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質疑応答29

【質問】


 田中氏の挙げられた「尊号真像銘文」には「若不生者不取正覚」の御説明として親鸞聖人は次のようにおっしゃっておられます。


「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり。


 田中氏は「至心信楽をえたるひと」と「わが浄土にもし生れずは」を別々にとらえ、「至心信楽」はこの御文の前に御説明なされたこと、「若不生者」の御説明は「わが浄土にもし生れずは」だけととらえておられるようです。

 ある意味それは確かにその通りではありますが、しかしながら親鸞聖人のおっしゃっておられるのは「このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり」であって断じて途中ブツ切りにして領解すべきではありません。

 ですから、親鸞聖人は重ねて「この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり」と、おっしゃっておられるのです。

「真実信楽をひとすぢにとる」ことがすなわち不体失往生ですから、「この本願」すなわち若不生者のちかいは、不体失往生と密接不離な関係があることがわかります。

 これらはすべて「若不生者不取正覚」の御説明の段におっしゃられているわけですから、バラバラに分けてその一部のみをとって解釈するは親鸞聖人の御心に反するものです。



【回答】


 田中さんの書かれていることと同じになってしまいますが、密接不離な関係があるということは、イコールでは無いということです。

 田中さんは、信楽に生まれた者のみが極楽浄土に生まれられる、と解釈しておられますので、特に問題ないように思います。

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