スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答159

【質問】


質問、よろしくお願いします。
私がお伝えしたい方から、言われたことは以下の通りです。

・高森先生の教えの間違っている部分が分からない。

・結局、教義的な誤りは具体的にどの部分なのか。

・清森問答のブログも読んでいるようですが、イマイチハッキリしないようです。
 私には説明しきれなかったので、具体的に教えていただけないでしょうか。



【回答】

 私の書ける範囲のことは、すでに清森問答に書いてきましたし、それで判って頂けないとすると、やはり直接、膝をつめて話をしてゆくしかありません。

 私がお会いできないのであれば、あなたが教義的によく親鸞会の間違いを理解されて、少しずつ、その方に話をしてゆかれるのが、一番だと思います。


 なお、分かりやすい教義上の問題点を挙げれば、


・善の解釈がおかしい。親鸞聖人は、目標や試験によって、善や教学に励んではならないと教えられている。

・「若不生者」を「信楽に生まれる」と解釈するのはおかしい。親鸞聖人は「浄土に生まれる」と教えられている。

・「唯除五逆誹謗正法」を「全人類は五逆謗法である」と解釈するのはおかしい。親鸞聖人は、五逆謗法の人と、そうでない人がいるという前提で説かれている。

・退会者から、御本尊を取り上げるのはおかしい。親鸞聖人は「本尊を取り返してはならない」と教えられている。

・本尊に「親鸞」の二字を貼り合わせるのはおかしい。

・「一切衆生、必堕無間」という親鸞会の教えの方向性がおかしい。釈尊も親鸞聖人も、そのようなことは教えられていない。

・善知識に無条件服従せよ、という教えはおかしい。親鸞聖人は、そのようなことは仰っていない。


 仏教や真宗学を詳しく学ぶと、他にも本質的な間違いが沢山あるのですが、親鸞会の人には分かりにくいと思います。

 以下、教義に関連する「清森問答」の文章です。
 繰り返しになりますが、このような文章を読ませることによって解決する問題ではないと思いますので、御自身が理解されることを優先された方が良いと思います。




質疑応答152

【質問】


 蓮如上人の「この信心獲得せずば無間地獄に堕在すべきものなり」というお言葉は、うそだということでしょうか?



【回答】


 なぜ、蓮如上人がこのように説かれたのか、私にはハッキリしないのですが、以下の4通りの可能性があると思います。

(1)釈尊、七高僧、親鸞聖人が、「一切衆生必堕無間」という内容を説かれなかったのは、不適切であった。

(2)蓮如上人の上記のお言葉は、特定の対象に説かれた対機説法であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(3)蓮如上人の上記のお言葉は、蓮如上人の懺悔のお言葉であって、他の人に当てはめるべきものではない。

(4)蓮如上人が間違われた。


 この中で、どれが一番妥当か、考えてみたいと思います。



 仮に、全人類が無間地獄に堕ちるのが真実だとします。

 釈尊は、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 七高僧方や、親鸞聖人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、生涯、一度も「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」とは仰いませんでした。

 そこには、何か深い理由があると思われませんか?



 蓮如上人も、全人類が無間地獄に堕ちることを知っておられながら、「全ての人は無間地獄に堕ちるぞ」と書かれたのは、ごくわずかな一部分です。

 その御文章を読まれた人のみに、真実を伝えられ、他の人には説かれなかったことになります。



 また、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、みな「信心決定できなければ、化土に生まれる」と説かれています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。



 つまり、「一切衆生必堕無間」が真実なのかも知れませんが、釈尊も、七高僧も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人の「正信偈大意」も、そのような説き方はされていないのです。だから、方向性が違うと申し上げたのです。

 蓮如上人が、「この信心獲得せずば…」と書かれたのは、対機説法で、その時は、そのような説き方をされる必要があったのであろうと、私は拝察しているのですが、どのように思われますでしょうか?




