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以下、投稿です。



●思考停止と反論封じ


 信心決定したい、このこと一つでいろいろ活動してきました。

 しかし四半世紀かけても求道は何も変わらず、反って後退しているかのようです。今まで費やした時間、労力、お金を返せといっているわけではありません。結局自分で納得して出してきたものだから、文句を言う気もありません。

 過去は振り返っても戻ってきませんし、悔やんでも振り出しに帰ることは出来ません。だからこそ今から、今が大事だと思うようになりました。


〔1〕思考停止

 以前は何か疑問があるとT先生にお手紙を書いて、お聞きしていました。
 しかし、あるころから幹部以外は手紙を書くなと言われました。
 理由はお疲れでたくさんの手紙が読めないからということでしたが、会員は会についての苦情や疑問で幹部講師に都合が悪いことを先生に知らせない為と思っています。でもこれは腑に落ちないという問題、後生が苦になってどうしていいか分からないなどは誰にも聞けなくなりました。
 また座談会もなくなり、事実上、自分では何も考えなくなっていったのです。
 それでもさすがに教学講義は活動、財施をしているもののみしか参加できなくなり、組織批判をしない、それを通報する者のみ出られる旨の誓約書まで書かされたときには考えました。何の為に正本堂の財施を今までしてきたんだろうという虚無感にも似た考えを持ったのは私ひとりでしょうか?教学講義もあんなに広い会館の後
ろが開いていてはもったいないので、出たい人は無条件に参加させるのが、多くの財施をしてきた会員への「配慮」ではないですか?活動、財施で縛りをかけ、会員に序列をつけるのは親鸞聖人の教えに叶っているのでしょうか?
 更に支部も自分の意思で講師を選べるという最初の趣旨が、在住の県等に限定されたり、いくらでも会に管理しやすいように、講師に少しでもお金が入るように「配慮」がなされていきました。
 方針がころころ変わり、ついていけないものは聞法の敗残者とまで称されました。こんなことを仏教を求めるものが言っていいのでしょうか?屍を乗り越える?無駄死にしたくはありません。
 小杉の会館、アニメ、正本堂、と次から次へと金金金といわれ続けほとほと嫌になったところ、D計画が発案されました。何人かの人にこれはさすがに、布教活動の本筋から逸脱していないかと尋ねましたが、嫌なら出さなければいいと言われました。でも1円でも出すなら、聖人の教えを広めるものに出したいと私は思います。
地下道も、弁当屋も、風呂も、宿泊施設も月三回のために要りません。絵画も壷売って遠距離や海外から来られるお金のない方の交通費にしたほうがましです。空いたところには子どもたちの絵でも飾ればいい。


〔2〕反論封じ

 何かと言えば善知識のご恩、善知識はお疲れと言われ続けましたが、私たちが本当に感じなければならないのは、阿弥陀仏、親鸞聖人の恩が先ではありませんか?関東にいたとき、Nの反乱を目の当たりにし何事にも純粋には信じられなくなりました。御自分のことを善知識とT先生は始めから会員に呼ばせていたのですか?それなら今のNと何ら変わらないような気がします。
 善知識の能といふは「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と人を勧むべきばかりなりと御文章にあります。1人でも多くの方が信心決定してほしいと思ったら会員の声を聞いたり、会員が1座でも多いご縁を持てるような「配慮」がなされるべきではないでしょうか?そのための正本堂でしょう。宝のもち腐れではないです
か?
 どうして会員は自分たちの声や要望を上げないのでしょうか?言いなりなのでしょうか?私には家族はありますが、そのほか失うものはありません。でももう少し待ってみようと今は思います。
 本当にほかの皆さんは何も思わないのでしょうか?こんな風に思うのは仏縁がないせいでしょうか?
 反論封じはされていないと、マインドコントロールではないと渦中の人は思いたがりますが、それは冒頭に述べた時間労力お金を長年に渡って費やしたことも関係すると思いますが。
 何かお感じになることがあったら教えてください。気違いの戯言とお考えなら無視してください。冷静に私は考えていきます。多くの会員と同様アクションを起こすことは「無駄死」にすることと同じと考えていますから、無茶はしません。心配には及びません。

以上です。



●疑問に思うこと


 突然ですが、どうしても腑に落ちないことがあり、思い悩んでいます。
 以下、いくつか箇条書きにしてみますので、教えていただけることがあれば宜しくお願いします。


 六字の御名号の脇に親鸞と書かれているものは実存するのか?
 コピーで張り合わせたという説があります。聖人は御自分のお名前を礼拝させるような方だったのでしょうか。

 T先生の御著書のほとんどが大沼、伊藤両氏からの引用である事実についてどう考えればいいのか?
 ちなみに親鸞聖人は教行信証の中で必ずどなたのお言葉と示しておられます。兄弟子の唯心抄文意も書かれています。会報も新タイトルで発刊の予定がこの問題で白紙になったとも聞きます。

 D財施は本来の布教活動の趣旨と違うのではないか?
 会計報告がなされないのは、集まったお金の残りで、会の負債部分や、必要経費を補填しているのではないでしょうか?例えば、S病院の借金の利子、講師、職員の給与等。会員の減少で財政が苦しいので、いろいろな理由をつけて金策に走っているようにも感じられるのですが。

 新入生勧誘や社会人の集まりでなせS会と堂々と名乗らないのか?
 配慮とか方便とか言われますが、正しいみ教えなら親鸞聖人のお名前を出すのが筋ではないでしょうか?

