会シンパの私は大いに気になるところであります。

補足

>教行信証は、誰を対機にして説かれているのか、それは方便仮門に迷ってきた他流、そして他宗の学僧たちです。この点を忘れるべきではないと思います。一般の人々ではありません。特に法然上人の浄土宗を批判し、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著した明恵上人を念頭においていると言われています。

自己レスです。
上記に対して、少々長いですが、教行信証講義(山邊習學 赤沼智善)から引用して補足したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖道門の諸教は教〈おしえ〉は尊善の法なれば、上代上智のもののためには、利益はあろうけれども、余の如き頑魯のものには、更に何の甲斐もなければ、甲斐なき法を捨てて、有縁有益なる弥陀の念仏の大法に依る」旨を宣伝せられたのである。この法然聖人の野に下っての大宣伝に対して、攻撃は二方より起った。
一は、南都北嶺の伝習にのみ囚われて権力争いに汲々たるがやがや連中からである。
一は、嘗て法然聖人と共に教界の腐敗を慨いて、精神的復古を計りつつ、法然聖人と異なる路を歩んで改革の火の手を挙げた人々からである。
この後者には、栂尾の明慧上人、笠置の解脱上人などがあった。この両上人の法然聖人に対する攻撃は誠に真剣であった。生命掛けであった。
明慧上人は専ら教義の上より、解脱上人は、専ら化風の上から攻撃せられたけれども、然もその攻撃を側面的に見れば、法然聖人が、聖道門の諸教の生命と力と利益のないことを断ぜられたに対して両上人は、その聖道の諸教の生命と力と利益とを自己一身の上に体現せんとしての抗争であったのである。南都北嶺のがやがや連中のことはいう迄の価値がないが、茲に法然上人と明慧解脱の両上人に依って代表せられた聖浄二門の対抗は、聖道の諸行が果して生命と力と利益があるか、否かの実際的論争であったのである。
明慧解脱両上人は、俊厳なる戒律を奉じ細々ながらも、聖道の教益を一身の上に顕わさんとせられた方である。而してその血の垂るような熱烈なる努力の上に確に生命と力とあったのである。
法然聖人は自ら十悪の法然房、愚痴の法然房と告白して、かかるものは弥陀他力の念仏より別の道なきことを唱導しながら、身は聖道門のひじりのする清高なる出家聖人の生活をなされた。
而して法然聖人より更に進んで、法然聖人の精神と信仰とを最も具体的に身を以て実証せられたのが、我が親鸞聖人であった。
我が聖人は、進んで、肉食妻帯の在家人となって、法然聖人の精神の註解者証明者となり、茲に法然聖人と明慧解脱上人等の、論争に最後の決着を与えられたのである。身を以て法然聖人の註解者証明者となられた我が聖人はその「教行信証」を以て、「撰択集」を註解し証明し給うは当然である。「化巻」一巻を熟読するものは、我が聖人が、この聖浄二門の対抗にいかに最後の決着を与え給うたかを知得するであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このように、特に教行信証方便化身土巻の書かれた目的については、山邊習學 赤沼智善両氏の見解は私と同様であることを申したいと思い、あえて引用させていただきました。また、「実悟記」に、 蓮如上人は、教行信証は未成年者に読ませてはならないとあります。

 「教行信証」は蓮如上人の仰せには、二十歳より内にはよますべからず候。若き時は 何としても聊爾に存する間、二十歳より以後、よますべしとの仰せ候間、愚老も二十五歳にてよみ申し候」

やはり読み間違いが起こって危険であるからなのでしょう。そのひとつが三願転入といえるでしょう。私の白道・5で次のような記述がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
村の方に高森先生は布教されたが、5名の獲信者は誰も三願転入の話を聞いたと言っていない。廃立は説かれた。
三願転入せずしてアリ一匹助からぬと今、説かれていることに合わないのですが、どう理解すればいいのですか。
この時の村人の信心は皆、異安心ですか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は「三願転入のご文」をあたかも修行のための階梯とか、「かならず信前のものが通るべき教え」というようには解しませんが、そもそも、高森会長御自身が自ら「三願転入の教え」なるものに基づいて他力信心を獲得したというように言明しているのでしょうか。

方便を「必ず通らなければならない」と解釈する高森会長は18歳で救われたといわれています。

月刊住職1984年7月号によれば、「戦争に負けて帰ってきて、それから龍谷大に入った。そしてその龍谷大に入って間もなく、親鸞聖人の教えに導かれて無礙の一道に生かされたのです。(中略)二十年に戦争に負けて、このときは特別で十一月に入学を許された。その翌年ですから、本当に間もなく。」とあります。

一体全体、いつ方便化門の修行に励まれていたというのでしょうか。救われる為に、信前に法施していたとか、財施していたとか、救われるために一心不乱の念仏三昧されたという事実はあるのでしょうか。

高森会長は華光時代に「何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。」と書いています。
高森会長が救われる為に、信前に破邪顕正していたとか、財施して家を売ったなどということはほとんど考えられません。おそらくなかったことでしょう。

もしも自分が過去にやったこともない修行を信者に無理やりやらせるように指導する人がいたとして、果たしてその人は真の善知識といえるのでしょうか。

親鸞会にとって妙好人の存在は、おそらく不都合でしょう。なぜなら彼らのなかで、救われるために信前に法施していたとか、財施していたなんて聞いたこと無いですからね。

高森会長同様、華光から親鸞会に流れたきたといわれるT岸さん。

このかたは信前から救われる為に、激しく法施していたとか、財施していたとおっしゃってますかね?

会員さんには「しかし、親鸞聖人や高森会長○○さんは頓機で特別な方々だ。ほとんどは漸機なのだからやはり方便仮門から・・」と言って思考停止する人もおられるかもしれませんね。どうしてもそう思えるかたは一生それでも構わないのではないでしょうか。
それもひとつの人生の選択ですし。
しかし、そういう選択をされた方を「親鸞聖人の教えを奉ずる人」とは認めたくはないですね。

補足2

以前親鸞会から出版され、わたしの記憶では再版のときに、例の欄干キラキラ云々が無断削除されたとかいうエピソードで話題になった、「絶対の幸福」の著者で岐阜県飛騨地方の妙好人、谷口春子さんは、十三歳にして信心決定した、と自ら手紙に記しています。

この方は、獲信者として少なくとも高森会長より認定されているとみなしてもいいでしょう。

さて、この書をもう一度読み直してみてください。

このかたは如何でしょうか。

信前から救われる為に、激しく法施していたとか、財施していたというようにおっしゃってますかね?

救われるためには、全人類がまず十九願の方便仮門からはいらなくてはいけないとおっしゃっている箇所がありましたらどなたかご教示いただけますでしょうか?