質疑応答151

【質問】


 親鸞会教義の相対化72・73で紹介いただいた蓮如上人の言葉は、親鸞会ではあまり聞く機会のない言葉が多く、正直非常に驚きました。また、親鸞会で出している「百ヶ条」に含まれていないものも多かったと思います。

 私は「百ヶ条」を選ぶに際して、非常に恣意的な操作があったのではないかと思ってしまいます。恣意的な操作を行った文献で構築 された「蓮如上人の教え」は、もはや「蓮如上人の教え」ではなく、恣意的な操作を行った人物個人のドグマ以外の何物でもないと思います。

 これに関して、清森先生がどのように思っておられるかお聞かせください。



【回答】

 私は、「百ヶ条」に限らず、高森先生の教えの全てに、同様の問題が含まれているのではないかと思います。

 高森先生の教えには、「全人類は死んだら無間地獄だぞ。堕ちたくなければ、全てを犠牲にして富山に聞きに来なさい、人を誘いなさい、お金を出しなさい」という方向性があり、それを信じさせるに都合の良い言葉だけをピックアップして教えられているように感じます。

 しかし、仏教は、このような方向性で教えられていません。

 龍樹菩薩は十住論の調伏心品に、『説法の中で、地獄の諸苦を説く時、このような苦しみを早くすべて尽くして、浄土に往生することが、わが身の利益であると説く人がいるが、これは、魔が説教者に化けているのであって、魔事である』と書かれています。

 現に、経典のどこを探しても「一切衆生 必堕無間」とは教えられていませんし、親鸞聖人も仰っていません。仏教では、地獄に堕ちる恐怖を原動力として、仏法を求めるような説き方はされないのです。

 また、法施、財施の功徳は説かれていますが、地獄に堕ちたくないからするものではありません。方向性が全く違います。

 それが、私が最も疑問に思うことです。




質疑応答143

【質問】


 親鸞会では、『唯除五逆誹謗正法』を、『十方衆生』は『助かる縁手がかりの無い五逆謗法の者』だと見抜かれた、と教わりましたが、この解釈は正しいのでしょうか?



【回答】



 結論から言いますと、親鸞聖人は、そのように解釈されていません。


●善知識をおろかにおもい、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。親をそしる者をば、五逆の者と申すなり。同座をせざれと候なり。(末灯鈔)


 ここで親鸞聖人は、五逆罪・謗法罪の人と「同座するな」と仰っています。分かりやすく言えば、「近づくな」ということです。

 全人類が五逆謗法であれば、無人島で暮らすしかありません。

 五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくなと仰っているのです。

 もちろん、「親を邪魔だと一度でも思ったら五逆罪」とか、「善知識の話が長かったとか短かったと思うのが謗法罪だ」という教えは、仏教にはありません。



 また、少々難しいですが、教行信証信巻には以下のように書かれています。


●四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。

(乃至)

 しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。

 彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。

『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。



 ここに説かれていることは、

・五逆謗法を造っていない人には、これから造らせないために「除く」と言われた。

・五逆謗法を造ってしまった人も、実際は浄土に往生できる。

・ただし、「仏・聖衆が見えない」「正法が聞けない」「仏を供養できない」という3つの障りがあり、本当の幸せにはなれないけれど、地獄に堕ちるよりマシである。


 以上の3点です。


 浄土がなぜ素晴らしいのかと言えば、「仏・聖衆が見える」「正法が聞ける」「仏を供養できる」からであり、それが出来ないのであれば、浄土の幸福は享受できません。

 ですから、五逆謗法でない方が良いに決まっていますが、五逆謗法を造っていても、信楽をえた人は、地獄に堕ちないのです。

 これも、信楽をえた人に、五逆謗法の人と、そうでない人の2種類あるという前提で説かれていますので、全人類が五逆謗法と解釈するのは無理があります。



 結論として、阿弥陀仏が「唯除五逆誹謗正法」と仰ったのは、五逆罪、謗法罪の恐ろしさを教えて、造らせないようにするためだ、ということになります。

 これを「十方衆生は五逆謗法だ」と教えてしまうと、五逆罪、謗法罪を造るのは仕方ないということになり、誓われた意味がなくなります。

 ですから、親鸞聖人の教えられたように解釈すべきだと思います。




質疑応答・128

【質問】


 チューリップ企画の法論を読み、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないことでないか」と思いましたが、如何、お考えでしょうか。