 M氏とS支部長の不倫テープの存在について
 関東ばかりでなく、会員の多くが知るところとなっているのに、なぜ先生は放っておかれるどころか、いじめないで発言をされたのでしょうか?聖人は善鸞にどうされたでしょうか?


 以上思いつくまま書きましたが、これらがどうでもいいこと取るに足らないことで、私の求道心が純粋でなく、あれこれ余計なことを考えてしまうのでしょうか?何かご存知のことやより前向きになれることがございましたら教えてください。宜しくお願いします。



●疑問に思うことへの今の考え

〔1〕名号について
 ご本尊は宗教の要なのでこれは譲れません。
 どうして6字の脇に親鸞聖人のお名前を入れた御名号を会員に下附したのか?甚だ疑問です。今まで気に留めていなかったのですが、気になりだしたらおかしい気がします。お勤めの時、礼拝の時はなるべく6字だけ見ていますが、出来たら聖人のお名前のないものがいいです。


〔2〕御著書について
 昔からT先生の年代のお言葉にしては難解で、古い言い回しが多いのを疑問に思っていました。T先生の御著書の大部分が大沼、伊藤両先生の引用と知り納得しました。糸一筋でも他人の物に手を掛けてはならないと、いつも教えて頂いていたのでこれは納得いきません。たとえ両先生がご許可下さったにしても敬意を示して、引用である旨を私なら書きます。
 なぜ生きる 歎異抄を開く に関しては残念ながら腹にこたえる内容でなく失望しました。

〔3〕財施について
 聞法に関係あることにしか出したいとは思いません。月三回の為だけなのにドメインは要らないと思います。それときちんとした会計報告をしてほしいです。

〔4〕大学での勧誘について
 はっきり親鸞会を名乗ればいいと思います。なぜそんなに人集めにこだわるのでしょうか?

〔5〕先生のご子息について
 ほおって置かれるT先生の御心が全く分かりません。親鸞聖人を見習ってほしいです。

以上です。



●先生なぜですか?

 なぜ私の腹にこたえる説法をして下さらないのですか?
 もう限界です。このことは、ご自身が一番良く判っていらっしゃることでしょう。
 こんな形で先生の下を去らねばならない時が来るなんて思ってもいませんでした。本当に残念です。
 先生にお会い出来なければ知らされなかった事が、たくさんありました。これには感謝しております。
 しかしながら、対機説法が出来なくなられた今、富山に行く気にはなれません。いつからですか?
 原因を考えてみるに、2002年のご子息の不倫もみ消し事件からですか?うそをつくと人はそのうそを守るためにうそを重ねて、壊れていきます。それ以前でも、合成の御名号、大沼、伊藤両氏の著作を御自分のものに引用という断りもなく大量に使われたこと、更に華光時代の著作などの過去を、今頃になっていろいろあちこ
ちから、つつかれ、苦しくないですか?なぜ本当のことを言って、謝るべきことは謝れないのですか?
 そもそも親鸞会の存在意義はまた設立の原点はなんであったのでしょうか?人を集めることでしょうか?大きな建物をつくる事でしょうか?
 信心決定する方が1人でも現れることと親鸞聖人のみ教えが正しく説かれるようになることではないのでしょうか?かつてそうお聞きしました。
 このように不信感が高まっては先生の話は聞けません。残念ですが。うわさに惑わされたのでもなく、ただ説法がこたえない、これが会、そして先生から離れる理由です。
 今まで有難うございました。ただ、私は親鸞聖人の教えから死ぬまで離れません。誰がなんと言おうと。先生との縁が尽きただけです。もし弥陀のお浄土で再会できたならば、そのときこそ、本当のことを話してください。頭の上からものをいうように感じられたら済みませんが、今思っていることを書きました。ごきげんよう、
さようなら。


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COMMENTS

No title

親鸞会は、物を言いにくい雰囲気があるのは事実と思います。正常な感覚と思います。特に、後生の一大事に真剣に悩んでいる者にとっては、質問できる相手がいないというのは大変苦しいことです。私も、壊れそうなほど苦しみました。いや、壊れました。20代の全ての時間、体力、お金、精神力を使い果たしました。獲信のためには必要な道のりだったと最近思えるようになってきたようですが。(逆さに振っても何も出ない。これで、聞けなかったら死ぬ。とこまで行きました。もっと近道もあるのかもしれませんが、わかりません。私には必要だったんでしょう。ま、結果オーライです。やた!!・・・・・。話がずれました。スミマセン。