要門

一応、なぜ「要門が説かれたか」についての私の見解を概略ながら申しておきたいと思います。

それは、十九願の定散諸行往生を誓い、定散の機に遂に定散諸行往生を捨てしめ、他力念仏を立てるためです。観経において、諸善万行を浄土に振り向け、定散二善となりますが、終にはその定散諸善が嫌貶せられ、念仏の法を選んで阿難に付属されています。
その真意は、仏智疑惑のゆえに方便の世界に止まり、他力信の世界に入れない者に対して方便化土の往生を厳しく戒めるためと祖師は解しておられます。

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり。
『親鸞聖人御消息』

顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
(教行信証)

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは諸行往生のひとにいうべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(末灯鈔)

仏教において「応病与薬・対機説法」が重要でありますが、要門を実践可能な定散諸機の証果は化土往生であると祖師は懇ろに釘を刺しておられ、あくまでも報土往生を勧められたのです。

定散諸機格別の自力の三心ひるがへし
如来利他の信心に通入せんとねがふべし


私訳:それぞれの機根に応じた定散二善の修行をして往生を願う衆生は自力の心を捨てるべきである。なぜならば、他力信心による報土往生を願われているのが、観経において要門を説かれた本意であるからです。

要門の実践を勧めるのは、信行両座の諍論において、行の座に就くことを勧めることといえます。「浄土真宗」を勧めていることにならず、浄土他流を勧めていることになります。

では、「浄土真宗を勧める」とは、どういうことか、現在において、聞法することを勧めることであり、名号を聞くことを勧めることであり、仏願の生起本末を聞く」ことを勧めることである、といえます。

「財施や、法施の勧め」は一応散善といえますが、現在の親鸞会における「財施や、法施の勧め」のやり方は、受戒し、戒を保つことを前提とするところの経・論・釈にかなった実践方法で あるとは決して私は認めません。
万歩譲ってそれが叶っていると仮定しても、それは他流の勧めであって、浄土真宗の勧めとはいえません。『末法灯明記』を教行信証に長々と引用された祖師は、すでに「無戒名字の比丘」を自称しておられるいるわけで、すでに時機を失し、散善実践の前提が喪失していると解しておられるわけです。

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なほ成じがたきがゆえに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。・・・・悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲嘆すべし。
(教行信証)

「定散心雑するがゆえに、出離その期なし」とおっしゃる教えは臨終来迎を期す方便仮門であり要門の教えですが、無常迅速の機に勧める教えといえるのでしょうか。浄土真宗といえるのでしょうか。

暫用還廃

はじめに、遅くなりましたが極悪人さん、hさん、コメントいただきありがとうございました。
持論展開の場を与えてくださった清森さん、そして持論展開のご縁となった2008年10月15日書き込みの名無しにさんも感謝申し上げます。

さて、暫用還廃とは権化方便 と同義であり、真実の法に入らしめるために仮に設けた法門をいい、建築の際の足場のようなもので、真実の法門に導かれれば不要になり廃されるものをいいます(一応確認しておきますが、このときの「方便」の義は善巧方便の方便の義とは異なります。)

さて、親鸞会で「方便」を「必ず通らなければならないと解釈するのは必ずしも正しくないのではないでしょうか。聖道門も権化方便ですし、定善十三観の実践も暫用還廃の権化方便です。
親鸞会の解釈でいけば、浄土門は定善十三観からはじめなくてはならなくなるのではないでしょうか。
下記3つの引用をよくご参照になって考えてみてください。

祖師の解釈において、「自力」という点において共通する、聖道の諸機、浄土の定散の機も「仮」とひとくくりにされています。

真の言は偽に対し仮に対するなり。(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(中略)偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。
(顕浄土方便化身土文類)

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
(顕浄土方便化身土文類)

祖師は、浄土の要門=方便権仮=権仮方便と解しておられます。そして下記の和讃は聖道門=方便権仮=権仮方便と明確におっしゃってます。
(上記引用中の「真」とは顕彰隠密の義における「彰」の阿弥陀仏の弘願を意味すると解します)

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の 身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ 
(浄土和讃)

親鸞会の「方便」解釈からは、まず聖道門からはじめなくてはならないように思われますいかがでしょうか?それとも親鸞会では難行であるところの六度万行の実践を勧めていますが、あれは聖道門の実践の勧めという意味なのでしょうか?

ちなみに私見では特に最近の現在の親鸞会の頻繁かつ高額の募財の繰り返しの有様から容易に推察されるのですが、財施にしても、法施にしても、「要門の実践の勧め」(顕)における親鸞会的解釈は他の目的が「隠」であり、一種のレトリック・こじつけ解釈に過ぎないと理解しています。

祖師のお勧めは現在ただいま信を獲る「弘願門」であり、過去の造罪は問わず、修行の久近をまったく論じない法門です。

おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず、善にあらず、頓にあらず、漸にあらず、定にあらず、散にあらず、正観にあらず、邪観にあらず、有念にあらず、無念にあらず、尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来の誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。
(顕浄土真実信文類)

また、要門の「要」を必要の「要」と解するのも明白に間違いですね。これも以前どこかで議論になってましたが。

私の主張における論点は「要門を信前の人に勧めること」が「浄土真宗」であるか否か、にあります。
「要門の勧め」の教えが浄土教のカテゴリー内にあることを私は必ずしも否定しません。百の時に希に一二を得、千の時に希に五三を得といわれますので。
しかし、「要門を信前の人に教え勧めること」は浄土真宗の教えには含まれない、と私は主張します。
往生礼讃に云く、「もしよく上(かみ)の如く念々相続して、畢命を期とする者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。何をもつての故に。外の雑縁なく、正念を得るが故に。仏の本願と相応するが故に。もし専を捨てて雑業を修せむと欲する者は、百の時に希(まれ)に一二を得、千の時に希に五三を得。 (中略) 私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せむや。行者よくこれを思量せよ。
『選択本願念仏集』

下記引用の高僧和讃は親鸞会の教学聖典からなくなったとのことですが、その理由について考えさせられますね。

専修のひとをほむるには 千無一失とおしへたり 雑修のひとをきらふには 万不 一生とのべたまふ

反論をお待ちしています。
ただし真宗における聖典を引用しつつ論理的にお願い申し上げます。

No title

おう様

ようやく、私にもお返事頂ける時がきて、有難く思います。
この清森問答において、私は一方的に、私に対しての意見が述べられていました。


迷える凡夫さんの勧めておられることが、同じ問題に当たらなければいいのですが。

親鸞会に依存している皆様、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、親鸞会や会長をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、親鸞会や会長をよりどころとせずにあれ、と。
http://homepage2.nifty.com/nonsect/logs/0009.html#334

