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私の白道・信心の沙汰(投稿)

「私の白道」・信心の沙汰(投稿)

親鸞会元講師部



○{信心の沙汰}


 生まれ難い人間に生を受け、聞きがたい仏法、中でも阿弥陀仏との御縁ほど尊いことはありません。
 ここを読まれている方は、殆どが仏縁に恵まれた方と思います。
 阿弥陀仏は六道を輪廻し生死の苦海に沈み切っている私を助けんと、唯一仏立ち上がって下された如来様です。
 この阿弥陀仏以外に後生の一大事を解決して、迷わぬ身にして下される仏はありません。
 その仏願の生起本末を聞くことによって救われると、親鸞聖人は教えてゆかれた事を、先回の「仏法は聴聞に極まる」に書きました。


 今回は、次に浄土真宗で大切な「信心の沙汰」について書かせて頂きます。


蓮如上人は

・「いかにも不信の面々は一段の不審をもたてて、信心の有無の沙汰すべきところに、何の所詮もなく退散せしむる条、然るべからず覚えはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮、自今已後においては、不信の面々は、相互いに信心の讃嘆あるべき事肝要なり」(御文章4帖目12通)


・「一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよく聞き、心中の通りを同行に会い談合すべきことなり」(御一代記聞書167)

・「もとより我が安心の趣いまだ決定せしむる分もなきあいだ、その不審をいたすべき所に、心中を包みて有りのままに語らざる類あるべし。これを責め相尋ぬる所に、有りのまま心中を語らずして、当場を言い抜けんする人のみなり。勿体なき次第なり。心中をのこらず語りて、真実信心に基くべきものなり」(御文章4帖目8通)

・「物を言え、物を言え」と仰られ候。「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰られ候。「信、不信ともにただ物を言え」と仰られ候。「物を申せば心底も聞こえ、また人にも直さるるなり。だた物を申せ」と仰せられ由候。(御一代記聞書87)



1 信前、信後の人はお互いの信心の沙汰をしなさい。聞くだけにならぬように。

2 自分の仏法の理解、聞き方は間違いないか、話し合いしなさいよ。

3 信前の人に、なぜ自分は救われないのか、疑問、不審を尋ねない人がいますが、ありのまま、隠さずに全部言いなさい。心中を残らず話して、真実信心、徹到しなさいよ。

以上のように教えて下さっています。



○信心の沙汰が始まった


 最近の親鸞会の刊行物を読むと、信心の沙汰が必ず載っています。
 これは2、3年前には無かったことで、本来の聞法に近づいたことですからいいことだと思います。

 しかし、読んでみて、聞いてみると、これは、と思えて来ました。
 実際に参加された、何人もの方達から聞きました。


1  信心の沙汰には信心決定した人と、していない人、信前、信後の人があると蓮如上人は仰言っておられますが、親鸞会の信心の沙汰には信後の方がおられない。阿弥陀仏の御心についても、分からない人ばかりで、肝心の沙汰が出来ない。


2  なぜ私は救われないのか、「それは宿善まかせです。三願転入ですから活動がんばりましょう」と答えが決まっているから聞くだけ無駄になる。長年、聴聞していると支部長の答え、皆さんの言われることが分かってしまうので質問も積極的に出来なかった。


3  南无阿弥陀仏の心を知りたいと思っても「信後のこと、絶対の幸福は救われたら分かります」と言われるのでもう聞く気がなくなった。自分には分かりませんと正直に言われない。変なプライドを感じました。


4  宿善の違いは当然あるのに「なぜ19願の諸善ばかり勧められ、20願の念仏が勧められないのか。2千畳に参詣される人は皆同じ宿善の人ばかりと思えない。支部長も念仏を称えていないのはどうしてですか。念仏を称えるべきではありませんか」。こんな質問もしたいが、言えない雰囲気がある。


5  信心の沙汰も高森先生のご法話の内容で、ここはどう言われたか、そのまま言わねばならず、記憶のいい人はいいが私は苦痛でした。言葉づかいばかりにこだわり、もう参加したくなくなった。
  なぜ支部長は言葉づかいより、その話を自分でどう思ったのか言わないのか。お互いどう感じたかがもっと大事と思う。結局、高森先生の言葉を正確に覚えましょう、になってしまっている。「聴聞の復習会」のようだ。