マジレスすると、いわゆる、真諦と俗諦の問題では。疑情がはれても、どうやって伝えようか常に悩んでいるのもあるが、めんどくさいことに首を突っ込みたくないやつが山盛りいる。つまり、相手は、仏様でなく人間。感覚の違いはある。

私は、会館宿泊組だったので、狭い風呂、広すぎてよく寝れねい環境は悩みの種でした。話し込みしたくても逃げられるし。(怒)・・・・。つい愚痴を。なので有難いっちゃーありがたい。絵も好きだし。しかし、確かに投資効率が悪いのではとも感じるし、・・・・。全財産はたいたとはいえ、ワタシのわがままを聞いてもらったせいで、会が崩壊しているようで…・。良心が・・・・。(あるのか?)ここはやはり、有効利用して、投資を回収、もとい、久ーしぶりに御縁もつか?ああ良心が疼く。(いいって。)ま、要は感覚の違いでは。
あと、ひょっとしたら、弥陀(名号)との付き合い方に原因がある気も。
下記、そういうこと思った原因の本です。意見ください。単に読み物としても面白いし、最悪、顕正の材料の宝庫になると思います。・・・(^^)ご意見をお伺いしたいです。よろしくです。
ジェームズ レッドフィールド著、聖なる予言 ・第十の予言・第十一の予言―シャンバラの秘密(角川文庫―角川文庫ソフィア)

伊藤氏、の著作「仏敵」に触れてみるのもいいと思います。新鮮な空気を感じました。

T先生のご説法は、救われて、改めてお聞きすると、凄まじいなと思います。ただ、以前は同じく聞けなくなっていました。自力がなにで、捨て物が何か分からない。これ以上信仰が進みそうにない。同じ話ばかりで、つまらない。私は、あのままでは、助からなかったと思います。信仰が進んださきの受け皿がない。信仰が進んだまじめな人ほど、周囲の理解が得られず、共感もされず、相談できず、誤解ばかりされ苦しむ。親鸞会の最大の問題点だと思います。

T先生のお話は、大勢の人に、1から仏法を伝えるという点では、とても優れていると思います。(上に立っているようで申し訳ありません。)学友部の新歓もです。ですが、その先の信仰が進んだ人と白兵戦のできる、人材が乏しい。(会報にも、説く者も説かれるものも愛想を尽かし、悲泣悶絶の成功ん尽きたどん底からの一大飛躍と書いてあったと記憶しています。)だから、せっかくご縁があっても離れてしまう。対機説法できる人材不足です。

大沼氏、伊藤氏の名前を出さないことに関しては、知識の人間的魅力で惹きつけ、仏縁としようと思われた可能性もあります。でも、知識とは言え、一人の人間です。十法衆生を担えるのは弥陀のみです。諸仏でもできません。(んな重いもの担えるかっ。)だとしたら、今のT先生の窮状もわかります。いくら何があっても沈まない身になってても、人間の部分は、周りの人にしがみつかれて、沈み沈みというわけです。(上記のジェームズ レッドフィールド氏の著作、に詳説)とするならば、T先生はご自分にしがみついてくる手を振り払い、突き放し、弥陀に向かわせる。求道者は、知識という板きれを手放し、弥陀の願心を聞く。これが、皆が幸せになる唯一の道では。同俗ともに、腐った脳みそを当てにせず、弥陀に随順するのみです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・。

花花さんへ

「その先の信仰が進んだ人と白兵戦のできる、人材が乏しい。」と書かれていますが、花花さんはどのように求道されたのですか?
その中でも沙汰のできる人を見つけられたのですか、それともそういう沙汰をしないまま、自問自答(?)のようにして進まれたのですか?
今後どうするか迷っています。

No title

現役会員さんへ 花花さんじゃなくてごめんね。でもまあきいてみて。
 信仰がすすんで、僕がもうTさんの話は聞けないと思って、富山に行かなくなったのは半年以上前だったけど。それから信心決定していると言ってたり、そう感じる人に、アポを取って、次から次へと会っていった。でも結局人じゃなくて阿弥陀仏のお力によって救われた。
 ただ、自分の気持ちを誰かに聞いて欲しくて、話し相手が欲しくて、話した直ぐの反応が欲しくて、自分が間違っていないかという、方向性が知りたくて。会いにいった。会では誰もまともに話せる人なんて皆無だったから。
 それぞれ、みな良い縁にはなったし、まるっきり無駄ではなかったと思う。
 Kさんには除名の真相話してもらったり、会に対しての怒りや愚痴を受けとめてもらえた。MさんにはTさんの学生時代の話。それからH寺への放火未遂の話。ホントかどうかは謎だけど、証拠が無いし。最後に、今自分が信心決定するのに一番しなければならないことをしたらいいと言われた。帰りに仏〇やほかの何冊か買って、帰った。〇〇問答も読んだ。ほか何人か、信心決定しているという人と会ったり、電話で話したりした。それぞれ、この人には、こなはなしって人によって使い分けてもいいのかなって、今になって思う。たくさん話せる人いるのって幸せだよね。一昔前なら考えられないけど。でも最後は弥陀。一向専念無量寿仏だった。
 自分にあう人見つかるまで探してみたら如何かな?
 そう「、仏〇は最後の方に信心の沙汰のような箇所があった。主人公をすでに信心決定した人たちが、自分達が通ってきた道を思いながら、獲信まで導く場面が印象的だった。やっぱり妙好人には体験から、教学は間違えることもあるかもしれないけど、方向性くらいは示せるんだと思った。体験自体凄いんだなって。
 このままでもどんどん時間が過ぎてくばかりだし、いつまで生きられるか分からないから、自分がやりたいと思ったこと思い切ってやってみたら?後悔しないようにね。