>私は親鸞会の会員であっても、極度の指導者依存、組織依存になっていなければそれほど問題ではないと思っています。

とおっしゃっています。「私も・・・」様が会員のかたか元会員のかたかは存じませんが、上記の問題点に留意さえされていれば親鸞会で引き続ききいていかれても、華光会できかれても、上田さんがたのところできかれても、それほど問題はないと思いますが。
2008年06月23日 | おう

私は、ビックリしてしまいました。
で、直ぐにこのコメント欄に送信を試みましたが、本当に何度送信しても、出来ませんでした。
そこで、このコメント欄から、山も山さんが新しくHPを開設したことを知りました。
早速、書込みし、その流れの中で、私のこれまでの名前の遍歴を書きました。
ご参考までに読んで頂けると嬉しいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080620/1213964879
http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=2&pastno=0&vine=14&page=0
http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=2&pastno=0&vine=13&page=0

私は、おう様が、ジャンヌ掲示板に書かれていた人ではないかと思いました。
なぜ、そう思ったか、

親鸞会に依存している皆様、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、親鸞会や会長をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、親鸞会や会長をよりどころとせずにあれ、と。

上記のお言葉のような書込みを読んでいたからです。
その方が、中村元のスッタニパータを薦めておられましたので、直ぐに本を買いに走りました。

私は、ずっとそのようにしてきました。
ジャンヌ掲示板を全部プリントアウトしました。
おう様が示した、2chの場所も読んで見ました。
そして、新人太郎にも興味を示しました。

私は教学的には、よくまだ理解できないのですが、
信心決定して思う事は、御文章の中身と私の信心が一致することです。

でも、この道は、御文章にも書いてあるように、宿善・無宿善を見極めなければならないと思います。
又、全て阿弥陀様のお計らいですから、私がどうせよと言えないと思います。
縁有る人は、いつかは導かれてくる道だと思います。
ただ、縁有る道を信じて歩むしかないのだと思います。

ただ、自分の直観力を大事にしてきた結果だと思います。




極悪人様

ご返信ありがとうございます。

御文章についても少々コメントを申したいのですが、(これは御文章に限らず祖師の「末灯抄」や「御消息集」についてもいえることですが)あくまでもともとは蓮師から個人宛の書簡であり、特定の個人に向かっての対機説法と解釈すべきだと考えております。それを拝読して個人の味わいを述べることは当然自由と思いますが、親鸞会のように、御文章の内容をあたかも公理や金科玉条的に捉え、「それゆえ全ての人にあてはまるのだ」というように教えてははならないと思います。

>私は、ビックリしてしまいました。

舌足らずな表現で失礼しました。
「法に依りて人に依らざるべし」という気持ちを持ち続けるのならば、たとえば、親鸞会の会員であることを選択することも個人の信仰の自由の範囲内である、という意味に解していただきたいと思います。
善知識だのみに陥らずに、自分の思考を大事にする視点を持ち続けることが大事ではないのか、という意図で申しつもりです。

祖師も大智度論を引用され、以下のように説かれています。

[『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。
(顕浄土方便化身土文類)

親鸞会にも功罪があると思います。
高森会長が親鸞会を作らなければいまの「おう」こと「わたし」はないといえますし、偽装勧誘の是非などカルト的問題点はさておいて、若者に仏教、真宗を注目させたというカリスマ性については認めざるをえないように思います。
高森会長が作られた親鸞会が真宗史にもまったく残らず、ただの地方の弱小○ルト教団で終わるか、真宗史にその名を残すのかは、ひとえに高森会長が全会員の前で過去を秘匿することなく、総括し表明する気持ちをもったおられるか否かにかかっているのではないかと思っております。

極悪人様へ 追伸

>私は、おう様が、ジャンヌ掲示板に書かれていた人ではないかと思いました。

たぶんそうかもしれませんね。
昔、ジャンヌ掲示板に書き込んだことはあります。

>新人太郎

親鸞会に入会しようかどうか、迷っていた新入生かと思ったら、中途であたかも別人のように変身を遂げられ、最後には親鸞会で教えられている教義に基づき、「他力信心の至極」についてとうとうと自説を披露していたキャラですね。
中途で論点を捻じ曲げてしまい、相手の人格攻撃をしつつ、最後には勝利宣言されつつ親鸞会教義を披露されていたかたと記憶しています。
新人太郎氏=高森会長説がありますが、諸情報を総合しますとおそらく私見では途中から高森会長で間違いないと考えています。この件も一度清森さんにお尋ねしたいと思っています。

大沼教学と高森教学

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり。
『親鸞聖人御消息』


親鸞会ではタテマエでは真仮廃立が説かれているわけですが、実際は説かれていないに等しいですね。
なぜなら、一方では定散二善=方便仮門=「仮」を通って三願転入しないと真には入らないと教えているわけですから。

真宗の同行よ、本当に他力不思議の信心が獲得出来ましたかい。真仮の水際が明かに味わえましたかい。権実の分斎がはっきりしましたかい。
聖浄二門は勿論、正雑二行、専雑の得失、三願転入、此は僧侶の学問ばかりじゃない。誰しも通らなければならない信仰の経路ではないか。
この従仮入真の経路こそみ佛様が調機誘引して大願海に帰入せしめる善巧摂化ではないか。
方便の方便たることを知らない者は真実の真実たる所以を知らない。
我等一切の群生方便より真実に転入してこそ本願を生かすことが出来たのだ。

(「魂のささやき」から引用)

という大沼氏の言葉がありますが、やはり高森教学は、大沼教学の深い影響下にあるということなのでしょう。

上記大沼氏の文章においては「真仮廃立の権仮方便」を「従仮入真の善巧方便」に差し替えるレトリックがあるように私には感じられますが、皆様、いかが思われますでしょうか。

自問自答

今のところ反論がありませんので、勝手ながら自問自答の反論を紹介したいと思います。
下記は教行信証化土巻からの引用ですが、
「祖師は一切衆生の機には定・散の二種あることを明かす、と教えられているではないか?ということはすべての人々が浄土門に入るとき、必ず定・散のどちらかを勧められるとことになるのではないか?つまり必ず要門を通らなければならないというご教示ではないのか?」という疑問です。

またいはく(序分義)、「〈欲生彼国者〉より、下〈名為浄業〉に至るまでこのかたは、まさしく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。これをもつて如来方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまへり」と。
(顕浄土方便化身土文類)

三福・九品とは廃悪修善の修行であり、これは仏教で教えるところのいわゆる「因果の道理」に基づいていますから、「もし廃悪修善が勧められていないとすれば、それは仏教でなくなるのではないか!」と私は真面目な親鸞会会員から叱責を受けるのかもしれません。
でもその親鸞会会員は果たして法然上人を叱責できるのでしょうか?