【回答】


 私も、最初に法論を読んだ時は、「どちらの解釈でもいいじゃないか。公開法論するまでもないこと」と思っていました。

 ですから、あなたの言いたいことも、よく分かります。

 しかし、この件を御縁に、最近、勉強しなおしまして、非常に重要な違いであることが分かってきました。

 親鸞会の教義の、根本的な誤りにつながっている部分ではないかと、今は考えています。


 親鸞会では、仏教の目的は信心決定だと教えられていますが、これは誤りだと思います。

 仏教の目的は、成仏です。同じだと思われるかも知れませんが、同じではありません。


 仏教では、菩提心を起こし、功徳を積んでゆかねば、仏になることが出来ないと教えられています。

 これは、聖道仏教でも、浄土仏教でも、同じです。

 浄土仏教は他力だから、菩提心も功徳も必要ないと思われるかも知れませんが、そうではありません。


 もともと、教行信証は、選択集に対する批判に応えたものと言われています。

 当時、浄土宗は、菩提心を起こさずに仏になる、と批判されていました。

 菩提心を起こし、功徳を積まねば、仏になれないのは、仏教の常識ですから、当然の批判です。


 それに対し、親鸞聖人は、菩提心に自力と他力の二つあることをハッキリと教えられ、阿弥陀仏のお力によって、菩提心を起こし、功徳を積ませて頂くことによって、仏になれることを、教行信証に明らかにされました。

 阿弥陀仏のお力とは、私達に菩提心を起こさせ、功徳を積ませる働きであり、仏になるまで導いてくださる働きであることは明らかなのです。

 信前の人は、その阿弥陀仏のお力を、撥ね付けてしまっている状態です。

 信心決定は、阿弥陀仏のお力を、受け取れるようになったことを言いますから、信心決定が、仏教のスタートと言っても良いと思います。

 信心決定も阿弥陀仏のお力に違いありませんが、少なくとも、阿弥陀仏が目的とされているのは成仏であり、命をかけておられるのも成仏です。


 親鸞会では、そういうことが、殆ど理解されていないように思われます。

 十住毘婆沙論を読みますと、自力で菩提心を起こし、功徳を積もうとした人が、その限界を知り、敗壊の菩薩と知らされて、初めて他力の菩提心を頂くことが出来るということが説かれています。

 つまり、成仏するとは、どういうことか、菩提心とは、どういうことかを理解せずに、信心決定はありえないと思います。

 ですから、阿弥陀仏が命を懸けておられるは信楽だ、信心決定が仏教の目的だ、と思っているうちは、救われないと思います。


 私は、親鸞会が結成されてから、「私は信心決定した!」と救いを喜び、他人にも伝えたいと、頑張られるようになった方を、殆ど知りません。

 高森先生も、命懸けで布教され、トータルで何万、何十万という人が、命掛けで求めてこられたと思いますが、なぜ救いを喜ばれる方が殆どいないのか。

 ずーっと考えてきましたが、最近は、18願の解釈の間違いが、大きいのではないかと思っています。

 これは、まだハッキリとはしませんし、現時点での考えでから、理解が深まれば変わるかも知れませんが、非常に大事な問題だと思っています。




質疑応答116

【質問】


 親鸞会では、「方便」ということで、嘘をつくことも許容されてきたように思いますが、仏教的に「嘘も方便」という言葉は通用するのでしょうか。



【回答】


 仏教で、方便とはどういう意味か、正しく知らねばならないと思います。

●正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるが故に一切衆生を憐愍する心を生ず。外己によるが故に自身を供養し恭敬する心を遠離す。(浄土論註)


 正直でなければ方便にならないと書かれていますが、嘘をついて良いとは、どこにも教えられていません。



●知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。(釈尊)