皆さん、コメント有難うございます

 こんなに自由に発言出来る場所を機会を与えて下さった管理人さんに感謝します。本当に有難うございます。それからこの文章は、もう一年位前に、信心決定する前に、誰にも言えなくて、その代わりに、文章にしておいたものです。王様の耳はロバの耳じゃないけど。穴掘って言う代わりにね。でもやっぱり人に言いたいですよね。ただ未信の内はどうも公表する気になれなくて。もういいかなってそのまま載せてもらいました。でもやはり、書いた時期が、少し古いのと、それと信前、信後で少し思いが変わったところがあるので、コメントさせて下さい。
 阿弥陀仏をたのんで、僕は信心決定出来ました。本当に不思議としか言えない体験でした。このことについては、また機会があったらお話します。
 今回は疑問に思ったことについて触れたいと思います。
 
御名号について
  阿弥陀仏と一体になったので、特にどうということはないのです。自分が思い描いていた阿弥陀仏も、浄土も、一念の体験でものの見事に崩れ去ったのですから。まあ木像、絵像より名号がいいかな。好みとして。でも親鸞という名前はいらない。だって阿弥陀仏に救われたから。
 管理人さんが、名前の無いものを用意して下さっているようですよ。
 お金が無い方は、聖人御直筆のものをどこかから、調達して、好みの大きさにコピーして、表具屋さんにもって行ったら、つくってもらえます。表具やさんが近くにない方、予算が無い方はコピーを板や厚紙に張って自分なりの手作りのものを、大切に安置されたらいいかと思います。

 伊藤氏、大沼氏からの大量の引用
 ものを書く人間として、最低だと思います。昔ならともかく、今は著作権があることをご存知ないわけないですよね。郷に入れば郷に従えです。蓮如上人やほかの方を持ち出さないで下さい。僕だって拙い文章だけど、自分の言葉でなんとか表現しようとしています。卒論の時もやかましく教授に指導されました。引用した時はその旨必ず記せと。なのに孫引きまであると指摘されていたのは悲しいことです。引用した旨はその文章を十分理解して、咀嚼したと仮に思ったとしても、自分のものでないから、しっかり引用だと記して、もしも、解釈に間違いがあったら、教えていただく良い機会だと僕は思うのですが。どなたか引用の定義について教えてください。伊藤氏、大沼氏の真意を、Tさんが全て汲み取っていたかという事も疑問です。完全な理解のうえの引用なら、今の若不生者の論争もおこらなかったかもしれません。でもここでは、ややこしくなるので、あえて触れない事にします。あちらでやっていただいたら十分です。

D財施について
 拡大は必要ですか?お金は有効に使ったらいいと思います。中国の方が、ブラジルの方が、日本でも、北海道や、九州の方がどんな思い出交通費を捻出していらっしゃるか、考えてみて下さい。年金暮らしの女性が、青春切符4枚使って、二晩野宿されて、富山まで来られたことを知った時、胸が潰れそうでした。なんとかいくらかでも助けてあげたいと思いましたが、その方は、因果の道理だからと言われました。悲しかったです。でも聴聞の旅費ならまだ納得できます。要らないものは要らないと声を上げたらいいのではないですか?
 要らないとは思うけど、皆が出すしとか、指摘されるからとか、教学講義に出られなくなるからとか、本末転倒ではないですか?賄賂を贈ったら阿弥陀様は助けて下さると思っているのですか?きっとお金に余裕があるんですね。出せないものはだせないもの。失業中、病気、低所得、年金暮らし、これらの人は救われないのでしょうか?好きで、喜んで出している方には、何も申し上げることはございません。

新勧
ご縁の本当に浅い方が仏教の初歩から学ぶ機会を与える場なら何も、こんなに問題にはならないと思います。お金や時間がかかり過ぎます。学生の本分は勉学です。それが妨げられない程度にやっていたらいいのではないですか?会とは切り離して、ボランティアみたいにして。学生を戦力、財施の頭数にする事自体かなり問題です。彼らの親御さんは勉強させる為に、大学に行かせているのですから。社会に出てから本格的にするかどうか決めたらいいのではと思います。自分からやりたい学生はどうぞご自由に。