6「求法太子の説法」の後の信心の沙汰も、親鸞会の指示をそのまま信じて苦しくても実行しなさい、という方向へもっていってしまう。求道の覚悟ばかりが強調、確認され、自由は沙汰など出来ず、優等生発言をするだけで、ありのまま言える雰囲気ではない。
 「後ろ向き発言」を意識したら何も言えなくなってしまうのは当然です。本当の信心の沙汰はこんなことでないと思う。これは「活動確認の沙汰」と思える。


7  ご法話が終わり、掃除をしてから同朋の里に移動してから信心の沙汰が始まりました。1時間30分も過ぎています。使用料も必要でご法礼も別です。本部には広い部屋が沢山あり、移動時間もかからず、全く無駄と思うようになりました。



○ されたことと、今言っていることと矛盾しませんか。


 信心の沙汰には談合、讃嘆、ご示談、お領解、座談があり、当然信後の人の自分の領解、信仰を告白する場合がある。

 当たり前だが、ところが不思議なことに親鸞会の刊行物には個人的な体験は「言うものではない」「書くものではない」「こうなった」「ああなった」という話は万人共通でないから、「聞けば聞くほど、知れば知るほど悪い」と書かれていた。「体験至上主義」とも批判してあった。

 そうかと思うと、「K正新聞」9月15日号の石川県のTさんが「夜を徹したご示談あの情熱能登に再び」と能登の真宗門徒の昔を紹介しておられる。

「いろりに幾重も人の輪ができ、その家の主人が口火を切る。“私は法義をこう味わっている”と領解を語ると、参加者も順々に話していく。質問が出れば、同行を中心に納得いくまで語り合う」

 目に見えるような、尊い仏法讃嘆ではありませんか。
 ここに出てくる“私は法義をこう味わっている”と領解を語るのは、その人の獲信体験、信心ではありませんか。昔の能登の同行は熱く、告白していたのです。これは悪いことですか、なぜ新聞に載せたのでしょうか。



●昔、高森先生が「華光社」から出版された「獲信の記録」には5名の人が実に生々しく、具体的に獲信を語っておられます。
 高森先生のお母様もその中のお一人です。高岡会館が本部会館の時も同じ内容を「話して」おられました。私は聞かせて頂き、そんなことがあるのか、頑張って求めてゆこうと思ったものです。本当に良いご縁でした。
 この「獲信の記録」には、伊藤先生の書かれた獲信体験記「仏敵」や会員さんの獲信体験が載っている「華光誌」の購読を勧めてあります。
 この体験を出版し販売されたのが高森先生です。
 これも大変してはいけないことになりますが、どうしますか。


・「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は如何あるらん、という信心沙汰すべき用の会合なるをーー」(御文章1帖目12通)


 蓮如上人が「わが信心は、ひとの信心は」を語り合えと教えておられるのに、個人的体験は「言うものではない」と親鸞会では指導していますが、これで信心の沙汰になるのでしょうか。
 救われたら分かります、では沙汰になっていません。
 自分の信心はどうなのか、支部長は正直にありのまま会員さんに話したことありますか。講師部らしく「言い抜けて」いませんか。
 長い間、聴聞して来た会員さんは見抜いていますよ

 同朋の里で「信心の沙汰」とアピールしたのは良かったが、肝心の沙汰がこれでは、浄財の無駄になりませんか。



○出来ない無理をしてはいないだろうか

・高森先生の講師部だけの会合に私は20年間の間に200回以上参加しましたが、「信を獲りたるか、獲らざるかの沙汰を幾たびもせよ」の蓮如上人の厳しい教え通りの、信心の沙汰は1回でもあっただろうか。

「君達は後生の一大事を抱えながら、無常の命なのに、何を呑気に聞いているのだ、ワシもいつどうなるか分からん無常の身なんだぞ。
 どんな覚悟で聴聞しているのか今日は一人一人言ってみなさい。
 阿弥陀仏の本願をどう聞いているのか言ってみなさい。
 なぜ信心決定できないのか、どんな自力の心、疑いをもっているのか正直に言ってみなさい。
 誤魔化したら承知せんぞ。
 君達が、はっきりしないでどうして会員さんに法を伝えるのだ。
 まず、総長、講師長、学院長、布教局長、弘宣部長、ここへ来て皆の前で述べよ。
 他の者は、聞いて感想を言って良い。先輩だろうと遠慮はいらぬ、信心の沙汰には、組織の上下は無いのだから。
 他の講師は講に別れて3日間、徹底的にお互いの信心の沙汰をし尽くせ。
 自分の信心の程度を知れ。その結果を知らせよ。
 ワシも回って参加しよう。」