 このように仏教では、嘘を厳しく戒めています。
 嘘を平気で言える人は、求道が全く進んでいない人です。仏教で、そのようなことを勧めるということはありえません。

「嘘も方便」というのは、世間で言われる言葉ですが、これを仏教に持ち込んではならないと思います。




質疑応答101

【質問】


質問です。

知人は「親鸞会が今日のように脱線したのは善導大師の
 
  『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』

を読み間違ったのが大きい」言っていました。

すなわち、善導大師は、

  「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」

と教えられたのが、親鸞会では、

(1)外には賢善精進の相を現じなさい
   (外面は猛烈な善をしなさい)

(2)そして内は虚仮を懐いてはいけません
   (内面はキチンとしなさい)

になってしまった、と言うのです。

たしかに漢文では、「得ざれ」は文全体にかかっていますので、

(1)、(2)に分けることは不可能だと思いますが、この知人

の言うことは正しいのでしょうか。

一般的な解釈はどのようになっているのか教えて下さい。

また、清森様はこのことについてどのようにお考えでしょうか。


以上、よろしくお願いします。



【回答】


『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が、常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさい、ということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。




質疑応答85

【質問】


親鸞会発行「御一代記聞書100ヶ条」の[79]と、原文である御一代記聞書223番と読み比べますと、

『「又前々住上人の御時、あまた昵近のかたがたちがひ申す事候。いよいよ一大事の仏法の事をば、心をとどめて細々人に問ひ心得申すべき」の由、仰せられ候ひき。』

の部分が削除されているように思いますが、なぜでしょうか。



【回答】


 教えて頂くまで、気付きませんでした。
 単なる編集ミスか、意図的に削除されたのかわかりません。

 その部分の意味を調べますと、このような意味になっています。

「蓮如上人の時代、近くでお仕えしていた人々の多くが、御教えを間違って受けとめることがあった。私達は、大切な仏法をますます深く心にとどめ、人に何度も何度も尋ねて、御教えを正しく心得なければならないのである」

 親鸞会でいえば、局長や学院長に当たるような方々が、御教えを間違えていたという内容ですから、都合が悪かったのかも知れません。もし、そのような理由で削除されたのだとすれば、誠実さに欠けるやり方だと思います。




質疑応答83

【質問】


 化土往生できる人がこの世にいるとするならば、本願文の「唯除五逆誹謗正法」のお言葉や大無量寿経の五悪段に説かれていることとの関係はどうなっているのか?



【回答】


 親鸞聖人が、「唯除五逆誹謗正法」を「全人類は五逆謗法だ」と解釈されたお言葉はありません。親鸞聖人は、「唯除五逆誹謗正法」について、以下のように解説されています。


●四十八願の中の如き、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障、極重なり。衆生、もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるには、あらざるなり。(教行信証信巻)

●「唯除五逆誹謗正法」というは、「唯除」というは、ただ除くという言葉なり、五逆の罪人を嫌い、誹謗の重き咎を知らせんとなり。この二つの罪の重きことを示して、十方一切の衆生みなもれず、往生すべしと知らせんとなり。(尊号真像銘文)



 阿弥陀仏は、逆謗の者も救って下さいますが、衆生が、五逆罪・謗法罪を造らないようにするために、唯除と誓われているのだ、と仰っています。

 逆謗の者でも救われるのだから、どんな人でも救われる、という根拠にはなりますが、だからといって、全人類が逆謗だという根拠にはなりません。

 逆謗でない人が、実際にいるのかどうか、私には分かりません。しかし、親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。



 また、五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。


●かるがゆえに自然の三途無量の苦悩あり。転た、その身を貿え、形を改め、道を易えて、受くるところの寿命、あるいは長く、あるいは短し。(大無量寿経)

●仏、弥勒に告げたまわく、「吾、汝等に語る。この世の五悪、勤苦かくのごとし。五痛、五焼、展転して相生ず。但し衆悪を作して善本を修せず。みな悉く自然に諸々の悪趣に入る。あるいはその今世に先ず殃病を被りて、死を求むるに得ず。生を求むるに得ず。罪悪の招くところ、衆に示して、これを見せしむ。身死して、行に随いて三悪道に入りて、苦毒無量なり。(大無量寿経)