不倫の目こぼし
 敢えてこういう表現にしました
 パワハラ、セクハラも問題ですが、良い大人でしょ。分別ついてる筈です。不倫は、二人はいい仲になっちゃって、周りが見えていない、これに尽きると思います。普通はもし、その事実が発覚する事で、回りに一人でも悲しんだり、不愉快に思ったり、困る人がいるという想像力があったら、絶対しません。思いは墓場までもって行きます。でも止まらないんでしょうね。思いだけでは。仮に片方が誘っても、もう一方が全くその気が無かったら、成立ししない事も確かです。片方だけでなく両方の責任です。
 もう一つ言われていない事で気になる事があります。、男性には子どもがいるはずです。彼、彼女が大人になって、その前でも一連の事情を知ったら、どう説明するのですか。親はこれから恋をして、家庭を持つ見本にならないといけないでしょう?親は子どもに責任があるのです。だから殆どの分別のある、子ども思いの母親は、子どものために自分の気持ちを抑えて、不倫には走りません。
 目こぼししたTさんも上記が理解できていないと推察されます。命がけで子どもにあるべき姿を教えないのは、怠慢ですか?甘やかしですか?誰にでも過ちはあるから、きちんと謝罪して一から、やり直せとなぜ背中が押せなかったのか疑問です。
きっと、Tさん自身も家族や子どもの存在を真の意味で大切にしてこなかったのだと思います。こんな当たり前のことが何故わからないのでしょうか?

一部訂正します

御直筆のものでなく、御直筆のコピーの誤りです。御直筆は簡単には調達できないでしょうし、無理すると窃盗の罪に問われます。訂正してお詫びします。

名無しさんへ

どうもありがとうございます。
僕も本当は考えうる限りの人と会って話してみたい気持ちがあります。ただ、僕の場合、本当に信仰進んでそう思っているのか自信がありません。
夜も眠れぬほど後生が気になるわけでもないし、何も手につかないほど不安なわけではありません。ただ単に手っ取り早そうな道を探してるのか、先生の話に飽きてるだけなんだろうか、と考えることもあります。
傍からみても普通の素直な学徒だと思われてるでしょうし、とても煩悶してるようには見えないでしょう。
親鸞会の場合、ヘタに動くと帰って来れない可能性もありますし、なかなか踏み出せません。もっと聞いてからでもいいのではないかという気持ちと、そうはいっても真剣になるのを待ってたら一生終わるかも知れない、という気持ちと半々です。ただ、名無しさんに言われたことは深く心にとめておきます。

現役会員さんへ

 人に話を聞くにしても、まず受け心が大切です。それがないと、信心決定した人の信心を試すようなことを言ったり、ちょっとしたことで揚げ足を取ったり大変失礼なことをして、悲しませます。信後の方は皆、一日も早く阿弥陀仏に救われて欲しいとそれだけ思って、話してくださるのにです。信後の方の信心を疑う事は阿弥陀仏をまた悲しませます。
 本当に、これ一つ聞かずにおられないと思ったときが、受け心が出来た時です。そんな時は誰に何と言われても、体が動いてしまっています。なんだかんだと言い訳をしているときは、困っていないのです。苦しんでいないのです。余裕があるのです。
 ただ、会いに行かなくても、電話しなくても(これらは正体が分かる可能性大なので)アドレスを調べて、チャットやメールをお願いしてもいいと思います。それなら性別・年齢も分からないし。誰かほかの架空の人物にだってなれます。バーチャルの世界なので、構わないと思います。あとでばれても信後の人はそうだったんだと笑い飛ばしてくれます。名乗れるようになったら、名乗ったらいいし。〇〇問答に質問してもいいし、こめんとでもOKです。
 いきなり、正体がばれるのが怖かったら、上記の方法などで試してみてください
でも秘密は守ってくれるとおもうけど 名前言ってもね、でも万が一って怖いんだよね。会は密告、チクリが公然と行われてるし、それがよい事だと本気で思ってる人が多いしね。僕もいろいろ酷い目にあってるからわからないでもないよ。大変だね。止める覚悟が出来たら怖いもの無し何だけど。それまでがね。好きなようにしたらいいよ。それしか出来ないんだからね。

