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投稿(§2 極楽浄土に生まれるためのシステム)

続きです

§2 極楽浄土に生まれるためのシステム


 前回の話で、以下のことが明かになった。

1、「仏教の目的」は「成仏」である。
2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
  「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。


 ところで「浄土真宗」の教えは、最終的には、「成仏」を目指すが、直接的には、極楽浄土に「往生」することを目指すので、

★何によって極楽浄土に生まれるか?

が大事になる。

 そして、これを明かにしたのが、

★「阿弥陀仏の十八願文」なのである。(注1)



 その内容は、わかりやすい言葉で言えば、

★阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れ、
 念仏申す心のおき、たとえ何回でも念仏申した人を、
 間違いなく極楽浄土に生まれさせよう。
 それができないなら、私は仏にならない!!

という内容で、(注2)

阿弥陀仏がこのマニフェストに基づいてとてつもない実践をし、
その結果、このマニフェストが実現し、(注3)(注4)
衆生が極楽浄土に往生させるためのシステムを完成されているから、

私逹が、そのシステムに乗ずることによって、間違いなく極楽浄土に往生することができます。

 したがって、「極楽浄土に生まれる」こと抜きで、本願文解釈をしては絶対にならない。



【今日のまとめ】

1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1『無量寿経』所説の十八願文は以下の通り。

●たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

なお、wikiArcでは以下のように現代語訳されている。

●わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。


注2 十八願の「若不生者」が「極楽浄土へ生まれる」ことを意味しているのは、言語の構造上、単語の格関係が明確であるサンスクリット文を見ても明々白々である。

●世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。
 ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。

『無量寿経』十八願に対応するサンスクリット和訳(親鸞会教義の相対化21より)


★若不生者不取正覚(極楽浄土へ往生)
→彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら

 また、サンスクリットが読めなくても、親鸞聖人の解釈をきちんと知っているならば、解釈を間違うことはない。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』


注3 「本願」は既に実現しているから「本願」である。

「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されている。
「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になる。


 このことを法然上人は以下のように述べておられる。

●本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。


また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答が設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されている。


●問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。
 また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上



「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけであるが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっている。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのである。



 このことを善導大師は、

●もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。

とお説きになられている。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、


 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かである。



注4 「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈するのは、「本願」が何であるかを全く理解してないことに起因する誤りである。

参照 「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-11.html
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