 また、これは全人類が、三悪道に入る、という意味ではなく、悪人が行く世界だと教えられています。善をすれば、三悪道には行きませんので、善をしなさいと勧められています。


●善人は善を行じて、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。(大無量寿経)

●人能く中に於て一心に意を制し、身を端し、念を正しくし、言行相副い、作す所、至誠にして、語る所、語のごとく、心口転ぜず、独り諸善を作し、衆悪を為さざれば、身独り度脱して、その福徳、度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを五の大善とするなり。(大無量寿経)


 つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。




質疑応答82

【質問】


 獲信した人を除いて後生の一大事(無間地獄に堕ちる)を抱えていない人はいるのか?
 (化土往生できる人は現代の世に存在するのか?)



【回答】


 まず、先に化土往生について、解説したいと思います。

 七高僧は言うまでもなく、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人ともに、化土往生を教えられています。


●仏智不思議をうたがいて 善本徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃)

●罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり(正像末和讃)

●仏智不思議をうたがいて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまう(正像末和讃)

●名号をとなうというとも、他力本願を信ぜざらんは、辺地にうまるべし。(末灯鈔)

●自力の称名は、臨終の所期、おもいのごとくならん定、辺地の往生なり。(口伝抄)

●「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の往生は、おおからずとぞ、あらわせる 化土にうまるる衆生をば、すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。(正信偈大意)



 そこで疑問になるが、実際に化土往生している人が、いるのかということです。

 これについて、親鸞聖人は以下のように仰っています。



●報土の信者はおおからず 化土の行者はかずおおし
自力の菩提かなわねば 久遠劫より流転せり(正像末和讃)

●報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる
化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり(高僧和讃)



 私には、実際に化土往生している人がいるのかどうか、分かりません。しかし、親鸞聖人は、たくさんの人が、化土往生していると説かれています。

 三願転入の御文では、親鸞聖人は、双樹林下往生、難思往生を通って、十八願の世界に出られたと書かれています。双樹林下往生とは化土往生のことです。



●ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓い、良に由あるかな。(教行信証化土巻)

●観経往生ともうすは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生ともうすなり。(三経往生文類)



 親鸞聖人は、化土往生に永く止まっておられたと仰っています。

 もし、その時に親鸞聖人が、亡くなられていたら、本当に化土に往生されていたのかどうかは、私には分かりません。

 しかし、間違いなく言えることは、親鸞聖人は、化土往生の救いを真剣に求めておられたということです。

 これが全人類が通らねばならない道ならば、すべての人は、化土往生を求める過程を経なければ、十八願の世界には出られないことになります。

 そう考えますと、善知識方が、化土往生を教えられたのは、至極当然のことのように思います。



●釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して あまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)

※福徳蔵は十九願、化土往生の教え

●釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。(教行信証化土巻)

※功徳蔵は二十願、化土往生の教え

●それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。(教行信証化土巻)



 もしかしたら、私達は、どんなに頑張っても、化土往生は出来ないのかも知れません。

 仮に、そうだとしても、それを言ったら「お終い」な訳です。誰も十九願を実践しようとする人など、いなくなります。

 化土往生を説かれたのは方便なのですから、「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの」なのです。



 私は、真面目に仏法を求めている人は、化土往生できる、と考えるべきだと思います。

 報土に生まれさせるお力を持つ阿弥陀仏が、化土に生まれさせる力さえ無いのでしょうか?

 釈尊、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が、口をそろえて、「化土に生まれられる」と仰っているのに、それに反発して、「どうせ化土には生まれられない」と言っていては、仏法にならないと思います。



 私は、参詣できなかったので分かりませんが、昨年の香港御法話で、高森先生が、「真面目に仏法を求めてゆけば、臨終に観音菩薩が説法して救って下さる」と仰った、と聞きました。

 それが事実だとすれば、まさに十九願、化土往生の教えです。

 これを聞かれて、親鸞学徒の皆さんは、やる気を出されて、仏法を実践しようと思われたのではないでしょうか?