すべての現役会員さんへ

 これだけ、いろいろ問題点上がっているのに、ましてや教えそのものにもおかしい点が、数々出てきているのに、何故、あと少し聞いてみる価値あるの?留まっているの?
 会員さんなら、50周年の説法聞いたでしょ?海外の会員さんがどんな思いで来られたか?日本の会員さんでも参加費〇万円を工面するのにどんなに大変だったか?それなのに呆けているのか、言っちゃ悪いが、説法はあの程度(白兵戦など程遠い)会食会の弁当代〇千円出しても、会長さんから一言も聞けず、ただ黙々と弁当食べてお仕舞い。会員さん馬鹿にされてませんか?これもお得意の深い御心ですか?金返せって怒る気持ちないの?
 会員さんには「いい人」多いよね。そこの人、これ褒め言葉じゃないんだよ。善人様が多いって事。でもさ、皆この「いい人」という心地よい言葉に自己陶酔してるんだよ。「いい人」が皆で安楽椅子に腰掛けて、傷を舐めあってるように、僕には思える。
 親鸞聖人の教えは悪人正機だよ。ここを間違っちゃいけない。人目ばかり気にして、悪く思われたくないからやってる活動で、何が知らされるの?出てくるのは、苦しみと愚痴だけでしょ。あと自己満足。
 信前の人は自分の進んだとこまでしか、わからないし、話せないから、その人が話し込んだり、指導する人の方が信仰進んでると結構きついよね。話してる人はいいけど、聞かされてる人は、かなり。話してる人に悪気が無いのも始末に負えないしね。だから、善知識でなくても、信後の人から聞いたほうが、教えてもらったほうが、いいんだけどな。精神にも破綻がきにくいんじゃないかな。矛盾がないから。
 サークルの延長、求道ごっこしてる善人様が阿弥陀仏に本気で救われたいなんて思うことあるのかなって思う。だって善人様なんだもの。救ってもらう必要なんかないよね。苦しみの根源は疑情だよ。この疑情すら問題にならないのは、自分の信仰の幼稚園以下なんだってことよーく考えてみてね。言ってる事わかんないよね。きっと。信心決定してなくても求道が始まった人なら理解できると思うけど。
 ところで、行き帰りの車、聴聞の後の信心の沙汰に何回、阿弥陀仏のお名前が出てくる?誰か数えて報告してよ?阿弥陀仏に向かわないで信心決定できんの?これとっても疑問なんだけど?一向専念無量寿仏でしょ?違うの?

No title

親鸞会のいい人=だまされやすい人=人をだます人=カルト

No title

現役会員さんへ。名無しさん同様、私もMさんからTさんの話聞きました。私の白道書いた人に、S会の思いぶつけました。あと、Mさんのつながりで、主に2人の人に御縁をいただきました。そこで知らされたのは、すべてを仏教にかけてきたつもりが、いい加減な欲怒り愚痴しかない姿でした。S会でも煩悩具足の教えは知っていましたが、実際受け止めてもらってはじめて理解できたとおみます。そして、疑情。弥陀の御心をろくに聞かず、自分で作り上げていた。疑情はそれまでも問題だったが、「それが」疑情とわかったのは、やはり、聞かせていただいたからと思います。名無しさんの言う通り、誰かと御縁持った方が良いと思います。真剣になんて、一生なりません。救われた人なら、弥陀にこき使われて、話してくれるでしょう。
ただ、「真」さんの書かれていることは、理解できる人に有用だと思う。
「真」さん、痛快、同感。よく思ってた。善人様なんてキライダ。信後の人は、弥陀の御心が分かった人、やっぱ、弥陀の御心知りたい人、を相手にしたい。聞く気がない人のご機嫌うかがいをしながら話すなんてまっぴらごめんだ。聞きたい人に話した方が、楽しいに決まっている。
ひょっとしたら、疑情が出るまで、いい導き方があるのかもしれないが…・。
S会の御法話だって、真面目に聞けば、疑情一つが問題だ、って言われているとわかりますよ。

以下は、真面目には見えないかもしれないが、とにかく、よく御法話の御縁を持っていた会員時代に、思っていたこと。

S会のほとんどの人が善人さま。信仰が自分より未熟な人が上司、だから、まともに話を聞くと、精神に破綻をきたす。善ができるできないが問題ではなく、疑情が問題。(だって、言われている善できないんだもの。)阿弥陀仏を信じるしか、救われる道はない。でも、疑いが、なくならない。一念で晴れると言われるが、晴れない。自力をふり捨ててとおっしゃるが、自力がわからん。弥陀の御心がわからん。どれだけ、御法話聞いてもわからん。なんぼご著書拝読してもわからん。あ~~。どっかに、わかるように教えてくださる方は、おられないのか・・・。

この苦しみのわかる人なら、聞かれた方がいいし、
この苦しみのわかる、信後の人は、できるはんいで、できるだけのことはしてくれると思いますよ。

・・・とにかく、この掲示板にでも聞ける範囲で、聞いてみたらいかがですか?真剣にならないんですが・・・?とか。サッパリ、悩まないんですが・・・?とか・・・。なんかリアクションが来ると思いますよ。


投稿者さん。
疑問にされていることへ、私の感想を述べます。

引用文に、引用先が無いのはやはり問題だと思います。ご著書のうちでも、特に魅力を感じ、書かれた方は善知識だと思っていたところが多いので、ショックです。
「光に向かって」も大沼氏がもとであり、しかも、大沼氏が書かれた本を読みますと、同じ話でも、かなり印象が違っていたりします。大沼氏の話ではじめて腑に落ちたり。「光に向かって」とS会でなされていることがあまりにも異なっている原因の一つは、ここかと思った。(根本は、無明の闇だろうが・・。)多感な学生時代の精神的支柱だった。この指針を基に、一般の本を選定し、読んでいった過程もある。そういう意味では、「光に向って」を知らせていただいた恩はある。願わくは、もっと実践してほしい。実践すれば栄える。なかなか実践できないわけは、自身の疑情に一因ありと知ってほしい。
これでは、どこまでが、T先生の本心か、分からなくなってしまいます。特に、三願の真仮や自力の姿など、善知識としての冴えが、文責不明では、誰に真仮の分際をお伺いすればいいのかまで、分からなくなってしまいます。伊藤氏や、大沼氏の切れ味鋭い名文に魅力を感じるのは同感ですが、
T先生はもともと、文章力がおありなようですし、文責を明らかにされた方が、いらぬ誤解を招かずに済むと思います。

