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親鸞会教義の相対化・74(投稿)

親鸞会教義の相対化・74(投稿)

清森義行様



 今日は「本願」と「誓願」に関してお話させていただきます。

 親鸞会においては「本願」と「誓願」という二つの言葉が特に区別されずに同じように用いられているようですが、「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されています。

「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になります。

 このことを法然上人は以下のように述べておられます。

===================================
 本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。
===================================

 また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答を設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されています。

===================================

 問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上

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「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけですが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっているのです。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのです。

このことを善導大師は、

===================================

 もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生
を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。
===================================

とお説きになられています。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、

===================================
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
 同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
===================================

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かです。



 ところで、既に様々な角度から論拠に基づき誤りを指摘されながら、チューリップ企画(=親鸞会)は未だに、

>「若不生者不取正覚」の「生」は
>「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
>「平生に信楽に生まれる」ことである、
>と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。

というドグマをまき散らしておりますが、「本願」は以上述べたように「既に実現している過去の誓願」ということですから、

★未だに実現していない「本願」は絶対に存在しない。

ということは明らかであり、この原則からも上記チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤りであることは明かです。

 なぜならば、十方衆生が「平生に信楽に生まれる」ことまでも、阿弥陀仏が誓願として立て、その誓願が成就されて現在阿弥陀仏という仏になっており、その誓願が「既に実現している過去の誓願」「本願」となっているならば、阿弥陀仏が仏になった時点で十方衆生が全て信楽になっていることになり、現在迷っている衆生が全く存在していないことになってしまいます。

 しかし実際には、阿弥陀仏の本願を信じることなく迷っている衆生が存在しており、チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤っていることは明かです。


===========苦笑の独り言より引用===========
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/category5-1.html

阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

ではないですわね(苦笑)。


●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

繰り返しになりますが、
「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、極楽浄土に往生できることが確定すると、
親鸞聖人は述べておられます。

逆に言うなら、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、
「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないことが明かですわ~ね。

そんでもって、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力
に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人は
ありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、
衆生がそれを受け取らないもんだから、
残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるわけですわ~ね。

だからこそ、「ど真剣な聞法」を奨めるちゅうのが、
親●会の一番いい所だと思ってたんですけど、違ってました?(苦笑)

「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
という蓮如上人の言葉でない言葉を、蓮如上人の言葉と捏造してまで、
「ど真剣な聞法」を奨めているくせに、

衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓ってたら、
その真剣な聞法をなんでやってるんですか?(苦笑)


「ど真剣な聞法をしなければ信楽になれない!」
「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている!」


どう考えてもこの二つは矛盾してます。
これは私のような愚鈍なものでもわかりますわ(苦笑)。
===========苦笑の独り言より引用===========


 このように苦笑氏が述べておられますが、全く同感です。

 さらに「本願」の解釈の誤りから派生して、チューリップ企画(=親鸞会)は、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈されているようですが、これも苦笑氏の言うとおり明かに誤りです。

※「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-11.html

 親鸞会のドグマは、「本願」の原語から見ても間違いであり、親鸞会の優れた特色をも損なうことにさえなっているのですから、一刻も早く訂正すべきだと思います。


 親鸞会関係者の方であれば、おそらく皆さんご存じであろうと思いますが、

阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる

と一休禅師が送られた歌に対し、蓮如上人は、

阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ

と返されたそうです。

 蓮如上人がこのお歌で伝えようとしているものを、きちんと考えて頂きたいと思います。

以上


※お願い

 清森問答をご覧の方で、この蓮如上人のお歌の出典をご存じの方がおられたら、ぜひお教え頂きたいと思います。
 浄土真宗の布教の本はもちろん、ネットでも紹介されてましたし、浄土宗の林隆硯上人著『元祖大師御法語講話』にも引用されてましたので、著名なものなのだと思いますが、出典がどうしても見つかりません。

 ご存じの方がおられましたら、教えていただきたいと思います。

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COMMENTS

No title

そいつは、もう誰にも相手にされてないんだが・・・
今さらって感じ?

ネット自慰行為にふけっているただのキモオタでしょ。

No title

ああ、そうそう。
もう結論は出たんだけど、「若不生者」は、死後の極楽往生のみに限るのかどうか、
あんたらの好きな紅楳氏に聞いてごらんよ。
彼も一応、学者のはしくれだから、「現生の意味はある」と答えるだろうよ。

君らは不正直だから、もう答えは聞いててここには書けないだけかもしれんがね。
ただの君らの理解不足だったことが露呈されるから。

清森氏も愚かだねぇ、「若不生者」と「即得往生」の対応関係も知らなかった奴の
尻馬にのっかっちゃうから大恥。
で、答えに窮してダンマリときたもんだ。
御遺言抄の件もダンマリだねぇ~。

もし紅楳氏が『「若不生者」の「生」は、死後の極楽往生のみに限る』と
主張するんだったら、本願寺司教の肩書をもって論文書いて
しかるべき雑誌等に掲載の上、それをしかるべきところへ郵送してもらえるか。
ワシも本名で徹底的に戦ってやんよ。

学者先生が、とーしろーのケツ馬にのって泥かぶる気なんかサラサラないだろうが、
もしも法論になれば、教授の名も本願寺司教の名も地におちることになるだろうね。
学者生命が絶たれることになるよ。それを覚悟で本気でやり合うかい。

その覚悟がおありなら、いつでもどうぞ。
さあ瓜生くん、紅楳氏に伝えてくれたまえよ。

No title

またちび丸か

No title

ものすごく分かりやすい自演ありがとうございます。

No title

そうか、親鸞会はキモオタにさえ歯が立たないのか…。

学者でもなくキモオタに

親鸞会は全く反論できないわけねw

だめじゃん。

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