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質疑応答164

【質問】


 いつもメールを有り難うございます。
 かつて、渡海難氏のホームページ「浄土通信インターネット」で、「白道燃ゆ」の一節に対して批判が加えられました。(1999年頃だと思います)


>「この願成就文には、称名念仏が出ていないから「念仏唱えたら助かる」と信じているのは、真宗の信心ではないことが明白になる。願成就文では、明らかに、「信ずる一念」で信心歓喜と助かるのだ、と信心正因が打ち出されているからである。されば、本願の乃至十念の称名念仏は、三信の信心に収まって、ここに親鸞聖人によって、弥陀の本願の極意は、唯信独達であることが鮮明になったのである」
>「若し、このような称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。信心正因、称名報恩が、真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである」(白道燃ゆP200~201)


「白道燃ゆ」の以上の部分に対して、(実はこれらの文章も伊藤康善師の「安心調べ」の丸写しですが) 渡海氏は批判を加えています。


> 願成就文というのは、大無量寿経の下巻の冒頭にあります。ほとんど同じ記載が、大無量寿経の下巻で末尾にくり返されています。最初と最後に同じ意味のことをくり返し、聴衆に自分の主張を印象づけるというのは、講演の定石です。大無量寿経の下巻の末尾に再度くり返されている言葉を引用し、親鸞は教行信証で言います。「乃至一念」は、「称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す」、と。
> 願成就文とほとんど同じ文章を引用し、その中の「乃至一念」釈で親鸞は、少なくとも一回でもいいから称名念仏せよと言うわけです。これは何を意味するものでしょう。願成就文の「乃至一念」にも当然、称名念仏せよという意味が込められている。浄土通信はそう論じてきました。
> 願成就文の「乃至一念」に基本的には称名念仏せよという意味が込められているということは、「白道燃ゆ」では考えられないことなのだそうです。真宗の信心正因の教義は、根本から転覆するようなことだと言います。ですから高森氏の主張は親鸞仏教と無関係であると浄土通信は言い続けてきました。


 この渡海氏の破邪に立ち上がったのがM.H.講師です。


> 「十八願成就文の「乃至一念」を、信の一念でなく、行の一念だと釈された、親鸞聖人のお言葉はありますか。(ないでしょう。)だから、あの論には、根拠がなかった。悪かった。撤回する(と言いなさい)」(渡海氏によるM.H.講師の主張の要約です)


 これに対して渡海氏は一念多念文意を出します。


> 「乃至は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり。一念というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり」


 M.H.講師は反論します。


> 「称名念仏の意味は出ていない。一念は極限的な時間を指している」と、浄土文類聚抄を引用します。
> 「乃至一念というは、これさらに観想功徳遍数等の一念をいうに非ず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念というなり」


 渡海氏は解説します。


> 「一念多念文意の「乃至は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり」とは何を意味するのでしょう。乃至は大きく包んでいます。おおきをも、すくなきをもとは、回数を指す言葉です。時間を指すなら、長い短いと言います。多い、少ないというのは、称名念仏を前提にした議論です」
> 「願成就文には、乃至一念という言葉が出てきます。少なくとも一回称えただけでもという意味ですから、当然称名念仏の意味が込められているのです。これが親鸞仏教です」


 更に渡海氏は、


> 「浄土文類聚抄はM.H.氏に読み落としがあります」
> 「浄土文類聚抄は言います。「一念と言うは、すなわちこれ専念、専念すなわち一声、一声すなわちこれ称名、称名すなわちこれ憶念、憶念すなわちこれ正念、正念すなわちこれ正業なり。またないし一念というは観想功徳遍数等の一念をいうに非ず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念というなり、まさに知るべし」
>  つまり乃至一念には、称名の意味もあると説明し、加えて時間の意味もあると言っているのです」


 そして渡海氏は結論します。


> 「親鸞仏教では、信の一念は行の一念、真実の行と真実の信とは一体なのです。親鸞は言います。「この真実の称名と真実の信楽と得たる人は、すなわち正定じゅの位に住せしめんと、ちかいたまえるなり(浄土三経往生文類)」
> 「信心のない念仏行はありますが、念仏を声にするという行のないところに信心はありません。「白道燃ゆ」は、唯信独達という言葉で、行は信心に収まってしまうといいます。南無阿弥陀仏を音声にする念仏行がない信心をうたっています。だから、「白道燃ゆ」は親鸞仏教と無関係だと言うのです。」


 これに対してM.H.講師は何らかの反論をされたのですが、渡海氏は「もはや反論になっていない」と言って、その文章が渡海氏のホームページにアップされることはありませんでした。そこでM.H.講師は「自分が書き込んだ文章については自分に著作権がある」と主張し、公開をやめさせたようです。渡海氏がM.H.講師の文章の著作権を認めたものと思われます。

 この頃のM.H.講師はちび丸ではありませんので、法論は正攻法であったと思います。法論は負けですが、わたしは、M.H.講師の主張の方が、真宗の伝統教学からも正しいのではないのかと思うのですが、清森先生はどう思われますでしょうか。