 高森先生が、化土という言葉を使われずに、化土往生を説かれたのかも知れません。




 次に、必堕無間の一大事について、思うところを述べさせて頂きます。
 親鸞会が、「必堕無間」の根拠としているのは、以下の御文です。

●この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章)


 私は、この御文を一概に否定するつもりはありません。しかし、この一文をもって、「一切衆生 必堕無間」と結論づけて良いものか、という点については、疑問が残ります。



 まず、すでに書きましたように、化土往生を説かれなかった善知識はおられません。化土は、信心決定していない人が往く世界ですから、「信心を獲得せずは、無間地獄に堕在すべし」という教えと相反致します。

 蓮如上人御自身が、「正信偈大意」には、自力の人は化土に生まれ、化土に生まれる人が多いと説かれているのですから、どちらが真意か、分かりません。

 しかし、御文章はあくまでお手紙ですから、対機説法です。その機に応じて、必要があったから、そのように説かれたのかも知れません。誰に対しても、そのように説いて良いかは疑問が残ります。

 一方、「正信偈大意」は、親鸞聖人の御心を明らかにするために執筆された、事実上、唯一の御著書ですから、普遍性があると思います。

 いずれにしましても、「信心獲得せずば…」のみを採用し強調して、すべての善知識方が説かれた化土往生を説かないというのは、かなり偏った説き方ではないでしょうか?



 次に、化土にも往けない人は、無間地獄なのかという点ですが、親鸞聖人は、六道輪廻する、という説き方をされています。


●もしまた、この度、疑網に覆蔽せられなば、更りて、また曠劫を径歴せん。(教行信証総序)

●呼吸の頃、すなわちこれ来生なり。一度、人身を失いぬれば万劫にも復らず。(教行信証行巻)

●自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなし、と深信す。(愚禿鈔)



 親鸞聖人は「必ず無間地獄に堕ちる」という説き方はされていませんので、親鸞聖人が仰っているように、「六道輪廻する」と理解した方が良いと思います。




質疑応答67

【質問】


 先日、M支部長に、退会したいと申し上げたところ、昨晩、夜中の1時頃に、支部長が他の学徒の方を7名つれて、うちに説得に来られました。その中には、90歳過ぎの学徒の方もおられ、こんな夜中に連れ回されて、本当に気の毒だと思いました。帰って欲しいと申し上げたのですが、結局、夜中の3時過ぎまでおられました。親鸞会を辞めるのは、こんなに大変なことなのかと、驚きました。

 その際、お仏壇用の正御本尊も返却するように言われました。最初は、お仏壇用の正御本尊は返却する必要は無いと言われたから求めたのですが、やはり返さなければならないのでしょうか?非常に高価なものでしたし、今後も勤行をしたいので、返却したくないのですが。



【回答】


 それは本当に大変でしたね。今年は、大変な目標が出ているそうですから、支部長の気持ちも、分からないではありません。

 ご質問については、親鸞聖人が以下のように仰っています。


●聖人の仰に曰く、「本尊・聖教を取返すこと、甚だ然るべからざることなり。」(口伝鈔)

●本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞が睦びをすてて、他の門室に入るというとも、私に自専すべからず。(口伝鈔)

●同行、知識に鉾楯のとき、あがむるところの本尊・聖教をうばいとりたてまつる、いわれなき事。(改邪鈔)

●念仏する同行、知識にあいしたがわずんば、その罰をこうぶるべきよしの起請文をかかしめて、数箇条の篇目をたてて連署と号する、いわれなき事。(乃至)次に、「本尊・聖教をうばいとりたてまつらん時、おしみ奉るべからざる」よしの事、またもって同前、さきに違すべからず。(改邪鈔)


