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親鸞会教義の相対化・73(投稿)

清森義行様



 前回に続き、『蓮如上人御一代記聞書』で興味深かったものをもう少し紹介してみたいと思います。

前回親鸞会教義の相対化・72(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-248.html

(79)
一、前々住上人仰せられ候ふ。「噛むとはしるとも、呑むとしらすな」といふことがあるぞ。妻子を帯し魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思ひのままにはあるまじきよし仰せられ候ふ。

(訳)
 蓮如上人が仰せになった。「噛むとは知るとも、呑むとは知らすな」(物事をよく噛みしめて味わうことを教えるべきで、鵜呑みにすることを教えてはならない)という諺があるぞ。妻子がいて魚や鳥を食べる罪深い身であるからと言って、そのように思いのままに振る舞うことがあってはならない。


★会員各自が教えられることに対して検討を加えていくことを禁じ、高森先生への絶対無条件服従を強要する親鸞会は、はたして「噛むとは知るとも、呑むとは知らすな」という蓮如上人の教えをご存じなのでしょうか?(※)
 高森先生の著書の盗作問題や様々なスキャンダルを会員に指摘されても、「善知識が殺人犯であろうが関係ない、聞かなければいけない」と居直る講師の方には、「罪障の身なりといひて、さのみ思ひのままにはあるまじき」という蓮如上人の教えは関係ないのでしょうか?

「悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に叶うべし」という法然上人の教えを以前紹介しましたが、親鸞聖人はその法然上人の弟子であり、浄土真宗はその流れを汲んでいることを忘れてはいけないと思います。


(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。


★「御文章は、一言一言、ハッキリ、正確に、後ろで聞いている人逹に聞こえるように、それだけを考えて読むようにつとめること大切」と講師に徹底して教えている団体は、「注意せずにぼんやりと読んでいる」ということになるのではないかと私には思えてしまいます。


親鸞会教義の相対化・44
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-163.html


 また、親鸞会ドグマに基づく親鸞聖人の言葉の解釈を、田中氏に古典文法の間違いや親鸞聖人の言葉との矛盾から指摘されたにも関わらず、

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「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。
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などと居直るチューリップ企画の山田氏も、明かにこの蓮如上人の教えに反していると思います。


(240)
一、安芸の蓮崇、国をくつがへし、くせごとにつきて、御門徒をはなされ候ふ。前前住上人(蓮如)御病中に御寺内へまゐり御詫言申し候へども、とりつぎ候ふ人なく候ひし。
 その折節、前前住上人ふと仰せられ候ふ。安芸をなほさうと思ふよと仰せられ候ふ。
 御兄弟以下御申すには、一度仏法にあだをなしまうす人にて候へば、いかがと御申し候へば、仰せられ候ふ。それぞとよ、あさましきことをいふぞとよ、心中だに直らば、なにたるものなりとも、御もらしなきことに候ふと仰せられ候ひて、御赦免候ひき。そのとき御前へまゐり、御目にかかられ候ふとき、感涙畳にうかび候ふと云云。しかうして御中陰のうち蓮崇も寺内にてすぎられ候ふ。


(訳)
 安芸の蓮崇は、国を乱すような騒動を起こしたり他にも問題があったために、御門徒を破門された。その後、蓮如上人がご病気になられた時に、御寺院に参ってお詫び申し上げようとしたが、誰も取り次ごうとしなかった。
 その時に、蓮如上人が仰せになられた。「安芸の破門をとこうと思う」と仰せになられた。
 蓮如上人のご子様方が「一度仏法に背き危害を加えるようなことをした物であるから、いかがなものでありましょう」と申しあげたところ、蓮如上人は、「それは何というあさましいことを言うのであろう。心の中さえ改めて直したならば、どんな罪を犯したものでも、もれることなく助けてくださる阿弥陀仏の本願ではないか」と仰せになり、安芸の蓮崇をお許しになられた。そして蓮崇は蓮如上人の御前に参りお目にかかったが、感涙にむせび畳みを濡らしたということである。
 そして、蓮如上人が往生され、その中陰の期間中に、安芸の蓮崇も寺内で亡くなった。


★これは既に、清森問答のコメント覧でおうさんが指摘されていましたが、この記述も親鸞会で読まれることがあり、このような例は親鸞会にもあるのでしょうか?

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-247.html#comment1144

 三十年近く親鸞会に尽くしてきた清森さんをあっさり除名するような団体ですから、おそらくそれはないでしょう。
 というか、清森さんが除名される理由が私には全くわかりません。ちなみに、親鸞聖人の教えと異なるドグマを「親鸞聖人の教えと違う」と言うことは「謗法罪」にはなりませんし、親鸞聖人が教えていないことをあたかも親鸞聖人が教えているかのように捏造して教える人物を注意することも「謗法罪」にはなりません。



※ちなみに親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠としてあげているものは、以下のように何れも根拠になっておりません。

1,「琵琶湖を一人で埋めなさい」と仰せになって「かしこまりました」と言う態度を蓮如上人が要求してはいない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html
2,『法華経』の「善知識者是大因縁」という言葉は、親鸞会で使われるような意味では使われていない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html
3,釈尊と阿弥陀仏という二尊の御心を無視し、浄土門の教えを求める者に、「求法太子の求道姿勢」を強要する人物は、法然上人の教えを受け継ぐ者ではい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-107.html
4,親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠として挙げる『般舟三昧経』に記述は、「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスであり、浄土門における信心獲得のためのプロセスではない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-108.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-119.html


以上
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