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質疑応答162

【質問】


 先月、支部長から配布されたプリントに、以下のように書かれていました。
 このような“機相”は、善知識方は語られていないということですが、本当でしょうか?



機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。



【回答】


 私は今まで、「機相」という言葉を、このような意味でお聞きしたことはありませんでしたが、最近は教義が変わったようですね。

 まず、親鸞会の教学聖典4の18番は、以下のような問題です。

●問
  法然上人の獲信せられた時と処と、どんな御文を読まれていた時かを記せ。

○答
  時-承安五年の春 四十三才
  処-黒谷の報恩蔵の中
  文-一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(観無量寿経疏)



 また、善知識方が、「あの人は獲信している」と言われていないということですが、以下のような御文もあります。


●大師聖人まさしく仰られてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。(御伝鈔)


●明法御坊の往生のこと、驚きもうすべきにはあらねども、かえすがえす嬉うそうろう。(末灯鈔)


●蓮如上人、順誓に対し、仰せられ候う。「法敬と我とは兄弟よ」と、仰せられ候う。法敬、申され候う。「是は、冥加もなき御事」と、申され候う。蓮如上人、仰せられ候う。「信をえつれば、さきに生まるる者は兄、後に生まるる者は弟よ」と、仰せられ候う。「仏恩を一同にうれば、信心一致のうえは、四海、みな兄弟」と、いえり。(御一代記聞書)



 親鸞聖人のアニメ第2部では、上記の御伝鈔のお言葉を元に、法然上人に「阿弥陀如来から賜った私の信心も、親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。全く同じになるのだよ」と言わせています。

 このアニメは、回収になるのでしょうか?

 そのプリントが、何を根拠に書かれたものなのか、非常に疑問です。
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COMMENTS

温故知新

機相、信相ということですが、大沼教学ではどのように扱われているのでしょうか。
判る人、レビューして下さると有難いです。

こんなことが知りたい2の機受の心相、云々は、大沼師も御自分の著書に書かれていそうな気がします。
より詳しく判るかもしれません。

No title

機受の信相(きにうけた信相)方便から真実へ、47Pなどです。
本願のお手元に成就してあるのだぞと教えて、機受の信相を明瞭に説いていないのです。とあります。
名号(法)を、(機が)受け取ったら、真実の信心が起きるぞ、そうなってないのは救われていないぞと、教えています。それを機受の信相といわれています。なぜ高森先生が心相と書かれたが分かりません。
今、言われている機相は語られていないとは、1人1人異なるいつ、どこで、こんなことしている時に獲信したということです。
信相のみ語られているとは、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と一味の真実信心、万人共通になる二種深信で信心を語っているということです。
涙が出たから信心ではない、お念仏が沸いたから、阿弥陀様の話聞いて涙が出るようになったとか、阿弥陀如来が身近に感じられたから、仏壇の前で合掌している時に、急に後生に驚きがたって、など、人それぞれ違うことは語られず、真実信心とは、二種深信だぞ、と教えられています。何故、機相、信相という言葉を使われたのかは分かりませんが、今、徹底されているところの機相、信相とは、そういうことです。
1人1人異なることで、こうなったのが真実信心だと教えたら、それは、間違いでしょう。親鸞聖人は、真実信心を万人共通の二種深信で明らかにされた。1人1人異なる三業では教えられていない。そういうことだと思います。

No title

>親鸞聖人は、真実信心を万人共通の二種深信で明らかにされた。1人1人異なる三業では教えられていない。そういうことだと思います。

だけど、法然上人は、1人1人異なる三業で教えられたんだよね。
それを高森会長は会員に徹底している。
法然上人も、高森会長も、善知識では無いのだね。

●問
  法然上人の獲信せられた時と処と、どんな御文を読まれていた時かを記せ。

○答
  時-承安五年の春 四十三才
  処-黒谷の報恩蔵の中
  文-一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(観無量寿経疏)

No title

法然上人が、一人一人異なる三業で教えたとは、
何を言っておられるのでしょうか。
清森さんに、よく真宗の教えを聞かれた方がいいかと思います。

「身・口・意の乱れ心を繕い、めでとうしなして、浄土へ往生せんと
思うを自力と申すなり。」
(末灯鈔)

自力を捨てて他力に帰せよ、善知識方の教えは是以外にありませんから、
自力の三業で、信心を教えられておられたら、それは、弥陀の本願を説いていないですよ。

さて、問題の御文ですが、

「善導和尚の観経の、一心に専ら彌陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定業と名ずく、彼の佛の願に順ずるが故に。
見得て後、我らが如くの、無智の身は、偏にこの文を、あふぎ、もはら、この理を、頼みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなうべし。」

これを、どう読めば、三業で信心を教えられているのでしょうか?