財施。正直、食費削って、買いたいものも買わず出しているんだから、もっと大事に使ってほしい。大事に使ってくれる、仏教のために使ってくれると思って出したのに、いい加減な使い方をされているようで、泣くに泣けない。お金の勉強も必要だ。
びんぼー人は助からないのか、仏教も所詮金次第かとやさぐれたことがあった。経学講義の受講資格で脅しをかけられている気がして、世の中金だと初めて思った。自力が分からず、御法話のみが明かりで、前回の御法話から首を長くして待っていて、第2講堂。情けなかった。疑情が晴れねば、流転する。前に座った方が、解決の手がかりがつかめそうだ、でも、座れない。人生の目的も金次第。
文字通り、地獄の沙汰も金次第。と思った。
財施は、喜捨。これで喜捨になっているのだろうか。疑問だった。雑毒では、あとで毒がまわって苦しむだけだ。

新歓
学生を戦力に使うのは間違いだ。特にああいう、旧態依然とした会社組織の営業要員的には。学生に傷を残す。保護されるべき学生時代にこき使ってどうする。いまどきまともな会社でもああいうやり方はしないと思う。単純に人的資源の活かし方という方法論からしておかしい。社会人と違ってNOと言いにくいだろうし。あれが社会だと思うと、社会が怖くなる。私は、もっと聴聞がしたかったのに、NOと言えず、お誘いをした。もっと学生を大事にしていたら、こんなに崩壊したり、問題にされたりしなかっただろうに。
お金。学生に財施を強く勧めるのは、非常識だ。数百円なら分かるが。自活している社会人ではないのだ。
仏教精神からすれば、法施に徹すればよい。財は後から湧くということだろうが。経営的にも、学生は、教えを理解することに努めて、財施は社会人になってからのほうが、S会の経営的にもメリットは、大きいと思う。(七つの習慣。を読まれたし。金の卵を産む鶏とその世話の話がのっている。金の卵をとる、鳥の世話をするバランスが大事。)
学生部は、規模が大きすぎる。講師や先輩が、面倒を見切れる限界を超して、勧誘するため定着しない。光に向かっての、畑を荒らすサルだ。害が大きく易が少ない。(勧誘人数が少ないと、自分がご縁があったか心配だが。)面倒見切れる限界を超すと、求道ではなく、先輩や上司の愛情争いになってしまう。これは、今の親鸞会の悪しき習慣を形成している一因と思われる。

不倫について。
誰でも過ちはある。だが、誓約書に違反したなら、謝れ。んな対応では、組織が崩壊して当然だ、組織論について無知か、泣いてバショクを切る愛情に乏しいか。いずれにしても、ご家族を大事にされていないのは明白だ。

花花さんへ

ご返信どうもありがとうございました。他の方々もどうもありがとうございました。(直接僕ではないかもしれないけど)
多少の疑問、不満を言ったことはあるのですが、僕は学徒暦も短いので、教えがわかってない、聴聞不足と言われることがよくありました。
実際そうなのかもしれないけど、それを言われ続けると本音の部分は誰にも何も言いたくなくなります。
獲信した人に話を聞くのはまったく教えのわかってない人というレッテルを貼られそうで、口に出さないようにしていました。

「私の白道」の方のように精一杯求道してから外に目が向くのと違い、僕のようにまだ信仰の幼稚園の恐れのある状態で会を飛び出ても、宙ぶらりんになってしまうのではないかと思って留まっているという感じです。
それでも、うわさになっている本を入手して読んでみたりしました。これを読めば、あの人に聞けば、あそこに行ってみたら、という気持ちがなくなりません。
結局は特定の「何々」ではないのだろう、と思うのですが、それしか思いつかないです。
とにかく出来る範囲でできることをして行きたいと思います。
辛い、苦しいという気持ちしかありませんが、がんばって求め続けたいと思います。

現役会員さん 頑張ってください

「教えがわかってない、聴聞不足と言われる」
お気持ちよく分かりますよ。私も何も言えなかったから。今になって思うと分かっていない人ほどこういう事を言いますよ。本当に分かっている人は、ようこそ、よく聞かれたと、その聞法心を喜ばれて教えてくだされるはずです。

信仰の幼稚園でない人ってどんな人?
俺はよく分かっている、長年聞いてよく知っている、こうしてこう求めていれば大丈夫だ、あいつよりかは真面目に求めている、あんなやつらは俺と違って地獄行きだ←これ程恐ろしい自惚れ、驕慢、安楽椅子はないですよ。