 このように、親鸞聖人が教えられていますので、支部長が、退会する人に「正御本尊を返せ」と言われるなら、教えに反していることになります。

 しかし、これは親鸞会の規則ですし、お仏壇用の正御本尊も、最近、返却が義務づけられるよう規則が変わりました。

 ですから、支部長が、親鸞聖人の教えに反してでも、規則が大事だと言われるなら、お返しするしかないのではないでしょうか。

 私達の方でも、表具屋に注文して、親鸞聖人御真筆の六字名号本尊を作っております。

 もし、どうしても返せと言われるのであれば、こちらで用意してありますので、遠慮なくお申し出ください。




質疑応答36

【質問】


> 「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈されたお言葉は、存在しないと思います。

>  上記のサイトも読ませて頂きましたが、田中さんの主張の方が、筋が通っており、正しいと思います。


という部分を読ませて頂いて、自分の理解が、間違っていたように思いました。

つまり、「若不生者」の「生」を無明の闇を破って頂いて、信楽の心に生まれさせて頂けると理解していたからです。


そこで、お尋ねしたいのですが、

・「若不生者のちかいゆえ」の御和讃は、そもそも親鸞会が正しいという根拠になるのでしょうか。

・また、本当は、どのように理解すればよろしいでしょうか。



【回答】

 「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。




質疑応答17

【質問】


 親鸞会が、親鸞聖人の御教えに反した方針、活動、組織、制度、募財、勧誘方法をしていると、ご教示頂きましたが、具体的にどのような教えに反しているか、教えて頂けないでしょうか?



【回答】


 一例を挙げれば、教行信証化土巻には、以下のように教えられています。


●四つの善事あり、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一つには、勝他のための故に経典を読誦す。二つには、利養のための故に禁戒を受持せん。三つには、他属のための故にして布施を行ぜん。四つには、非想非非想処のための故に繋念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没して、没し已りて還りて出ず、出で已りて還りて没す、と名づく。


 これは、善を行う心がけを教えられたものです。「経典を読誦す」「禁戒を受持せん」「布施を行ぜん」「繋念思惟せん」は、仏教で教えられる善に当たります。これらの善を行っていても、心がけが間違っていれば、悪果をえて、悪道に没すると説かれています。

 その間違った心がけとして、「勝他のため」「利養のため」「他属のため」「非想非非想処のため」の4つが教えられています。心がけを問題にされているのですから、当然、「勝他のために」「布施を行ぜん」というのも、悪果を得ることになります。

「勝他のため」とは、他人より勝りたい、ということです。支部間で成果を競ったり、他の人より、良い評価を得たいという心で活動することを言います。

「利養のため」とは、生活や保身のため、ということです。目標未達成で、問題にされたくないから頑張って活動したり、上司から嫌われないためにイエスマンとなり、言うべきことを言わないのも、利養のためです。

「他属のため」とは、いくつか解釈がありますが、他人を自分に属させる(従わせる)ため、と理解したら良いと思います。親鸞会に入会してもらうために説法をしたり、御報謝を出してもらいたいという都合を通すために、布施の行いをしていたら、他属のためになると思います。

「非想非非想処のため」とは、無色界の段階の1つで、三界の最高位とされる世界のことですが、ここでは、仏のさとりではない、間違った喜びの世界と理解したら良いと思います。信心決定を、この世のパラダイスのように勘違いし、そのような喜びを求めて、善を行じているようなのは、これに当たると思います。

 このような間違った心がけを戒めるように、教えてゆかねばならないのですが、親鸞会では、厳しい目標を与え、出来なければ徹底的に問題にし、間違った心がけを奨励しているのが現状と思います。そもそも、入会した人数や、参詣した人数や、集まった御報謝の額といった「形」を問題にし、決められた「数字」を達成することに、何の意味があるのでしょうか?

 そういう目標を与えなければ、頑張れない人は、布施を受け取っていない人です。そういう人に必要なことは、布施を与えることであって、目標によって頑張らせることではありません。もし、そのような方法で、善行に励ませることが出来たとしても、悪果を受け、悪道に沈むだけです。

 特に昨年から、目標に対して厳しくなったようで、多くの学徒の皆さんから、「講師の目付きがおかしくなった」とか、「友人を紹介すると、強引に入会を勧められるから、紹介したくない」という声を聞くようになりました。そして、講師が生活に困窮し、家族も養えないとか、食事も満足に取っていないという話も、あちこちから聞こえてきます。