『選擇本願念佛集』第十二 仏名を付属する篇〕釈尊定散の諸行を附属せず、ただ念仏を以て阿難に付属したまうの文から引用 :
今正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明すと言うは、およそこの『経』の中にすでに広く定散の諸行を説くといえども、すなわち定散を以て阿難に付属して後世に流通せしめずして、ただ念仏三昧の一行を以てすなわち阿難に付属して遐代に流通せしむ。
問うて曰く、何が故ぞ定散の諸行を以て付属流通せざるや。(中略)およそ散善の十一人、皆貴しといえども、しかもその中においてこの四箇の行は当世の人、殊に欲する所の行なり。これ等の行を以て、殆んど念仏を抑う。つらつら『経』の意を尋ねれば、この諸行を以て付属し流通せず。ただ念仏の一行を以てすなわち後世に付属し流通せしむ。まさに知るべし、釈尊諸行を付属したまわざる所以は、すなわちこれ弥陀の本願に非ざるが故なり。また念仏を付属したまう所以は、すなわちこれ弥陀の本願なるが故なり。今また善導和尚諸行を廃して念仏に帰せしむる所以は、すなわち弥陀の本願たるの上、またこれ釈尊付属の行なればなり。故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くといえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに知るべし。


これを読んだ明恵上人が激怒するのも尤もだと思います。『選擇本願念佛集』を激しく批判した明恵上人は法然上人同様きわめて厳格に戒を保っていた清僧であり、回心の体験もあった人でした。
「三願転入」は本来教判論であって、全人類が通らなければならない教えと理解すべきではない、と論ずる私をおそらく許せない人々がおられると同様に、明恵上人は法然上人を許せなかったのでしょう。諸善に一生懸命励んでいる真面目な人ほど許せないはずです。

ところで、この世での善行をもとに往生を願うという要門の教えは、一見いかにも因果の道理に沿っているようで、実は逆に因果の道理が見えなくなっています。
この世での善行をもとに往生を願うという、仏道修行の原動力ともいえる目的と手段というパラダイムは、真宗においては「信罪福心」であり、仏智疑惑の自力の計らいの親玉ではなかったのではないのでしょうか?
下記は二十願行者に対する批判ですが十九願行者に対する批判としても通じるのではないでしょうか。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり
(正像末和讃)

真宗においては他力信を獲るために、若一日~若十日の念仏三昧をしろとは教えません。ましてや要門をやであり、勧められるのは聞法のみです。

真宗においては自力に執すること、自力に執することにつながることを教えてはならない、と私は主張します。

聞法って?

おう様

太字の文反論をお待ちしています。
ただし真宗における聖典を引用しつつ論理的にお願い申し上げます。 太字の文

済みません、論理的に対応出来ないと、おう様には質問も出来ませんか?


色付きの文字「浄土真宗を勧める」とは、どういうことか、現在において、聞法することを勧めることであり、名号を聞くことを勧めることであり、仏願の生起本末を聞く」ことを勧めることである、といえます。 色付きの文字

色付きの文字真宗においては他力信を獲るために、若一日~若十日の念仏三昧をしろとは教えません。ましてや要門をやであり、勧められるのは聞法のみです。色付きの文字

親鸞会でも、よく仏願の生起本末を聞くということを聞いてきたように思うのですが、
最近、親鸞会を離れた元自称福徳会員様に対してのコメント欄に下記のように書いておられます。

v-22聴聞だけでは救われるかどうかということですが、聴聞だけで救われます。ただし、「聴聞しておればいつか救われる」という聞き方では救われることはありません。聴聞の場で「今、ここで、このままの私を救う」という弥陀の呼び声を聞かせていただくのです(聴聞の場に限定されませんが…)。 v-22

色付きの文字私は華光会の会員でもありませんし、一度も華光会に聞きにいったこともありませんが、私の教義理解はおそらく元自称福徳会員さんのご理解ととほぼ同じと考えております。色付きの文字


そこでお尋ねしたいのですが、
おう様のお考えの
「聞法」はどのような聞法を言われるのでしょうか。
又、「弥陀のよび声」とは、おう様はどのようなものだと思われますか?
お答え頂けたら、幸です。

でも、私は教学的にはよく分らないので、出来ましたら、私に分るように教えて頂けると有り難いなと思います。

No title

おう様

お遊びみたいなコメント欄になってしまってゴメンナサイ。

なんでも触ってみたら、こんな風になってしまいました。

探究心旺盛なんですけど、何しろ、パソコンは苦手なので、、、、、宜しくお願いします。

極悪人様

私が形成してきた話の流れとずれるように思いますので、できれば、他のスレッドでお尋ねいただきたかったのですが、ご質問ですのでお答えしたいと思います。

その前提として、あなたのお立場を明らかにできますか?

次第相承の善知識様なる方から教えを受けられたかたでしょうか?
もしそうだとすれば代表者など、どういうグループ(または教団)に属しておられるのか、また属しておられないのかについて、明らかにできますでしょうか?
次第相承の善知識様は何とおっしゃる方ですか?

上記にお答えになった上で、私もお答えしたいと存じますがいかがでしょうか。
ネットは相手が見えません。客観的教義議論は相手が見えなくてもできますが、信仰にかかわるやりとりはお互いの立場をあきらかにする必要があると考えておりますが。

(純粋な教義議論でない、信仰にかかわる)ご質問をなされたいのでしたら、まず簡単で結構ですので自己紹介していただきたいと存じますが。

私の書きこみ読んで下さいましたか?

おう様

おう様、私はずっと、名前は変えたきましたと、書いているでは有りませんか?

私が示したリンク先も読んでは貰えてはいないのですね。

私が、なぜおう様の書きこみに興味があるか御存知ですか。

おう様の書き方は、「私見」と言いながら、でも、そこには、随分と断定的な思い込みがあると思うからです。

私の「迷える凡夫」に対しても、一方的な書きこみで、人に意見している訳でしょう。

私は、おう様と清森講師がどういう関係か知りませんが、しかし、おう様もここのコメント欄で、御自分のご意見をずっと披露してきていると思います。

おう様も、これだけご自分の意見をおっしゃりたいのなら、このようなHPを作成して下さると、私も色んなお話を御聞きしたいと思います。

私は、ブログを立てるような、能力がないので、「毎日の浄土真宗」の中で、菩提心として書いています。

私は、おう様や、清森講師や、S講師と違い、末端会員でしたので、全然親鸞会の内情を知る事が出来ませんでした。
初めて、甥から2chの存在を知ったのが8年前。
そして、2年半前に、ジャンヌ掲示板を知ったのです。
その間、ずっと、このような箇所を見てきてはいませんでしたが、
親鸞会の一般部で、一生懸命に頑張っていた母が、13年もの間、高森氏の呪縛から目覚めることは有りませんでした。

でも、私は、ずっとその間、末端会員ながら、末端会員なりに、客観的に見てきました。

その母を思うと、今私が信心決定しても、母と同じ様に苦しんでいる人の書きこみに、母のやるせなさをどうしても、他の人には味わってもらいたくないからです。

もう少し、人の書きこみを読まれてから、意見下さいませんか?