 こんな発言を聞いたことがありますか。
 これが真宗の繁昌、万年の礎になるのでありませんか。
 無理にお金を集め、どんどん建物を建設するのがどうして万年の礎でしょうか。



 長男、布教局長の不倫疑惑の揉み消しには3日間、泣くほど厳しく講師部を詮議、追及されて除名処分30名以上も出しながら、なぜ信心の沙汰が50年間も無かったのか。
 私はここに親鸞会の根本的問題があると思います。
 他の問題もここから派生する問題と思います。
 何が、最も優先すべき課題か、今からでも遅くありません、とことんやって欲しいと思います。
 今のままでは講師部になった意味が無いではありませんか。
 最近、K藤講師が退部したと話題になっていますが、その講師は高森先生の指導の限界を知ってしまったからではないですか。
 このままでは阿弥陀仏に申し訳のないことです。
 仏法の為、一大事解決の為、身も心も高森先生に無条件で従いますと朝晩、誓う講師部は、現在○00名近く、辞めた人○00名。
 やがて法然上人のお弟子に匹敵します。
 どうか、人生をかけている講師部、会員さんを阿弥陀仏のもとへお導き下さい。



・支部長(講師部)が信心の沙汰をしようとしても、講師部自身が信心の沙汰の経験がないから無理なのです。
 説法もすることも大変ですが、信心の沙汰はもっと難しいと私は思います。
 説法は聞いて頂きたいこと、これ一つに集中して原稿を書き、練習して覚えて話をしますが、信心の沙汰は一人一人違う人に何を聞かれるか分かりません。参加者のことを良く知らねばなりません。
 自身の信仰、教学、経験が浅ければたちまち愛想つかされるでしょう。
 一方的に聞いてこられた会員さんの心を開くこと、問題点を知ることはそんな易いことではありません。



○信心の沙汰をする人はどんな人か


・「教化する人、まず信心をよく決定して、その上にて聖教をよみ語らば、聴く人も信をとるべし」(御一代記聞書13)

・「信も無くて人に「信をとられよ、とられよ」と申すは、われ物を持たずして、人に物をとらすべきという心なり、人承引あるべからず」と、実如上人仰せられ候いき。
「自信教人信と候時は、まず我が身が信心決定して人にも教えて仏恩になる」との事に候。
「自身の安心決定して教うるは、すなわち大悲伝普化の道理なる」由、同じく仰せられ候」(御一代記聞書94)



・ここに信心の沙汰の難しさがあるのです。

 蓮如上人は信心の沙汰を勧めておられますが、信前の者に徹底した信心の沙汰は出来んぞとの仰せではありませんか。

「私の信心は皆さんに関係ありません。私のことを聞きたくて来られたのではないでしょう。親鸞聖人のみ教えを聞きに来られたのではありませんか」と講師部はよく言いますが、上手な言い訳のつもりでしょうが、蓮如上人はずばり、誤魔化すなと教えておられます。
 長い間の聴聞と教学で何とかしてゆこう、そんな根性で「光に向って」と言っているから、お互いの信仰が進まないのです。



○まず自身の信心決定こそ大事

・「信をとらぬによりて悪きぞ、ただ信をとれ」と仰せられ候。善知識の「わろき」と仰せられけるは、信の無きことを「わろき」とおおせらるるなり。(御一代記聞書186)

・「一には自身の往生すべき安心をまず治定すべし。二には人を勧化せんに、宿善、無宿善の二つを分別して勧化を致すべし」(御文章4帖目1通)



