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親鸞会教義の相対化・79(投稿)

清森義行様


 今日は『無量寿経』の第十八願に説かれる「唯除五逆誹謗正法」について、まとめておきたいと思います。



§1問題の所在

1-1『無量寿経』第十八願

『無量寿経』の第十八願の対象は「十方衆生」であり、この願は、阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す人を全て救い取る願ですが、

ただ、五逆罪を犯す者と正法(仏教の教え)を誹謗する者を浄土往生から除く。

とあります。


「五逆罪」とは、

1,父を殺すこと
2,母を殺すこと
3,阿羅漢(覚った仏弟子)を殺すこと
4,仏教教団を乱すこと
5,仏の身を傷つけて血を流すこと


の五つの罪で、この正法を誹謗することと五逆罪を犯すことは、八大地獄でも一番ハードな阿鼻地獄(あびじごく)・無間地獄に堕ちるぐらいの、仏教では最も重い罪であるとされます。



1-2『観無量寿経』

一方で『観無量寿経』には、

衆生のうちには、あるいは不善な行為である五逆や十悪を行い、
その他多くの不善をすべてそなえてるものがあろう。
このような愚人は、その悪い行いが原因となり、
地獄・餓鬼・畜生などの悪道に落ちて、永遠の時をすごし、
苦をうけることができまりないであろう。

このような愚人は、その命が終わろうとするときにあたって、
善道に導く高徳の人にめぐりあい、
その高徳の人はいろいろとなぐさめて心安らかにさせ、
そのためにすぐれた教法を説いて聞かせ、仏を念ずるように教える。

だが、この愚人は苦しみに責めたてられて、仏を念ずる余裕がない。
そこで、その高徳の友人は告げて言った。
「もしお前が仏を念ずることができなければ、無量寿仏と称えるがよい」

その言葉とおりに、まごころをこめて、その称える声を途切れさせることなく、
十念の全てをそのうちにこめて、「南無阿弥陀仏」と称えた。

仏の名を称えるのであるから、一念一念と重ねるあいだに、八十億劫にわたる生死輪廻を続けなければならないほどの罪悪を消し去ることになる。

とあって、五逆という重い罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申すことによって救われることができる。と釈尊は仰っておられます。



1-3『無量寿経』と『観無量寿経』の矛盾

●「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」
by.『無量寿経』

●「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
by.『観無量寿経』

という二つの経典の記述は矛盾しますので、浄土教の祖師方の間で、大きな問題となったのです。



§2曇鸞大師と善導大師の解釈

※親鸞会教義の相対化・28で述べてことを再掲します。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

2-1曇鸞大師の解釈

曇鸞大師は、この問題を『往生論註』八番問答で、

1)五逆罪と正法を誹謗する罪の、二つの重い罪を犯したものは往生できない。
2)五逆罪のみを犯しても、正法を誹謗する罪を犯していないものは往生できる。
3)正法を誹謗する罪はすごく重いので、五逆罪を犯してなくても往生できない。

というように、

「正法を誹謗しなければ極楽浄土に往生できる」

と解釈しています。


★「正法を謗る」とは?

また曇鸞大師は、

問う。「正法を謗る」というのは、具体的にどのようなことか?

答える。

もしも、
「仏はいない!」「仏の説いた法はない!」
「菩薩はいない!」「菩薩の実践する法はない!」
というようなことを言って、
このような見解を、自ら抱き、あるいは他の人から教えられて持って、
その誤った見解に、心が定まってしまうことを、
「正法を謗る」というのである。

というように、

「正法を謗る」というのは、単に「けなす」とか「ののしる」というのではなく、仏や仏の説いた法や、その法に従って実践する存在を、根底から否定することを意味しています。


★闇を照らす光の譬え

その上で、

たとえば、千年間も光が入らない闇室に、一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなるようなものである。
闇は千年間も室の中にあったのだから、光が入っても去らない、ということがありえようか。(いやありえない)