おう様は、
2008年10月15日書き込みの名無し様の書きこみに、ちょっとご立腹のようですが、でも、私もこの方の質問と同じ思いがします。

おう様は信心決定されておられるのですか?
信心の沙汰とは、信心決定されている同志が、
お互いに、その信心を語ることではないかと思います。

信心決定されていないのなら、それは「自障障他」になるのでは有りませんか。

まず、私の方から、おう様は信心決定されておられるのか、御聞きしたいと思います。

今後も犀の角のように進んでいきたいものですね。

って書かれていますが、していますとはハッキリおっしゃっておられませんね。

色んな根拠を出してお話することが、返って、真実の目を曇らせることもあると思います。
それは、ご自分の智慧で計っていると思います。

極悪人様

返信ありがとうございました。
残念ながら、私がお尋ねした質問に答えていただけなかったようですね。
あなたのお立場をほぼ認識しましたし、これ以上のご返信は無用ですので。

あなたは真宗で相承が大事とおっしゃいますが、なぜ次第相承の善知識様をいまここで堂々と明らかにできませんか?(と申しましてもあなたがご返答できない理由をほぼ掴んでおりますが)

私はここに一定の目的をもって書き込んでいると既に申しました。

私が要門についての書き込みを長々としはじめたのは、書き込みに反応してほしい人がいるからです。
それは、あなたのような、自称信心決定者であっても聖典をもとに親鸞会教義に対して持論を展開しようとされないかたではなく、このコメント欄を信心の沙汰の場と捉えている方でもありません。
親鸞会の現会員か、脱会者において、「三願転入を教判ではなく教えと捉え、要門からはいって三願転入しないと信は獲られない」という考えをもっておられるかたです。そもそもあなたのような方に教えらるようなものを私はもともと持っておりませんし。

あなたがおっしゃりたいことはは、結局のところ、新人太郎氏と同じのようにもきこえますね。信人決定しなくては他力信や教学を語る資格がない、というようにもきこえますがいかがでしょうか。

私は自分の立場をすでに他所で表明していますが、私はいわゆる信心決定病にはかかっていない者、信心決定病を克服した者、とだけ申しておきましょうか。

正直申しまして、あなたはいわゆる異安心のかたではないかと疑っておりますが、その理由をあえてここで述べたいとも思いません。それはあなたにとっても面白いことではないでしょう?

私が断定的な物言いをしたように聞こえましたか?ご不快でしたら聖典をもとに持論を展開していただけないでしょうか。
私はこのスレッドにおいては、「三願転入」の解釈を含む親鸞会教義の相対化にかかわる教義議論をしたいから書き込んでいるのであって、他の目的はありません。話題を別方向に変えられてしまっては、仕事の合間にせっせと書きこみした甲斐がありませんね。やはりブログでも作って持論を展開すべきだったのかもしれません。

あなたの書き込みをみていますと、このコメント欄が「信心の沙汰の場」という思い込みをあなたもなされているんではないでしょうか?

あなたが聖典をもとに話の流れに沿った持論を展開されるようでしたら、再びお話させていただきたいと存じますが。

三願転入は教判論である

三願転入は教判論である

まずは横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門は真宗ではないことを確認しておきます。

ただ阿弥陀如来の選択本願(第十八願)を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。
また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。

(愚禿鈔)

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。
これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。
これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。
これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。

(教行信証化土巻)

しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。
一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。(
教行信証信巻本)


真仏弟子と言うは、真の言は偽に対し、仮に対するなり。
弟子とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。
この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、真仏弟子と曰う。

(教行信証化土巻)

横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり

(教行信証信巻末)

親鸞会における真仮廃立は「浄土他流(浄土宗、時宗など)を捨てて、真宗に入れ」 であるはずでしたが、同時に浄土他流(横出)を経由しなければ他力信は獲られないと説いているように思われます。

・偽・・・ 偽と言うは即ち六十二見、九十五種の邪道是れなり
・仮・・・仮と言うは即ち是れ聖道の諸機、浄土の定散の機なり
・真・・・真の言は偽に対し、仮に対するなり

しつこいですが、教えが「従仮入真」ということでしたら、法然上人が「時」も「機」も逸しているといわれたところの、聖道の諸機や浄土の定散の機に一度ならなくてはいけないということなのでしょうか。法然上人はわれわれが聖道の諸機や浄土の定散の機になれるとおっしゃっておられるのでしょうか?

再掲します。

故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くといえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに知るべし。
『選擇本願念佛集』


上記で、「諸行」とは定散の諸行のことであり要門のことです。
親鸞会説では、祖師は、法然上人と同じ認識ではではないということなのでしょうか?

追加:聖人が定・散の余行を体まで廃している根拠を示します。

おほよそこの三輩のなかにおのおの菩提心等の余善を説くといへども、
上の本願にのぞむには、もはら弥陀の名号を称念せしむるにあり。
かるがゆえに「一向専念」といへり。一向のことば、二三向に対する
義なり。もし念仏のほかに余善を修せば、一向の義に背くべきものなり。

(西方指南抄上巻)

信心決定病を克服したおう様へ

おう様

あなたがおっしゃりたいことは、結局のところ、新人太郎氏と同じのようにもきこえますね。信人決定しなくては他力信や教学を語る資格がない、というようにもきこえますがいかがでしょうか。

そう聞えたらそうですね。
でも、
御文1-1
「・・・われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくように候こと、まことに自損損他のとがのがれたく候」
っても書いてありますから、

私は自分の立場をすでに他所で表明していますが、私はいわゆる信心決定病にはかかっていない者、信心決定病を克服した者、とだけ申しておきましょうか。

こういう奥歯にものの挟まった言い方は可笑しいと思います。
何故なら、
次第相承の善知識の下で、一念帰命したものは、その場で一味同行です。信心決定病等という、変な呼び名なんて必要ないんですよね。

教行信証行巻
「南無」と言うは、即ち是れ帰命なり、亦是れ発願廻向の義なり、「阿弥陀仏」と言ふは即ち是れ其の行なり、斯の義を以ての故に、必ず往生することを得、と。

「帰命」は本願召喚之勅命なり、「発願廻向」と言ふは、如来已に発願して衆生の行を廻施したまふ之心なり。

ところで、一方的に私を批判なさいますが、私の質問にはお答えくださらないのですか?