 蓮如上人は常に、信を獲れ、一日も片時も急げと教えてゆかれました。

「雑行、雑修、自力の心を振り棄てて、後生たすけたまえと弥陀たのめ、たのむ一念のとき、往生一定、おんたすけ治定」と真実信心の体である」

 南無阿弥陀仏の六字の謂れを教えておられます。
 聞いていますか。



○肉の無い「すき焼き」では、お客は来ません。離れます。


 S会食堂の自慢メニューは「すき焼き」。すぐ食べられと誘う店員さん。
 入ると出てきたのは、大皿に白菜、シラタキばかり。
 何でも、これを食べて、次に豆腐、シラタキが出て、最後に肉が出てくるとか。出す順番がある。
 しかも店は広い2000畳が自慢、店長の苦労、恩、心を店員が長々と話す。
 こんな素晴らしい食堂へ来れて皆さん世界一の幸福者ですね、もうすぐ開店50周年と笑顔一杯で話す。
 周りを見ると、皆さん白菜、シラタキを食べまくっているが、中には苦しそうにやっと食べている客もいる。しかも料金が結構高いと評判。
 しかし、そのうち肉が食べられると期待して、一度に食べ切れない白菜、シラタキだから、通いで食べに来られる。
 20年30年も白菜、シラタキを食べ続けているのだから、その根性、執念はすごい。これでこの店はもっているのだと分かる。
 豆腐を食べている人も余り見当たらない。
 そのうち、諦めて帰る人、怒り出す人、お金も続かず来なくなる人、店員さんは必死に、そのうち、そのうち肉が食べられますと励ましている。
 中には、家の肉は世界最高の肉だから、そんな簡単に食べられる物ではない、と説得している店員もいるではないか。
 必ず美味しい肉が食べられる、という宣伝はウソだったと思うようになって来た。
 どうしょうか、このまま白菜食べに通うか、止めようか、迷うお客さんが多くなって来た。


 他所から、美味しい「すき焼き」が食べられる「店」があると話は広まり、店員さんは「あれは肉は肉でも、牛ではなく、犬やヤギや猫のも混じっている、ニセ物です、用心して下さい」と大声で叫んでいる。
 チラシにもそんな事が書かれているから、余程困っているのだろうか。
 おかしいのは、店員さんに美味しい肉の味はどんな味ですかと聞いたら「言えません」「聞くものでない」、食べたとしても「こんな味だった」「あんな味だった」と言わないで下さいと注意された。
 店員さんも肉を食べたことが無いようだ。なのに世界一美味しいと言う。
 この店おかしいなー。
 こんなので繁昌するはずないが、まだまだ店を拡張して万年繁昌させるとか。
 しかも、客の私らにお金、建設費をもっと出して下さいと言って来る。
 怖くなってきた。
 大変な食堂へ入ってしまったものだ。このままでは白菜と豆腐しか出てこないのではないか。
 周りの客が、あちこちで、もう帰ろうかとヒソヒソ話をしている。


・S会食堂---親鸞会
・すき焼き---絶対の幸福
・すぐ食べられる---平生業成、一念往生
・店長---高森先生
・店員さん---講師部
・お客さん---会員さん
・白菜、シラタキ---19願の諸善・自力の心(雑行)
・豆腐、シラタキ---20願の念仏・自力の心(雑修)
・美味しい肉---18願の真実信心・南無阿弥陀仏・他力の信心
・よその「店」---華光会
・ニセの肉---自力の信心


 親鸞聖人は
「自力というは、我が身をたのみ、我が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむ人なり」(一念多念証文)

 白菜、シラタキばかり食べさせられていませんか。



○「雑行、雑修、自力の心を振り棄てよ」の心を沙汰するのが、信心の沙汰どうしたらすたるのか、


・親鸞聖人は阿弥陀仏の本願・18願の仏心、南无阿弥陀仏の心を聞けと教えておられます。

「経に聞と曰うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あること無し」(教行信証)

・蓮如上人も同じく

「其の名号を聞く、というは、ただおうように聞くにあらず。善知識にあひて、南无阿弥陀仏の六字の謂れをよく聞き開きぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり。」(御文章3帖目6通)