 まさに、四つの善事から、悪果を獲得しているのだと思わずにおれません。悲しいことですが、これでは頑張れば頑張るほど、悪果を受け、悪道に沈むことになります。

スポンサーサイト

COMMENTS

ゴチャゴチャと

ゴチャゴチャと書いているから要点が分からなくなった、との声がとどいているのに・・・・返答としてさらにゴチャゴチャ書きますか・・・・
このゴチャゴチャした書き方は、ブログ主自身が考えを整理できていないことを現しているが、もう一つ読み取れることは、主が意見を聞く能力に欠如しているということだろう。この2点を自覚していただき、主には宗教家として大成してほしいものだ

言語禁治産者が片腹痛い

言語禁治産者の分際で、人間様の文章にケチを付けるとは片腹痛い。

ノイズを撒き散らし当人と所属団体の愚劣さを宣伝する前に、
論拠に基づいた反論の一つでも捻り出してみよ。

蜘蛛の巣の張った思考回路、停止した脳細胞からでは無理だろうがね。

No title

トルコライスさんの発言の無内容さに呆れるばかり
どうみたってゴチャゴチャじゃん。
これみて一体何を思えと。
清森問答も仏教(浄土真宗)の質問に答えています、っていうより、
親鸞会についての問答って感じだなあ
正直、清森問答を読んでも、仏教に何が教えられているのか、
何で聞かなければならないのか、まったく分からないのですが。
親鸞会憎い人のオナニーにしかなってなくないか?
これからもこの路線しかないんだろうなあ。
これから先はほとんど期待出来ないかな。

言語禁治産者はまだ駆除されておらぬか

清森氏は親鸞聖人の言葉に基づき論証責任を果たしている。

件の言語禁治産者が「ごちゃごちゃ」と非難している対象が、
カルトセクトのドグマに抵触した親鸞聖人の言葉であることは、
マインドコントロールされるか文妄でなければ明々白々。

自分の頭で考えましょう。

ゴチャゴチャしてるとか言ってる割には、たびたび清森問答を見ているようですね。
トルコライスさんにきっちりコメントも返してますし・・・

見ても得るものがないなら見ない方がいいですよ。時間の無駄ですから。

しかし、少し動揺するものがあるんでしょうね。
少しおかしいと思いながらも、親鸞会は絶対としか思えないその感覚、親鸞会会員の悲しい性ですよね。苦しいと思います。

でも安心して下さい。そろそろ会員の人たちにも親鸞会のおかしさに気付く人が増えてきましたし、あなたが気付くのも時間の問題です。

反発しながらも、清森問答を見ることは意義があると思います。
自分で考えることが始まりますから。

>このような間違った心がけを戒めるように、教えてゆかねばならないのですが、親鸞会では、厳しい目標を与え、出来なければ徹底的に問題にし、間違った心がけを奨励しているのが現状と思います。

こう言って、会からはじかれた自分を正当化したいのが、本音でしょ。
自慰行為を恥じましょう。

>反発しながらも、清森問答を見ることは意義があると思います。
自分で考えることが始まりますから。

余計なおせっかい、だよね。

No title

>こう言って、会からはじかれた自分を正当化したいのが、本音でしょ。
自慰行為を恥じましょう。

>余計なおせっかい、だよね。

親鸞会側の立場を取っているということは親鸞学徒ですよね。

仏法者として、なぜそのような言動がとれるのでしょうか。

高森先生はそのような言動をする親鸞学徒がいることを知ったら泣かれるでしょうね。

まずは相手の意見を受け止める心を持っているのが菩薩道でしょう。

そういう面から言えば、こういう言動をすること自体が、

親鸞学徒でもなければ、仏法者でもなければ、菩薩でもないです。

親鸞聖人のみ教えを正しく学ぶことに徹底してください。

その為に親鸞会の意義があるのでしょ。

そもそもネット対策なんか必要ないでしょ。

No title

>余計なおせっかい、だよね。

確かに、余計なおせっかいだとは思います。

おせっかいついでに質問させて頂くと、あなたは、今も、親鸞会の教えは全て正しい、と思っているんでしょうか?

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。