おう様の言われるところの聞法って何ですかって聞いたんですけど。

又、異安心の方と言われますが、
確かに、おう様からすれば、まさしく異安心なんですよね。

貴方とは、ただ安心が異なっているという考えだけですが。

そして、聖典をもと,
にって言われますが、
親鸞聖人は晩年の85歳の時、

一念多念証文の奥書には
「田舎の文字のこころも知らずあさましき愚鈍きはまりなき故にやすく心得させんとて同じことをとりかえしとりかえし書きつけたり、心あらん人をかしく思ふべし、あざけりをなすべし、然れども人のそしりをかへりみず一向におろかな人々を心得やすからんとしるせるなり。」

唯信鈔文意の奥書には、
「田舎の人々の文字の意も知らず、あさましき愚癡(ぐち)きはまりなき故に、易く心得させんとて、同じことをたびたびとりかえしとりかえし書き付けたり、こころあらん人はをかしく思ふべし、あざけりをなすべし、然れども、おはかたのそしりを顧みず、ひとすじに愚かなる者を心得やすからんとしるせるなり。

晩年の親鸞聖人さえも、何度も何度もくりかえしくりかえし、分るように教えておられるのに、おう様は、まるでさかさまみたい。

今は、末法の時代であり、ましてや仏法に親しむ人なんて少ない中、
こうして親鸞会から縁を得たことを喜んでいる私は、やっぱり果報者ですね。

私のような極悪人の愚鈍な者を正客だと喜んで助けて下さった阿弥陀様にただただ、御恩報謝のお念仏をさせて頂く身が有り難いです。

おう様、
最後に、浄土真要鈔より
「釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、源空・親鸞したまはずば、我等いかでか浄土を願はん、たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも次第相承の善知識ましまさば真実の信心を伝へがたし」

とてもおう様のように、聖典を紐解いて、論破する技量もありませんので退散致します。

ただ、こうした短いやりとりの中からも、次第相承の善知識というお名前に関心を持たれる方が現れたら、嬉しいですね。

それでは、おう様、さようなら。

極悪人様へ

多分最後の返信になるでしょうか。

>ところで、一方的に私を批判なさいますが、私の質問にはお答えくださらないのですか?

名無しの某さんもそうでしたが、結局自己紹介をしていただけませんでしたね?
信仰の話になるのでしたらあなたの自己紹介が前提と何度も申しているのですが。

何度も申していますが、話の流れが別方向へずれていくことを望んでいません。

あなたはこのコメント欄を信心の沙汰の場と捉えている、私はとらえていない、という認識の相違でしょう。

ところで、あなたがたについいては、実はすでに私は情報をもっております。

あなたがたはかつて親鸞会の顕正新聞か顕真という機関誌でも話題になっているのですが、いずれそのデータを清森さんに紹介申し上げようとおもっております。

ちなみにヒントは「O崎、A倉」講師ですが、だいぶ前ですね多分昭和時代?

ではお互い犀の角のように進んでいきましょう。

諸行を廃して念仏に帰せしめんがために諸行を説く

法然上人は三輩の文に諸行が説かれる意を三つ挙げました。
1)廃立のため・・・諸行を廃して念仏に帰せしめんがために諸行を説く。
2)助正のため・・・念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。
3)傍正のため・・・念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。

しかし、善導大師に依って、一つめの「諸行を廃して念仏に帰せしめんがために諸行を説く」との意を正とすると説かれました。

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。
『選擇本願念佛集』

浄土教の化風として、要門=定散・三福・九品をこしらえ真門、弘願門に転入させるという説き方もまた「あり」と思います。
しかし、祖師の化風とはそうではなく、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く」とする法然上人の化風を継承し、偽と仮を廃するものです。
仮とは自力仏教です。

しかるにひとつねにおもへらく、つたなきものの行ずる法なれば念仏の功徳は劣るべし、たふときひとの修する教なれば諸教は勝るべしとおもへり。 その義しからず。下根のもののすくはるべき法なるがゆゑに、ことに最上の法とはしらるるなり。ゆゑいかんとなれば、薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。
これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。
されば『選択集』(一二五八)のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵 の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

(持名鈔)

「要門を必ず通らなければならないのが浄土真宗である」というお考えの方は、上記を踏まえてぜひご意見を伺いたいと思います。

通るとは廃てること

通らずに済むのに、要門など説いて、さあ通りなさい、と言われているとでもいうのか?通りたくないのはわからんでもない(下根の証しとして)が、通らずしてどうにかなることはありえないのである。それが知らされていないから、そんな駄々をこねているのが、おう氏。「諸行を廃して」と言葉では言うが、そう簡単なことではない。「命とともに諸行を廃てる」という覚悟の要ること。真門なくしてできることではない。おわかりかな?おうさん。

「要門を必ず通らなければならない」というお考えの者 ですが何か?様

ようやく反論が来ましたね。
っていいますか・・・まじめにやっている会員さんには、おそらく必ず反発を食らうであろうことを承知で書き込んでいるので、反論が来ることは正直嬉しいです。
ただし、意見をおっしゃることは歓迎しますが、聖典の根拠を挙げず、あなたの「思い」を垂れ流すだけの方でしたらこれ以上はお相手しませんので悪しからず。

私は教学的にいってどちらに分があるのかを確かめたいため、そして会員さんや脱会者で教学に関心深い方に対して問題意識を高める人が一人でもいらっしゃる可能性があると思ってここに書き込んでいます。
あなたの意見が教学的に分があると判断できたなら、私はすぐに謝罪とともに自説を撤回しても構いません。

>通らずに済むのに、要門など説いて、さあ通りなさい、と言われているとでもいうのか?

では、法然上人が定散の諸善は、「時」も「機」も逸しているとおっしゃっておられること、そして祖師が定・散の余行を体まで廃していることについてのコメントを求めます。

>「通りたくないのはわからんでもない(下根の証しとして)が。

明恵上人のようなお考えのかたですね。
智恵第一の法然上人に対しても、ぜひそうおっしゃってください。

>通らずしてどうにかなることはありえないのである。

ありえないという根拠はどこから来るのでしょうか?あなたの「思い」はよくわかりましたが、聖典から挙げて説明してください。
妙好人は?高森師は?「(わが身が)通らずしてどうにかなることはありえなかった!」と、どこの箇所で表明されてますか?