「これを読めば、あの人に聞けば、あそこに行ってみたら、という気持ちがなくなりません。」
尊い聞法心ではありませんか。思いつく限りやってみられたらよろしいですよ。信心頂くのに聞法歴は関係ないのですから。求める人を阿弥陀仏は押し出してくださいますから。

頑張ってくださいね

現役会員さん頑張ってくださいね。
それから、この掲示板、ありがとうございます。
いい感じです。
それから、投稿者の方々、ステキです。
なんか、勝手に私の主観ですが、部室で、先輩がチームプレイで、的確にうごいているような感じです。心強くて、気持ちがいいです。(失礼な言い方でしたらごめんなさい。)
とにかく、ありがとうございます。

如来大悲の恩徳

 会の人に聞きたいんですけど、善知識に対しての御恩は感じないの?ってよく言われますが、皆さんはは善知識からどんな御恩を感じているのでしょうか?具体的に教えて欲しいのですが?御恩の中身をよくわかって、感じるように指導して下さってるのですよね?
 確かに僕も、御説法でいろいろ教えていただきました。それこそ何十年も。でもいくら真剣に聞いても疑情が晴れなくて、会をやめて、善知識だのみが完全になくなったとき、阿弥陀仏に救われました。阿弥陀仏に対しての御恩は溢れ出てきます。身を粉にしてもと思います。
 十代で会に入る前から信心決定したいと求道が始まっていました。驚きがたったのは救われるちょっと前でしたが。何故求道が始まって、苦しんでいる僕をを善知識は何十年も放って置かれたのでしょうか?疑問を通り越して憤りさえ感じます。
 信心決定してから、僕は、個人的にお話させて頂いています。真剣に求めていらっしゃる方が尊く、大切に思えます。何とか阿弥陀仏に向かって欲しいと、チーム「名無し」を組んで協力して、もてる力を出し合って、相談して、その方が信心決定出来るように、方向を示しています。花・花さんの仰るとおりの事を実際に、バーチャルでなく、行っているのです。(勝手にチームメンバーにされたと怒らないでね。)
 その方も全く知らない方でしたのに、メールで何回もやり取りするうちに、やがて電話で話すようになり、今度対面します。すでに、チームの別の方には遠い中、会いに行かれました
 本当にお互い少しずつ歩み寄って、信頼関係を構築していきました。今では、何でも話が出来て、心地よい関係です。チームは会でなく、フレキシブルで、相手の方が、この人にも聞きたいと言われた方を、紹介する形です。個人のつながりです。上下関係も利害関係もありません。弁護士とかの事務所のようです。資格を持っている人の集まりというような。
 話を戻しますが、僕が本当に、助けて欲しい時Tさんは直接、何もしてはくれませんでした。死にたいくらい悩んでいたときも、手紙も書くなでした。もちろん、電話も面会も叶いません。だってTさんは偉大なる善知識で、大変なお疲れだから、下々の助けて欲しくても、お金は出さない会員など鼻にもかけてもらえないのですから。、世間の友達が良くしてくれてかろうじて自殺は思いとどまりました。そんなことがあって、一切お話は聞きに行かなくなりました。
 善知識の能といふは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり」『御文章』五重の義より
 五重の義に書いてあることを、Tさんが忠実にされているとは到底思えません。僕だって、何も出来ないと毎日、泣きながら、相手の後生を念じ、少しでも心を開いていただこうと、コンタクトをとっているのに・・・・・。なぜ会員さんの輪の中に入っていかれないのですか?自分専用の玄関や通路など作らせるのですか?なぜ、僕の信仰が疑情を晴らすのに必死なことが分かていながら放っておかれたのですか?何十年もほったらかしですよ。
 対機説法できるなら、僕のほかにも無明に苦しんでいる人を見つけて、呼んで対面で話されたことがありますか?初期はあったのかも知れませんね。確かにそんな人と話したら、凄く疲れますよ。それこそ白兵戦ですから。でもそれこそが善知識の、役目なのではないですか?一人でも多くの方に信心決定してもらうのが。それとも僕だけが放っておかれたのでしょうか?
 信心決定した人も、信仰がすすんだ人も、どこに隠れているんだか、誰一人として会えず、話も出来ず、長い間、僕は苦しまなければなりませんでした。今、苦しんでいる人を世間の医者でもそのままに出来ません。ましてや、無始より苦しんできた、無明を晴らしたいとう人を無視し続けられる神経が、理解できません。こんな事をされても、御恩を感じろといえますか?
 御説法を聞かせてくださって、いろいろ教えてくださった事は感謝します。でも作為的ではないと仮に言われても、不作為で放って置かれた事に対しては、何故かを、お会いして、教えて欲しいくらいです。そんなことをしても、済んでしまった事は戻りません。
 どうか、皆さん、僕のような時間の無駄はやめてください。もっと早く信心決定出来ていたら、多分日本にはいなかったでしょう。世界中に阿弥陀仏の事をお伝えしていたでしょう。でも遅すぎました。皆さんは一日も早く阿弥陀仏の御恩を感じる身になって下さい。
 

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