という譬えでもって、五逆の罪がどれほど重くても、阿弥陀仏の名号を十回称える無上の信心があれば、全ての罪が除かれると解釈しておられます。


つまり、

・釈尊や阿弥陀仏という仏の存在。

・阿弥陀仏の本願を信じてお念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができる。
という、お念仏の教えそのものの存在。

これらを否定することなく、信じてその通りにお念仏を申すならば、「正法を謗る」ことにはならず、最も重い罪を犯していないので、たとえ五逆罪を犯していたとしても、千年の闇を一瞬で光が照らすように、全ての罪が除かれ、極楽浄土に往生することができる。

そのように曇鸞大師は解釈されているのです。



2-2善導大師の解釈

善導大師は『観経疏』散善義において、

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、
「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、
これらの者の往生を許さないが、
いまこの『観経』の下品下生のところでは、
正法を誹謗するものをえらび除いて、
五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、
いったいどういう意図があるのか?

答える。
このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、
抑えとどめる教えの上で解釈する。
四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、
実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、
衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、
途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、
ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、
たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、
これもまた、おさめとらぬというのではない。

また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、
正法を誹謗するものを除いているのは、
五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、
迷いの世界に流転させることはできないから、
かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、
法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、
もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、
もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。

というように、

★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、

まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、
「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」
と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)

であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」
(『観経』)という記述は、

すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、
阿弥陀仏は見捨てることなく、
大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)

であると解釈されます。

つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。



§3法然上人の解釈


法然上人は善導大師の解釈を受けていますので、未だ罪を犯していないものには、罪を犯さないように戒めつつ、罪を既に犯してしまっているものに対しては、浄土門の教えは、十悪や五逆という重い罪を犯したものでさえ、救われるとお説きになっておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
罪は十悪五逆の者も生まると信じて、
小罪をも犯すさじと思うべし。
罪人なお生る、況(いはん)や善人をや。
『一紙小消息』

(訳)
罪に関して言うならば、「十悪や五逆の罪を犯した者でも往生できる」と信じて、
「どんな小さな罪も犯すまい」と思うべきである。
罪人でも往生できる。まして善人は言うまでもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)「十悪や五逆の罪を犯した者でも往生できる」と信じる・・
信仰の立場
2)「どんな小さな罪も犯すまい」と思う・・実践の立場

と、まとめることができるのではないかと思います。


1)は、いかなる人でも救うという阿弥陀仏の本願に対する、信仰の立場だと思います。

どんなに罪を犯してしまった人であっても、その罪を懺悔し、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申すことによって、極楽浄土に往生することができます。

そのことを疑ってはいけません。ひたすら信じてお念仏申すことが大切です。

2)は、阿弥陀仏に救って頂く私たちが、最低限守っていくべき道徳的な実践の立場であると思います。

どんな人でも救ってくださる阿弥陀仏ですが、阿弥陀仏が救ってくださるからと言って、好んで悪いことをしていいはずがありません。

悪いことは悪いこと。罪は罪。

仏様が悪いことを勧めるはずがありません。「罪を犯せ」と勧めるような仏様はどこにもおりません。

いかなる人をも救ってくださる阿弥陀仏を前にして、自らの至らなさを恥じつつ、そういう自分でも救ってくださる阿弥陀仏の本願を有難く仰いで、「どんな小さな罪も犯すまい」と可能な限りの努力し実践していくべきである。

法然上人はそのように教えられています。



§4『浄土宗略抄』

最近、「デカ丸」(※実際は「ちび丸」という方の名義詐称のようです)を名乗る方が、『浄土宗略抄』における法然上人の言葉を引用し、「法然上人が善をすすめている」ことの根拠とされていました。

しかし、苦笑氏が指摘されているように、前後の文章を読むならば、上記の『一紙小消息』と全く同じことが述べられていることは明かであり、『浄土宗略抄』の文章の一部を取り出して「法然上人が善をすすめている」ことを強調するのは所謂「断章取義」であると思います。

~ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?より引用~
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-170.html

心の善悪をも顧みず罪の軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば仏の誓によりて必ず往生するぞと決定の心を起こすべきなり。
その決定の心によりて往生の業は定まるなり。往生は不定に思えば不定なり、一定と思えば一定する亊なり。
せんじては仏の誓を憑みていかなるところをも嫌わず、一定迎えたまうぞと信じて疑う心のなきを深心とは申しそうろうなり。

いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、
善の三業をば真実心の中になすべし」とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、
心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。

ただ弥陀の本誓の善悪をも嫌わず名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、
名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、
深く信じて疑う心一念もなかれという意なり。『浄土宗略抄』

(苦笑ちゃん訳)
心の善悪を問題とせず罪の軽重いも問題にせず、「ただ口で南無阿弥陀仏と申したならば仏の誓によって必ず往生するのだ」という「決定の心」を起こすべきである。
その「決定の心」によって往生することができる行為(往生の業)が定まるのである。往生が定まっていない(不定)と思うならば往生は定まっていない。間違いなく確定している(一定)と思うならば間違いなく確定している。
結局は、仏の誓を憑んで、阿弥陀仏はどのような場所であっても嫌わずに間違いなく迎えてくださると信じて、疑う心がないことを「深心」と言うのである。

阿弥陀仏がどんな過ちを犯した人をも嫌わないからと言って、その教え(法)を自分の都合に合わせて受け取り勝手気ままに振る舞うべきではない。
それ故に善導大師も「善くない三業が起きた時は、真実心を持ちながらそれを捨てるべきである。善い三業は、真実心を持ちながらそれをなしていくべきである」と解釈されているのである。
また、「善い行い(善業)でなければ、敬ってこれから遠ざかるべきであり、それに随喜してはいけない」と解釈されているのだから、心の及ぶ限りは罪を犯すことを恐れ、善にすすむべきであると心得なさい。

ただ、阿弥陀仏の本来の誓願が人が善であろうと悪であろうと嫌わず、名号を称えれば必ず迎え取ってくださると信じ、
名号の功徳があらゆる過ちをも除き滅ぼして、一念でも十念でも必ず往生することができることの素晴らしいことを深く信じて、疑う心は一瞬もあってもならない、という意味である。
~ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?より引用~



§5所謂「悪人正機」について


最後に、上記の法然上人の教えは『歎異抄』の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と全く矛盾しません。

『歎異抄』では、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」に続いて、

自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。

と述べられているわけですが、

『歎異抄』においては、

1)善人=自力作善の人=他力をたのむこころの欠けたる善人
2)悪人=煩悩具足で、いずれの行にも及ばない「我ら」=他力をたのみたてまつる悪人

ということであり、

1)「善人」とは、阿弥陀仏の救いに身を任せずに、自分の力で善を積んで往生しようとしている、自力作善の人という意味の「善人」のことで、
2)「悪人」とは、煩悩具足であり自分の力では輪廻を離れることができないと自覚し、阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと自覚した「悪人」のことであり、

阿弥陀仏の本願を頼むかどうかで「善人」「悪人」が定義されていて、罪を犯したかどうかという道徳的基準では定義されてはいません。

そして、
1)「阿弥陀仏の本願をたのんでいない人=善人」でも往生できる。
2)まして「阿弥陀仏の本願をたのんでいる人=悪人」が往生できることは言うまでもない。

ということが述べられております。

つまり、ここでは世間的な倫理道徳として扱われる「悪=毒」とは違う意味で、「善人」「悪人」が定義されており、上記の法然上人の教えとも、

●『親鸞聖人御消息』37、『末灯抄』16
●『親鸞聖人御消息』4、『末灯抄』19
●『親鸞聖人御消息』2、『末灯抄』20

これらにおける親鸞聖人の教えとも、全く矛盾しないものであると思います。


以上
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