>それが知らされていないから、そんな駄々をこねているのが、おう氏。

教学的な議論でないのでしたら相手しかねます。このように相手を貶しさえすれば自説が有利になるかと信じ、議論の本筋をはずしつつ意図的に粉飾なされるのは高森師直伝?なのでしょうか?

あなたは本願寺派・紅楳英顕氏の論文「現代における異議の研究―高森親鸞会の主張とその問題点」(1979年12月)の原文を読まれたことはありますか?なかなか良い論文です。
紅楳英顕氏については私は最近まで高森師による歪んだ情報誘導によって、読む気もしませんでしたが、最近では高森師よりもよく勉強している誠実な学者さんというように評価が変わっています。
親鸞会内の大本営発表的な世論誘導の真っ只中にいれば、曲がった松を曲がっていると見る目も曇ってしまうことを私は痛感しています。

>「諸行を廃して」と言葉では言うが、そう簡単なことではない。

簡単なこと、と私がどこかで申してましたでしょうか?浄土真宗は極難信法です。ゆえに仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の御心を聴聞しぬきなさい、と教えられているではないでしょうか?

一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし難中の難とときたまひ 無過此難とのべたまふ.(浄土和讃)

ところで、あなたは、「簡単なことではない」とわかった方なのでしょうか?

>「命とともに諸行を廃てる」という覚悟の要ること。

では、親鸞会の講師部において誰も信心決定者が出ないのは、その覚悟が持てない程度にしか指導されていないから、という理解でよろしいのでしょうか。

>真門なくしてできることではない。おわかりかな?おうさん。

私の書いたものをきちんと読んでおられないようで残念です。

私の主張の趣旨は「要門を通らなければ弘願には到達できない」という化風はかえって自力に執してしまい、浄土真宗の化風でないというものです。

真門念仏に関しては、必ずしも(浄土真宗の化風として)全否定する立場ではありません。
ただし、「未信者に対して、弘願には到達するためには絶対に真門を通らなければならない、と教えられなければならない」言う主張に対しては異をとなえたいと思います。
決定者が自身の求道を味わい、「真門を通らなければ自分は他力信は獲られなかった」、という表明をすることとはまた別次元の事柄と考えています。
たとえば、「私の白道」の著者は親鸞会→華光会を経て他力信を獲たと表明されているわけですが、こういう経緯のかたが「従仮入真」とおっしゃられるお気持ちはよく理解できますし、その表明を批判する意図ももっておりません。
ただし、この元親鸞会講師部員さんが、「信前のものが弘願に到達するために、(私が通ってきたように)、要門も真門も双方の法門を通ることが必要不可欠である」という主張をされるとしましたら、私は元親鸞会講師部員さんに対して異をとなえたいと思います。

「真門なくしてできない」とおっしゃるのならば逆にお尋ねしたいのですがよろしいですか?
親鸞会ではいつ若一日~若七日の一心不乱念仏が勧められるのでしょうか。

No title

おうさん、

お久しぶりです。

「要門を必ず通らなければならない」根拠としては以下のご文が挙げられると思います。
http://www5.synapse.ne.jp/syoukakuji/seiten_new/542.html

おおよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という。これを仮門となづけたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部にときたまえる「定善・散善」、これなり。「定善」は、十三観なり。「散善」は、三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり。これを仮門ともいう。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしえすすめいれたまうがゆえに、よろずの自力の善業をば方便の門ともうすなり。(一念多念文意)

「もろもろの衆生」とあるのは十方衆生と読めます。また、以下のご文もあります。
http://www5.synapse.ne.jp/syoukakuji/seiten_new/556.html

おおよそ過去久遠に、三恒河沙の諸仏のよにいでたまいしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にもうあうことをえたり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしゅうすることなかれとなり。(唯信鈔文意)


ただし、気をつけなければならない点は、だからといって、まだ救われていない人に対してそれでは救われるために善をしなさいとはおっしゃられていない点です。聖人が善を勧められているところは私が知る限り、必ず、諸行往生とセットとなっており、真実信心を得る過程として善をせよとはおっしゃられていません。


今生において仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の御心を聴聞しようという聞法心が起こる人は過去世において要門を通ってきたのであり、恒沙の善根を修してきたのであると思います。すでに聞法心のある人は救われるために今生において善を行う必要はないと思います。

親鸞会が問題なのはすでに聞法心のある人に対し、救われるないのは宿善が薄いためと教え、宿善を厚くするために善を勧めている点だと思います。たとえて言うならば大学生に対して大学を卒業できないのは大学受験の勉強が足らないからと大学の勉強を勧めるのではなく、大学受験の勉強を勧めているようなものです。これではいつまで経っても救われません。

高森先生が阿弥陀仏・親鸞聖人のみ心が分かっていないのか、ご自身の名利を満たすために人集め・金集めがしたいからなのでしょうか?

親鸞会では要門を勧めていますが、観経にはまずは定善が説かれていますがなぜかしら定善を実行することが目標になったことはありませんね。なぜでしょう?
観経に廃観立称で最後には念仏が説かれていますがなぜかしら念仏を実行することが目標になったことはありませんね。なぜでしょう?
なぜかしら途中の散善に相当する?人集め・金集めはいつも目標が立てられていましたね(退会したので今はどうだか分かりません)。なぜでしょう?

某サイトでは高森一族のための金集め・親鸞会の私物化の疑惑が告発されていますが真相はどうなのでしょう?

No title

365日の仏縁、親鸞聖人からの直接の聴聞、
五正行の実践として、どんなに忙しくても
朝夕のおつとめは欠かしてはならないと教えて頂きました。

どんなに激しく活動していても、
おつとめを欠かしてはいるようでは始まっていない、
ということが新聞にも掲載されていました。

車の中や出張さきにまでご名号を奉持し、
おつとめをかかさない聞法者ばかりでしたのは、
五正行についていつも聞いていたからです。
おつとめ実施表で毎日のお勤めを習慣
にすることさえしている人も多いですし、
いつも他のことは一切思わないで真剣に
お勤めしようとしてみて、動きづくめの心が分かると
教えて頂き、真剣な聞法をすすめられました。

ま、どうでもいいですけどね。

No title

親鸞聖人が比叡の山を下りられるときの、その心中を思うのです。
誰よりも命がけでご修行に励まれたであろう聖人が、絶望とともに聖道の教えを捨てるのです。教えが悪かったのではない。教えに従えない己れをとことん知らされたのです。幸せになりたい一心で励んできた諸行を、命とともに棄てた瞬間です。

しかし、それでも自力の執心は廃らなかった。生きたい。助かりたい。幸せになりたい。こんな自分でも何とかなれないものか。
溺れる者は藁をもつかむ。弥陀はその聖人に真門の藁を用意して待っておられた。これ幸いと念仏三昧の日々を重ねる。やれやれこれでなんとかなれるかも。

しかしそれも長くは続かない。弥陀も念仏も信じられない自分。本願に間違いあるとは思えないのに、信じられない。称えれば称えるほどあふれる疑い。砂を噛むような空疎な念仏。助けて頂く相手を信じられないのに助かることがあろうか。なのに信じられないまま崖っぷちへと突き進まされる真門の力。果遂の誓良に由ある哉。

「要門を必ず通らなければならない」というお考えの者 ですが何 様

私へのご返信のつもりでしょうか?
そのわりには私の質問には一切答えておられませんか?