「仏法は聴聞に極まる」先回に述べた通りです。そして「信心の沙汰」が大事なのです。


 真の善知識にあなたは出会いましたか。
 求めて下さい。必ずお会いできますから。
 真剣に悩んでいる人を阿弥陀仏は導いて下さいます。


○、それだけ言うならお前の南無阿弥陀仏の味はどうなのだ、と言われそうなのでお話します。

「私の白道・6」に述べましたが、増井悟朗先生のご法話中でした。


「40年聞いてきたがこんな思いは初めてだった。
 あー俺は馬鹿だった、分かりたい、納得したい、そしたら信じられるだろうとは、何と我が身知らず。自力丸出しだ。
 分かるほど小さな仏智ではないのだ、墜ちることさえ分からん俺が、それを自惚れて、もー駄目だー、俺は助かるもんでない、阿弥陀さまー私はもう、どうにもならぬ者ですーとなった。
 その時「まかせよー、そのまま救うぞー」の呼び声が届いた。
 あっという間だった。これまで絶対下がらん心の頭が下がって、分かりましたーおまかせ致しますー、南無阿弥陀仏となってしまった。
 南無の心は、早く来い、われをたのめー、まかせよー、助けさせてくれーの呼び声だ、叫びだ。
 無条件降伏させられ、自力の心が殺された。
 阿弥陀仏は、助けるぞー、捨てはせぬぞ、罪業どれほど重くても心配するな、そのまま引き受けたぞー、必ず我が浄土に生まれさせて仏にしてみせるの大慈悲心だ。
それが一つになった南無阿弥陀仏のお力の大きさが、尊さが口からあふれ出る。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」



1年ほどたったこの心は全く今も変わりせん。



○善導大師が「二河白道の譬」に西岸(阿弥陀仏)から聞こえた呼び声は
「汝、一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん。衆て水火の難に墜ちんことを畏れざれ」

 助かる時は一念のはずなのに、どうしてこんな長いお言葉が聞こえるのだろう、不思議だなーと、ずーと思っていました。

「私の白道・6」には書かなかったのすが、「阿弥陀さまー、私はもうどうにもならぬ者ですーとなった。」その時、この善導大師のお言葉がパッと目前に広がり、その瞬間、同時に「まかせよー、そのまま救うぞー」の大慈悲心に貫かれてしまいました。聞即信でした。


 余りの不思議に、どう言っていいか分からず、ここのところは書きませんでした。

 救われた瞬間に何もかも分かると思っている人もありますが、そうではありません。信後の聴聞によって教えて頂くのです。
 救われた人は皆、即、教行信証、正信偈のお言葉を理解し説明出来るものでありません。庄松同行もそうでした。
 信心数え歌の心も日に日に、本当にそうだなーと深くなってゆきます。



 善導大師のこのお言葉を、よくよく聞いてみると驚きと感動でした。
「直ちに、来たれ」はそのまま、来い、まかせよでした。
 そのまま、ほんにその通りでした。
 雑行、雑修、自力の心が廃るとき、自分の中の一切が崩れてゆきました。
 覚えた、聞いた、称えたも間にあわない、力にならぬ、墜ちるしかない、どうしょうもない、どうにもならぬ、すがる何物も無い、そのままでした。
 ただじゃ、無条件と言われるのもこのことと分かりました。

 おかる同行が「そのまま来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」
 本当にその通りでした。



○本当の「信心の沙汰」とはどんなことか。


「伊藤先生のお言葉」吾勝常晃先生(伊藤先生は華光会の創設者)

(仏智の不思議に触れよ)151P

「私は20年、30年仏法を聞いている。わずか、半年や1年、仏法を求めたぐらいで信が得られるはずがない」
などと言う者があるが、同じ聞くにしても、その内容を考えてみなければならない。--
「わずか半年ぐらいで!」と言うが、本当に後生が苦になって求める者は、夜も眠られず悩みぬき、仕事も手につかず考え抜いている。真に、一大事の後生として求める者と、そうでない者とは、仏法を求める深さが違うのだ。
それが、たとえ子供であっても、そうして求めて行った者には、仏智不思議があらわれてくるのだ。その不思議に触れない限り、どれほど仏教のことを聞き覚えても、到底、後生の闇が晴れるものではない。


(重い仏法)177P

 明治以降の真宗でも、幾つかの熱烈な信仰運動があったが、人々が多く集まり、大きな寺でも建てると、それ以後の運動は、みな大体ダメですな。
 内輪もめしたり、金で争ったりしている。
 真実の仏法は、ワラジばきで広められるものであることを、深く心に銘記しておかなくてはならぬ。
 また、真実の仏法というものは、それほど多くの人々に、チヤホヤされるものではありませんぜ。
 やはり「国に一人、郡に一人」と言われるほど、重い仏法ですわ。

(命がけの信)87P

 自力と他力、信疑の白兵戦は、求める者と説く者との、すざましい戦いじゃ。一歩間違えば、生死岸頭に迷うという一大事がかっかっているのですからな。
 説く者も、その一点に命をかけよ、と言われる。
 しかし、その命がけのところに、如来大悲の念力がかかっていることを知らねばならぬ。
 妙なもので、説く者も「早く信をとらせよう」「信者を作ってやろう」
 と焦り、求める者も「早く信を得よう」「喜ぶ身になろう」と焦っている間は、双方共に人間的なもので、法の世界は開かれてこない。
「自力の計らい」は、まだピンピンしているんだ。
 それは、ただ言葉だけのやりとりにすぎない。
 そんなところに、名号不思議おお働きはないのですなア。