【回答】


 本願成就文の「乃至一念」は、親鸞聖人は、基本的に「信の一念」で解釈されていますが、法然上人や善導大師は「行の一念」で解釈されています。

 親鸞聖人は、法然上人や善導大師を否定されたのではなく、その説を踏まえられた上で仰っていることだと思いますので、「行の一念」で解釈すること自体が間違いだとは思いません。

 この行信論については、学者の間でも意見が分かれており、私としても責任もって、これが正しい解釈だと断言はできないところです。

 ですから、ここに書くことは、あくまで現時点の私の見解と考えてください。



 なぜ阿弥陀仏に救われた人が、仏になれるか、親鸞聖人は教行信証行巻に、以下のように教えられています。


●他力といふは如来の本願力なり。『論』(論註・下)にいはく、「本願力といふは、大菩薩、法身のなかにして、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまふことを示す。みな本願力より起るをもってなり。たとへば、阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。乃至〈菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく自利満足せるなり。〈応知〉といふは、いはく自利によるがゆえにすなはちよく利他す。これ自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなりと知るべし。〈菩薩は第五門に出て回向利益他の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく回向の因をもって教化地の果を証す。もしは因もしは果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。〈応知〉といふは、いはく利他によるがゆへにすなはちよく自利す、これ利他にあたはずしてよく自利するにはあらざるなりと知るべし。〈菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるがゆえに〉と。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもってのゆえに、名づけて仏とす。いま〈即得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。


 このように、他力によって、五門の行(五念門)を実践することによって仏になれると教えられています。称名念仏は、その行の中に含まれます。

 つまり、仏になるには行が必要であり、その行は、阿弥陀仏のお力によってなさしめられる、その力を「他力」と言うのだと仰っています。

 ですから、仏に成るのに「行」は要らないと言われるのは、「自力の行」のことであって、「他力の行」まで不要というわけでなないのです。

 教行信証などを読んでいると、「称名で救われる」という記述が多いことに、親鸞会の方の多くは疑問に思われるでしょうが、そういう理由です。


 本願文に於ける、往生の条件は、三信と乃至十念の両方が挙げられており、十念は称名念仏ですから、他力の行ということになります。その行を往生まで続けることが、乃至十念となります。

 この乃至十念に対応するのが、成就文の乃至一念ですので、善導大師や法然上人が、これを行の一念で解釈されたのは、むしろ自然なことだと思います。


 しかしながら、この「行の一念」には、信心を獲るという大前提があるわけで、信心を獲ずに、どれだけ行に励んでも、自力の行にしかなりません。

 この自力、他力の水際こそが、信の一念であり、乃至一念を説かれた真意であると親鸞聖人は解釈されたのだと拝察いたします。

 つまり、信心を獲ずに、「念仏さえ称えれば仏になれる」との誤解が多かったので、その間違いを正すために、乃至一念の真意は、信の一念であるという説き方をされたのだと思います。


 親鸞会では、信心さえあえば、称名は不要であるという風潮が強いように感じます。M.H.講師と渡海氏の議論の論点も、そこにあるように思います。

 私の記憶では、親鸞会で「乃至十念は、報謝の念仏である。お礼なのだから、有っても無くても良い」と教わりました。

 報謝になることは正しいですが、だからと言って、「お礼だから、無くても良い」という教義はお聖教に見当たりません。

 蓮如上人は五重の義の5番目に名号(称名)を挙げられ、往生の必要条件と教えられています。

 他力の信と、他力の行によって。往生できるというのが浄土真宗の教えであって、他力の信さえあれば他力の行は要らないという教えではありません。

●真実の信心は必ず名号を具す。(教行信証信巻)

と教えられるように、他力の信と、他力の行はセットだと考えれば良いかと思います。他力の行は、他力の信から生まれるので、親鸞聖人は、他力の信を強調して教えられたのです。

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COMMENTS

No title

親鸞会の講師部の会合の録音があがっていました
講師をやめたら1000万の違約金だそうです
http://jp.youtube.com/watch?v=MG8OmQvYPv0

No title

T森親子の実態が明らかになりました
http://blog.goo.ne.jp/furins/

挨拶

 2ちゃんねるから誘導されました。
 昔の僕のホームページの一部を特集してくれています。
 当方の主張の内容を客観的に理解してくださっているようで、光栄です。

 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する

 最近は、この和讃からダイレクトに結論を導いています。


 「その文章が渡海氏のホームページにアップされることはありませんでした」

 正確に言うと、アップしたのです。M.H.氏の文と共に、それへの僕からの最後の反論をアップしたところ、その最後のアップをM.H.氏が見て、プロバイダを経由して削除の要請が来たというのが正確な道筋です。
 一連の記事は、今でも保管しています。

No title

>渡海 難さん
はじめまして!!
「後生の一大事がわかってない」「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)
・・など言われながら、チ●ーリップ企画(=親●会)にツッコミを入れている苦笑と申します。

もしよろしければ、その記事を私にも読ませて頂けないでしょうか?

nigawaraihonmono@gmail.com
 ↑
このアドレスにお送り頂けたらありがたいです。

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