講師部によるネット対策の一環ですか?とすればご苦労様なことです。

それともご自身の「思い」を発露されただけですか?

私と教義的な会話されたいかたは、元自称福徳会員さんの書き込みを見習われ、聖典に基づいてお話していただきたいと重ねてお願い申し上げたいと思います。
(元自称福徳会員さん、反応していただきましてありがとうございます。すみませんが返信はもう少々お待ち願います)

いくつか意見をいわせていただきます。

>誰よりも命がけでご修行に励まれたであろう聖人が、絶望とともに聖道の教えを捨てるのです。

ならば、あなたも親鸞聖人のように、聖道の教えから実践されてはいかがでしょうか?別に引きとめはしませんよ。

さて、失礼ですが、あなたは私の書き込みを消化されていないようですね。

再確認しますが、私は浄土真宗とは何か、という点と、浄土真宗の化風について、今回の論点としているのです。

信後の味わいとしては、あなたの今回の書き込みについてはなんら異論はありません。
祖師がご自身で三願を転入されたと表明なさっておられるのに、それを私があたかも全否定しているかのように勘違いしておられるのではないでしょうか。
論点を摩り替えないでいただきたい。

補足

引用した一念多念文意のお言葉は真宗の教えを教えられたものというよりは仏教全体のあるいは浄土門全体の位置づけを明確にしたものと味わいます。

真宗の教えには善の勧めはないというのが私の結論です。親鸞聖人はご在世の時、善を勧めたご説法はされなかったと思いますし、むしろ、善は不要とご説法されたものと思います。

その理由はお手紙に造悪無碍を戒められていることにうかがい知ることができます。
もしも、聖人が善を勧めるようなご説法をしていたとするならば造悪無碍の人が出てくるはずがありません。善は不要と説法された結果、聞き誤って(善は不要→悪はやってもよい→悪はやるべきだ)、造悪無碍の人が出てきたものと思われます。

また、造悪無碍を戒められたお手紙にさえ、念仏往生と関連付けて善を勧めた記述がないことにも注目すべきです。

No title

高森先生がこのサイトを読まれているといううわさがありますので質問です。

親鸞聖人のみ教えには善の勧めは本当にないのでしょうか?
高森先生が善、特に財施や破邪顕正を勧められたのは先生の名利を満たすためだったのでしょうか?多くの会員は動揺しています。
聖典に基づいて高森先生が善を勧められた理由を説明してください。このままでは50周年大会の後は…。

No title

何度も議論にあがっているように、そもそも仏教で教えられる善と
親鸞会で強引に事実なされている、なりふりかまわぬ人集め、金集めは
イコールではないので、どっちにしても仏教とはいいがたい

ましてや、ウソ勧誘や著作のパクリはいうまでもない。一般人以下

元自称福徳会員さんへ

元自称福徳会員さん、ご無沙汰失敬です。

私の主張と元自称福徳会員さんの主張はほとんど同じと私は考えております。
と申しますか、私の主張を補足補強していただいたように感じております。
私の要門の理解は、まさに

>今生において仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の御心を聴聞しようという聞法心が起こる人は過去世において要門を通ってきたのであり、恒沙の善根を修してきたのであると思います。すでに聞法心のある人は救われるために今生において善を行う必要はないと思います。

とおっしゃるご意見に尽きます。
ただし、「善」というご表現を使用されるよりは、「諸善」とか「万行諸善」とおっしゃっられたほうが、親鸞会会員に対してはより誤解が少ないのでは?と危惧申し上げます。

真宗でも「善」は勧められています。
それは円満徳号という善、「弥陀の名号を信受する」、他力念仏、という善です。

われ、すべからく、衆生のために、永劫の修行をおくり、僧祇の苦行を、めぐらして、萬行萬善の果徳円満し、自覚覚他の覚行窮満して、その成就せんところの、萬徳無漏の、一切の功徳を、もて、わが名号として、衆生に、となへしめし。衆生もし、これにおいて、信をいたして、稱念せば、わが願に、こたへて、うまるる事を、うべし。
(法然上人御法語 第六)

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
(正信偈)

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

(浄土和讃 )

「権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」とまで厳しくご教示なさっておられます。祖師における要門の理解は、
「末世の現在において、要門(=八万四千の法門)すら、すでに時も機も逸してしまっている。なんと悲しいことであろうか。しかし、真実の法門であるところの弘願はすでに開かれている。弘願聴聞しているものは、(人間に生まれる前も含めた)過去世においてすでに修してきたのであり、仮設されたところの要門を修する必要はないどころか、かえって自力に執することになってしまう。」
というものです。そして、

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしえすすめいれたまうがゆえに、よろずの自力の善業をば方便の門ともうすなり。
(一念多念文意)

における「方便の門」を親鸞会説のように、「真実に到達するために(これから)かならず通るべき道」とは私は理解しません。
過去に通ってきた道を含むのであり、真実の門が開かれたからには、その道に迷ってはならない、というように理解します。

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに 往生浄土の方便の 善と ならぬはなかりけり(浄土和讃 )
私釈:いま明らかに知らされたことは、過去世において私が修してきた諸善万行の悉くすべてが、浄土に往生させるための阿弥陀仏の願力のはたらきによるお導きであったのだなあ。

そして(弘願を教え勧めるのが本意であっても)真門については、化風としては必ずしも排除されていないと私は理解します。

釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。
(教行信証化土巻)
それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。(教行信証化土巻)

などとあるからです。
私は教行信証化土巻の対機は基本的に明恵上人などを念頭に置いた聖道門の人々、そして浄土他流の学者と解します。
上記では確かに真門が勧められていますが、一方では、庶民にもわかるご和讃において、仏智疑惑和讃23首などで厳しく真門を戒められています。
一例だけ挙げますと

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり.

など、化土往生を証果とする真門に迷わないようにしっかりと釘をさしておられます。

このように、真宗の化風は、あくまでも弘願を信受することを教え勧めるにある、といえます。

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