質疑応答161
【質問】
今月15日号の顕正新聞に「信相」と「機相」について書かれていました。
新聞だけでなく、最近よく「信相」と「機相」について話がされます。
私は15年間仏教を聞いてきましたが、この言葉を聞くのは初めてです。
これは果たして正当な真宗教義なのでしょうか?
また、今になってこの言葉が徹底される理由は何なのでしょうか。
【回答】
まず、「信相」という言葉ですが、親鸞聖人は使われていません。善導大師が一箇所だけ、以下の部分に仰っています。
●また行者さらに向かひて説きていへ。「なんぢよく聴け、われいまなんぢがためにさらに決定の信相を説かん。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論を引きて証して〈生ぜず〉といふとも、われまたいまだ一念の疑心を起さず。ただわが清浄の信心を増長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。仏語は決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑなり」と。(観経疏)
これは、言葉の通り、「信心のすがた」という意味で使われています。
「機相」という言葉は、私の知る限り、お聖教には一箇所も出てきません。仏語辞典も何冊か調べましたが、出てきませんでした。
親鸞会では「機相」を、「機受の心相」という意味で使っています。これを、親鸞会で、どのように教えているかを確認したいと思います。
●信の一念の妙味は、あらゆる聖人の著書に記されていますが、中でも有名なのは『教行信証』信巻の御文でありましょう。
「それ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心をあらわすなり」
と、ズバリ一念の信を明記なされているからです。
(乃至)
先ず、親鸞聖人が信楽一念の心相を述べられたこの大文章を、「機相ではない、どこまでも法徳談である」という大邪義から正さなければなりません。
そもそも親鸞聖人は『教行信証』行巻において、
「行に一念あり、亦、信に一念あり」
と仰言って、先ず、行の一念を解釈しておられます。
それが終って信巻で、次の信の一念に就いて述べられたものが今の文章でありますから、この文章は絶対に信一念の機相でなければなりません。
これは明らかに、他力の信心を獲る時尅と、その時にある心相とを明示されたものです。
慶心も慶喜も機受の信心をあらわす異名であることは、
「信心をうるを慶喜という」(唯信鈔文意)
「能発一念喜愛心というは、一念慶喜の真実信よく発すれば、必ず本願の実報土にむまるべし」(銘文)
とも言われていることでも明白な事実です。
故にこの文章は、法徳の名をもって機受の心相を語られたものであり、いゝかえれば、信心の徳の名をもって機相の安心を示されたものです。
(こんなことが知りたい2 p206〜p209)
このように、「親鸞聖人は、機相を説かれた」とハッキリ書かれています。
御質問の顕正新聞は読んでいないので分かりませんが、最近は「機相を説いてはならない」と教えているという噂を聞いています。
教義を変更したということでしょうか?
その理由は、私には分かりませんが、「華光会」を意識してのことではないかと思います。
親鸞会では、弥陀に救われた喜びを語る人が、殆どと言って良いほど、ありません。
「何十年も、講師をやっている人が救われていない。本当に高森先生は、善知識なのだろうか?」と疑問に思っておられる会員さんも、少なくないと思います。
そのような中、親鸞会から華光会に行く人が、非常に増えているそうです。
「機相」を説いてはならない、ということになれば、自己の信心の喜びを語ることも禁止ですから、華光会は間違っていることになります。
親鸞会で、救われた喜びを語る人が殆どいないのは、「機相」を説いてはならないからで、本当は救われている人が沢山いるはずだ、と誤魔化すこともできます。
このような理由ではないかと、私は推測していますが、どう思われますでしょうか?
今月15日号の顕正新聞に「信相」と「機相」について書かれていました。
新聞だけでなく、最近よく「信相」と「機相」について話がされます。
私は15年間仏教を聞いてきましたが、この言葉を聞くのは初めてです。
これは果たして正当な真宗教義なのでしょうか?