(念仏の不思議)89P

 念仏の不思議ということが、ひしひしと、感じられるような信心でなくてはだめだね。
 本を読んだり、話で聞いたりで、念仏をしぼり出すように喜んでみたところで、そんなものは、病気でもして40度ぐらいの熱が出れば、ふっとんでしまいますわ。
自分の中に、入れ込んで得た信は、すべて自力、計らいの信心じゃ。
 他力の信は「仏智の不思議」が働いて下されてある。
 だから、人から何と言われようと、アーも、スーもありませんわ。
「地獄も、極楽もないぞ」と言われても、有難いし、「お前は、だまされているぞ」といわれても、有難い。
「信心が間違っているぞ」と言われても、やっぱりホクホクと念仏が喜べます。
 これを、仏智廻向の信とも言うし、知恵の念仏とも言うし、とにかく念仏の不思議が、その人の中に生きているのですからな。
 これほど強いものはない。金剛の信ですわ。
 もう元のように「自力、計らいの信」に戻ろうにも、戻り様がない。
 腹の中は空っぽですわ。空っぽのまま、無限の念仏が喜べる。
 ホンマに気楽な身にさせてもらますなア。

○高森先生は、18歳から29歳までの約10年間、この伊藤先生を師としておられました。
「獲信の記録」も奈良県から実家の寺へ招待された時の、座談記録です。
「会報」にも多くの、伊藤先生の書籍の盗作があります。



・「仏智疑う罪深し    この心おもい知るならば
  くゆる心をむねとして 仏智の不思議をたのむべし」

・「弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな
  摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」


南無阿弥陀仏。

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COMMENTS

No title

私には、この方の信心が本当か、どうか分かりません。
でも、私も親鸞会をやめたのは、信心の沙汰が嫌だったからです。

それまで出たこともありませんでした。
最近、猛烈に信心の沙汰に出よとの指導が来ました。

『信心決定できたかどうか沙汰するのが信心の沙汰だ。
正しく聞けたかどうかをさたするのでない、正しくきけなかったから信心決定できないのだ。だから不信の人は必ず沙汰しなければならない。』

…そのとおりだと思いますが、その中に一人も信を得た人もなく、どうしたら、正しく聞くことができるのか、誰が先導するのでしょう。
皆、できてないね、どうしてだろうね、わからないね、申し訳ないですね、もっとがんばりましょう、続けて聞きましょう、ですか?沙汰しなくても結論でてるやん。

で、その後にこう続いていました。
『だから同朋の里はなければならないもの。ご報謝の意義もわかるでしょう。』

…分かりませんでした。同朋の里でなければできないの?

私は行ったことはありませんが、親鸞会の人が、華光の沙汰に参加したら、それだけで感動してしまうでしょうね。
言ってはいけないことなんてないし、増井先生のような方が直接答えてくださるし。

でも、華光会でも親鸞会でも正しい信心を獲た方はおられると思いますが、どこへ行っても真実信心を得るのは大変に難しいことと思います。
本当に、『善知識にあうことも…信じることもなおかたし』だと泣かされます。

No title

もうシンランカイの話題ばっかりでうんざりです。

華光会の教義を相対化して

そろそろ、あの浄土宗のお方に、華光会の教義を相対化してもらえんものかな?

No title

親鸞会の信心の沙汰というのは、洗脳と批判者の排除が目的です。

北朝鮮の思想統制儀式みたいなものです。

信心の沙汰と称して、親鸞会の体制や後継者についての批判を封じ込め

批判的な人間を早期にあぶりだすために、反抗的な会員のリストも作成

して把握しています。

M晴局長夫妻は、その点だけは徹底的にやります。

hi様へ

hi様 はじめまして。親鸞会の元会員の者です。

> 私は行ったことはありませんが、親鸞会の人が、
> 華光の沙汰に参加したら、それだけで感動してしまうでしょうね。

私の場合はhi様のおっしゃるとおりでした。
ちなみに私がこれまでに華光の沙汰で発言した主なものは、

1.上の心はきいてくれるが下の心がきいてくれません。どうすればいいでしょうか?