この出題の意義は、そういう事ではないのです。
これは、三業惑乱の後遺症で、本願寺は、無帰命安心が多くなりましたが為に、救われたらハッキリする、自覚するということを明らかになされる為の根拠としての出題です。
三業で信心が分かるぞ、とか、こういう三業になったのが信心だぞ、とか、こういう三業になれば、信心を頂けるぞとか、そういう事ではありません。

紅楳英顕氏も、信一念と信の覚不について、という文章の中で、
法然上人に信の覚があったという根拠に引用しておられます。

この御文を、法然上人が真実信心を三業で教えられた根拠とするのなら、
余りに浄土真宗の教義に昏いと思います。

「今の真宗に於いては、専ら自力を捨てて、他力に帰するをもって、宗の極致とす。」
覚如上人のお言葉です。

三業の善し悪しによって、真実信心か、否か判定出来ると、すれば、
三業の善し悪しによって、真実信心か否か分かれることになり、
真宗にはなりません。
真実信心は必ず三業にはあらわれるが、三業から信心を判定してはいけないことを、清森さんからよく聞いたらよいです。
よくご存知と思います。
親鸞聖人は、
「真実の信心は必ず名号(念仏)を具す、名号は必ずしも、願力の信心を具せざるなり」と教行信証に仰せです。
信心を獲れば、ご恩報謝の念仏を称えずにはおれないが、
念仏称えているからといって、信心を獲ているとはいわれません。

あの人は獲信している、していないと言われていない、などについては、
私は、知りません。私は、親鸞会に所属しているので、
法友と沙汰したいところです。

ただ、三業で、信心を判定することは出来ないのです。
あの人は、獲信しているとは、何で判断するのですか?
人間に分かるのは、三業しかありません。
しかし、三業で、信心を認定出来ますか。絶対に出来ませんし、
出来ると思っている心を自力というのです。

私は、今まで、高森先生から、
真実信心は、阿弥陀如来とその人のことだから、
分からない、としか聞いた事がありません。
断定、ましてや、認定など出来ないことでしょう。
T氏の獲信の記録を、何故、聞法の記録とタイトルが変わり、
そして、今は出ていないのか。
ああなったのが、真実信心と思う人がいるからだと思います。
真宗の教義に基づけば、廃刊した方が無難でしょう。
いいものだと思いますが。

信心を断定出来ますか。誰が何を根拠にするんですか?
高森先生は、出来ないと言われています。
法然上人も、親鸞聖人も、覚如、蓮如上人も、
三業がこうなったのが、信心だと教えられていません。
蓮如上人の御文章で、一カ所でも三業がこうなったのが、信心だと教えられていますでしょうか。
信心を獲たら、喜びが起きる、と言う事と、喜びが起きたから信心だというのは、まるで、違いますよ。
あの人は一味だとか、往生するとか、仏になるとか、
法然上人も、親鸞聖人も、蓮如上人も、
そう書かれているではないかと思われるのでしょうが、
三業ではなく、万人共通の信心、その結果でしか、
語られていないのですから、
その理由をよく知られたらいいかと思います。
高森先生の書き方も極端に思いますし、信相、機相とかの言葉をわざわざ使われた意味がよく分からなっかたのですが、三業と信心の違い目をハッキリと分かりますので、さすがと思いますよ。
揚げ足ばかりとってないで、沙汰したらいいと思います。

No title

高森先生=信心決定している人

高森先生=信心決定していない人

どっちを取るかだね。

所詮、信心決定してない人の話は、切がない。

信心の沙汰って思っている事が野暮ってもん。

いい加減に目覚めたら。



教えてください

前の前のコメントの方へ

お書きになっていることはよく分かるのですが
>三業と信心の違い目をハッキリと分かりますので、さすがと思いますよ。
の部分は何を指されているのですか。プリントの内容ですか。私は会員でないので知りません。そのさすがと思われる内容を教えて頂けませんか。

No title

前の前の方

信心決定しているから、
信心決定していないから、
という判断を何でしますか?

目に見えるもので、それを判断しようとする心を
自力の心といいます。

お聖教、学者の書いたもの、高森先生のもの、
安心問答でも、名号の独り働きで助かることを聞かせて頂きますよ。
真実信心は三業の善悪と関係ないと教えられているのは、
さすがと思っています。
目が覚めるとか、覚めないとかではなく、
三業で信心を教えられていないのだから、
それはそうだというしかありません。

hさん


親鸞聖人の教えは、信心をもって本と致しますが、
真実信心は二種深信であることが分かります。

三業の善悪で助かっているように思ったり、助かっていないように
思うのは、若存若亡の自力の信心ということが分かります。

阿弥陀如来の18願は
三業をどうにかして救われるという本願ではなく、
三業がどうにかなったのが真実信心ではないことが分かりますので、
さすがと思います。


No title

hさん
プリントの内容は、2chかなんかに貼られていたと思いますので、
探してみるか、あるいは、清森さんが知っているかと思いますので、
聞かれてみたらよろしいかと思います。


No title

hさん
三業と信心の違い目をハッキリと分かりますので、とは、
自力の信心と他力の信心の違いが理解出来る、というこです。
無論、プリントの内容から分かりますので、
さすがと思っています。

つまり…

>三業と信心の違い目をハッキリと分かりますので、とは、
>自力の信心と他力の信心の違いが理解出来る、というこです。

つまり、このようなことを会員に徹底している高森会長は、他力信心を判っていないということですね。


●問
  法然上人の獲信せられた時と処と、どんな御文を読まれていた時かを記せ。

○答
  時-承安五年の春 四十三才
  処-黒谷の報恩蔵の中
  文-一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(観無量寿経疏)

No title

oooさん
そうです。
高森先生は他力信心を判っておられません。
「高森先生は信心獲得されています」と言う講師の方々も、他力信心に暗い人ばかりです。

No title

ありがとうございました。私は難しいことは分かりませんが、
>三業の善悪で助かっているように思ったり、助かっていないように
>思うのは、若存若亡の自力の信心
>阿弥陀如来の18願は
>三業をどうにかして救われるという本願ではなく、
>三業がどうにかなったのが真実信心ではない
そのとおりと思います。プリントの内容を探してみます。

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