また、今になってこの言葉が徹底される理由は何なのでしょうか。
【回答】
まず、「信相」という言葉ですが、親鸞聖人は使われていません。善導大師が一箇所だけ、以下の部分に仰っています。
●また行者さらに向かひて説きていへ。「なんぢよく聴け、われいまなんぢがためにさらに決定の信相を説かん。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論を引きて証して〈生ぜず〉といふとも、われまたいまだ一念の疑心を起さず。ただわが清浄の信心を増長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。仏語は決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑなり」と。(観経疏)
これは、言葉の通り、「信心のすがた」という意味で使われています。
「機相」という言葉は、私の知る限り、お聖教には一箇所も出てきません。仏語辞典も何冊か調べましたが、出てきませんでした。
親鸞会では「機相」を、「機受の心相」という意味で使っています。これを、親鸞会で、どのように教えているかを確認したいと思います。
●信の一念の妙味は、あらゆる聖人の著書に記されていますが、中でも有名なのは『教行信証』信巻の御文でありましょう。
「それ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心をあらわすなり」
と、ズバリ一念の信を明記なされているからです。
(乃至)
先ず、親鸞聖人が信楽一念の心相を述べられたこの大文章を、「機相ではない、どこまでも法徳談である」という大邪義から正さなければなりません。
そもそも親鸞聖人は『教行信証』行巻において、
「行に一念あり、亦、信に一念あり」
と仰言って、先ず、行の一念を解釈しておられます。
それが終って信巻で、次の信の一念に就いて述べられたものが今の文章でありますから、この文章は絶対に信一念の機相でなければなりません。
これは明らかに、他力の信心を獲る時尅と、その時にある心相とを明示されたものです。
慶心も慶喜も機受の信心をあらわす異名であることは、
「信心をうるを慶喜という」(唯信鈔文意)
「能発一念喜愛心というは、一念慶喜の真実信よく発すれば、必ず本願の実報土にむまるべし」(銘文)
とも言われていることでも明白な事実です。
故にこの文章は、法徳の名をもって機受の心相を語られたものであり、いゝかえれば、信心の徳の名をもって機相の安心を示されたものです。
(こんなことが知りたい2 p206〜p209)
このように、「親鸞聖人は、機相を説かれた」とハッキリ書かれています。
御質問の顕正新聞は読んでいないので分かりませんが、最近は「機相を説いてはならない」と教えているという噂を聞いています。
教義を変更したということでしょうか?
その理由は、私には分かりませんが、「華光会」を意識してのことではないかと思います。
親鸞会では、弥陀に救われた喜びを語る人が、殆どと言って良いほど、ありません。
「何十年も、講師をやっている人が救われていない。本当に高森先生は、善知識なのだろうか?」と疑問に思っておられる会員さんも、少なくないと思います。
そのような中、親鸞会から華光会に行く人が、非常に増えているそうです。
「機相」を説いてはならない、ということになれば、自己の信心の喜びを語ることも禁止ですから、華光会は間違っていることになります。
親鸞会で、救われた喜びを語る人が殆どいないのは、「機相」を説いてはならないからで、本当は救われている人が沢山いるはずだ、と誤魔化すこともできます。
このような理由ではないかと、私は推測していますが、どう思われますでしょうか?
COMMENTS
No title
No title
高森氏の著書はパクリばかりですから、覚えていなくて当然です。
No title
「機相」を問題にするな、というのは、M晴を会長にする下準備だそうです。
あきらかに人格的にも信仰面でも問題のある長男に関して、講師や会員にそういったことを問題にすること自体が教義に反すると、徹底して布石を打っているようです。
会長の奥さん、娘、M晴の奥さんが画策して高森一族の資産を守れるように仕組んでいます。
それで、あからさまにおかしな教義をもちだして話しだしたのでしょう。
一説では会長は相当地方がすすんでいるようです。
あきらかに人格的にも信仰面でも問題のある長男に関して、講師や会員にそういったことを問題にすること自体が教義に反すると、徹底して布石を打っているようです。
会長の奥さん、娘、M晴の奥さんが画策して高森一族の資産を守れるように仕組んでいます。
それで、あからさまにおかしな教義をもちだして話しだしたのでしょう。
一説では会長は相当地方がすすんでいるようです。
No title
>>なんだ、親鸞聖人は機相を教えられたって、書いてあるじゃん。
>>自分の書いたものも覚えていないのかよ。
清森さんは、
・機相と言う言葉はお聖教には一箇所も出てこない。
・信相と言う言葉は親鸞聖人は使われていない。
・親鸞会では以前は「機相」を、「機受の心相」という意味で説いていた。
・最近、親鸞会では「機相を説いてはならない」と教えているという噂を聞いたが、教義を変更したのか?
と言っているのであって、あなたの主張は完全に的外れもいいとこでしょう。
印象操作丸出しです。
>>自分の書いたものも覚えていないのかよ。
清森さんは、
・機相と言う言葉はお聖教には一箇所も出てこない。
・信相と言う言葉は親鸞聖人は使われていない。
・親鸞会では以前は「機相」を、「機受の心相」という意味で説いていた。
・最近、親鸞会では「機相を説いてはならない」と教えているという噂を聞いたが、教義を変更したのか?
と言っているのであって、あなたの主張は完全に的外れもいいとこでしょう。
印象操作丸出しです。
No title
スマソ。誤解を与えたようなので訂正。
>>なんだ、親鸞聖人は機相を教えられたって、書いてあるじゃん。
>>自分の書いたものも覚えていないのかよ。
↓
なんだ、(「こんなこと知りたい」に、)親鸞聖人は機相を教えられたって、書いてあるじゃん。
(高森会長は、)自分の書いたものも覚えていないのかよ。
>>なんだ、親鸞聖人は機相を教えられたって、書いてあるじゃん。
>>自分の書いたものも覚えていないのかよ。
↓
なんだ、(「こんなこと知りたい」に、)親鸞聖人は機相を教えられたって、書いてあるじゃん。
(高森会長は、)自分の書いたものも覚えていないのかよ。
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自分の書いたものも覚えていないのかよ。