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質疑応答174

【質問】


 最近、親鸞会では、18願は「十方衆生を必ず信楽にしてみせる」という約束であり、当益の意味は全くない。「信楽の者を必ず浄土往生させる」という約束は11願である、と教えられています。
 ところが、前回の教学講義では、「易往而無人」のお言葉を出されて、信楽になれば往生は易いけど、信楽になる人が少ないから無人なのだと教えて頂きました。
 必ず信楽になれるのならば、信楽になる人が少ないというのは矛盾に聞こえますが、清森先生はどのようにお考えでしょうか。



【回答】


 結論から言えば、本願に対する解釈が間違っていると思います。

 浄土往生が11願の働きによって易いのであれば、信楽を獲るのも18願の働きによって易いはずです。

 信楽を獲ることが難しいから、信楽を獲させることに命を懸けられた、というならば、11願で浄土往生に命を懸けられたのは何故なのか?

 この程度のことは、多くの会員さんも気づいておられると思います。



 何回も紹介していますが、親鸞聖人は「若不生者」の「生」を、信楽をえた人が、浄土に生まれることだと解釈されています。


●「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。(尊号真像銘文)

●「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。(唯信鈔文意)
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