2.後生の一大事が苦になりません。苦になるのはこの世の苦しみばかりです。どうすればいいでしょうか?

3.自分は化土にいけるなら自殺したいです。化土往生できるのはどんな人でしょうか?


……というようなものです。いずれも親鸞会時代に聞きたくてしかたなかったことばかりです。ここまで書いてしまうと私が誰だか容易に特定できてしまうのですが、そんなつまらないことはともかく、このような質問をしても華光の先生や同行の方は私の機に合わせて真摯に答えてくださいます。

ちなみに親鸞会の信心の沙汰で上述の質問をしたとしたら一体どうなってしまうのでしょうか。考えただけで怖くなります。


「くるものはこばまず」が華光の方針のようですし、私も華光会に誰かを勧誘しようしてここに書き込んでいるのではありません。もっと言えば私は8月から毎月、華光の法座に参加していますが華光の会員にはなっていません。私を勧誘する人も誰もいません(次回の法座案内だけが郵送されて来ますが)。

華光会とはそういうところみたいです。ご参考までに。乱文失礼しました。

しかばね様へ

しかばね様
ありがとうございます。

仰有ること、涙がでるほどよく分かります。信仰の、深刻的な悩みほど、言えないんです。
言っても、、答えてくれる人がいない。
聴聞、活動が足りない、進めばわかる、そこまでそこまでと言われるだけ。叱られる。分不相応な質問と一蹴される。
疑問を感じるのは悪。ハイと従っていかなければ信心決定まで進めない。だから幹部はみんな思考停止している。こうして何も考えず従っていけば、いつか、という一生求道のような感じ。今、がない。
本音は言ってはだめ。心を見つめていくべきなのに、心を押さえつけて抑圧してしまっているから、人の話に対して怒りを覚えるんです。私はこんなに我慢しているのにっていうのが深層心理にあるから。だから、そんなのは法謗罪って罵るんです。

私は高森先生の信心は信じているんです。信心だけですよ。三業と信心は関係ありませんから。でもこんな事思っていると言ったら、恐ろしいですよね。組織破壊の粛清対象者だと思ったら怖くなってやめました。

華光会について、ありがとうございました。私も、命をかけて求めます。共に一味の世界へ出てどこかでお会いしましょう。

hi様へ

「私は高森先生の信心は信じているんです。信心だけですよ。三業と信心は関係ありませんから。」

この文を読むと「高森先生の言動は信用ならないが、信心は真実なのでご教導を受け続けようと思う」というニュアンスに取れます。

仮に高森先生が真実信心を得られていたとしても、会員に真実信心得させるための指導より、ご自身の名利を満たすための指導をしていないという保障はあるでしょうか?三業と信心は関係ないのですから。

真宗の教えに諸善の勧めはないようですし。

確かな証拠様

>信心は真実なのでご教導を受け続けようと思う」

違います。会をやめてどうやって高森先生の教導を受けるのですか。
うまく言えないんですが、そもそも善知識がすべて正しいとか、唯一とか、絶対とか、無条件服従すべしとかあり得ないと私は思っているんです。

>仮に高森先生が真実信心を得られていたとしても、会員に真実信心得させるための指導より、ご自身の名利を満たすための指導をしていないという保障はあるでしょうか?

はい、そんな保証はないと思います。だから思考停止してはいけないと思うのです。

>真宗の教えに諸善の勧めはないようですし。

ええ、真宗で勧められているのは信心獲得だと思います。

hi様へ

「私も親鸞会をやめたのは、信心の沙汰が嫌だったからです。」

そうでしたね。上の方に記述されていたのですね。失礼いたしました。

私は高森先生の信心が真実信心かどうかわかりません。
けれども、本当の(高森教を介したものではない)親鸞聖人のみ教えは真実だと思います。

No title

>けれども、本当の(高森教を介したものではない)親鸞聖人のみ教えは真実だと思います。

よかったー。嬉しいです。私も同じです。親鸞会をやめた人って親鸞聖人のみ教えも否定してしまう人もいるので、同じで嬉しいです。

No title

皆様、知識人で他人がみてもわかりやすいコメント有難う御座います。私の所存は「親鸞会の教導]what?「高森先生の信心」so what?its doesnt matter.「関係ない!!」です。(私も親鸞会に所属していましたが)阿弥陀様が真実です。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 一日でも早く聞く耳を頂きましょう。南無阿弥陀仏

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