スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

六字の呼び声 (その3)

 以下は、親鸞会元講師部員である嶋田久義さんからの投稿です。
 昨日に引き続きの内容です。


         *         *         *


追伸


 不思議なご縁により「六字の呼び声」をお読み頂きまして有難うございました。
 驚かれた方、こんなことだったのかーと気付かれた方、不審に思われた方、皆さん感想はそれぞれと思います。
 私の知って頂きたいことは、阿弥陀仏は常に貴方に南无阿弥陀仏を与えよう、真実信心を受け取らせようと十劫の昔から善巧方便しておられます。
 親となり、先生となり、友となりーーー貴方の周りの全てそうなのですが、気付かないだけなのです。
 ただ気をつけて頂きたいことは、私に阿弥陀様は、書きましたように善巧方便してお助け下さいましたが、それは人それぞれ違うということです。機ごと機ごとにお導き下さるということです。
 聴聞を続けて何年、何十年かかる方もあれば、数回の聴聞で信楽開発される方もあります。また説法中の方も、仕事中に、食事中、入浴中、勤行中の場合もあります。
 過去世の仏縁、今生の聞き方もまちまちだからでありますが、救う阿弥陀様は全力あげて早く分かってくれと、呼びづめであることだけは忘れないで下さい。
 そこで知らされてきたことをもう少しお伝えして、皆さんに、南无阿弥陀仏の主に、仏凡一体の身になって頂きたいと思います。



○仏法は聴聞に極まる「仏願の生起本末を聞く」


 親鸞聖人は、法然上人より阿弥陀仏の18願のみ心を聴聞されて救い摂られ、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」の身となられました。
 その18願を聞きながらまだ疑いの中にいて、19願(雑行)20願(雑修)の心で助かろうとしている380余人の法友に「定散の自心に迷うて金剛の真心に昏し」と見抜かれ、気付いて下さいと三大諍論をなされのです。

 蓮如上人も「雑行、雑修、自力の心を振り捨てて後生助けたまえと弥陀たのめ」と強調され、「南無阿弥陀仏のいわれを聞け」「南无阿弥陀仏のすがたを心得よ」と教えられています。
 ではどう心得るのか、その「六字の心」「仏願の生起本末」を御文章に

「阿弥陀如来の仰せられけるようは、末代の凡夫、罪業の我等たらん者、罪はいかほど深くとも(生起)我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし(本末)」と仰せられたり」4帖目9通

とハッキリとお示しになられています。一生涯これ一つを教えて行かれたのです。
「どんな悪人も、そのままわれに任せよ、必ず救う」

 信心決定とは、このみ心に貫かれ、疑心なく、明信仏智、信順無疑、仰せにハイとなったことでした。

「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候間、信を獲べきなり。ただ仏法は聴聞に極まることなり」御一代記聞書

 妙好人や獲信した人は皆、この聴聞の一本道、仏願の生起本末を聞いて救われています。



 その18願、生起本末を聴聞すれば「悪人そのままで救う」と言われます。しかし自分はそんな悪人だろうかと最初は疑います。道徳倫理程度で見ているからです。
 だが聴聞すれば生起、誰の為の、どんな者のための本願なのか、聞くほど照らされ見せられてくる。私は煩悩具足の凡夫であるなーと。

 毎日が、俺が俺がの我執丸出しの浅ましい生活でないですか。(黒い心)
 しかし「本当にこのままだろうか」と疑い、遠慮し、もっと欲も抑え、腹も立てず、愚痴言わず感謝の日暮しにならねば助けて頂けないのではないだろうかと、この心を直しにかかりはしませんか。
 極悪人と見抜かれての本願、これがお目当てとは思えず、善人に成ろう、ましな人間になろう、善いことすれば助けて下されるだろう、やれば出来るだろうと思っていませんか。
 これは阿弥陀様仏のみ心に反しているから、そんな心でやる善を雑行と嫌われるのです。(19願、自力の信心)

 なぜ雑行と嫌うのか。阿弥陀様のみ心は、悪人が好きではないが、悪のし放題で六道輪廻して苦しむ私を、哀れだなー、可愛そうだ、見てはおられぬ、助けてやりたいのお慈悲で、仏の座から降りて、修行のし直しをなされて極悪人の私を助ける南无阿弥陀仏になって下さったのです。

 大慈悲心はどうして起こされたのか、自分の正体を知らないから善人になったならば助けて頂ける、と大間違いをしているのです。
 だからやる善を雑行と言われるのです。真実の業と言わないのです。

 私のする善は虚仮雑毒の善だと親鸞聖人は教えられます。
 本当に善が出来るでしょうか。自分の得や利を捨てて親切を本気でやっているでしょうか。私には本心から出来ません。最後は我が身が可愛いのです。親が大事、妻が大事、子供が大事の腹底は自分大事だからです。

 善知識の厳しい真実の自己のご説法を重ねて聞く度に、出来る奴でない、直る根性でないことが分かってきます。生起を知れよ、値打ちを知れよと重ねて説かれるからです。

 善人になって助けて頂こうと思っていたが自惚れであり、浅ましい落第者と段々と分かってきます。
 自分は十悪、五逆、謗法で無常の命ではないかと知れてくると、こんな奴が今死んだらと後生はどうなるか、ただ事ではない、一大事だなとと不安になってくるのです。

 その私に、「そのまま任せよー、必ず救う」と南無阿弥陀仏と呼んで下さっているぞと善知識は説いて下されるのが本末です。
 南无阿弥陀仏になって下されたみ心、五兆の願行のご苦労、十劫の昔から、呼んで呼んで待ち通しのやるせなきみ心、助ける弥陀が手を下げ、頭下げてどうか任せておくれ、助けさせておくれ、信じてくれると信じて下さる真実のみ心を聞かせて頂くのです。

 しかし、この心が分からない。受け取れない。計らうのです。
 そこで自分の方から阿弥陀仏にお願いして助けて頂こうとかかるのです。諸善と比べられない功徳の念仏称えたり、朝晩のお勤めを励んだり、阿弥陀様のことを一心に念じて何とかなりたいとしていませんか。
 これを力として、あてにして助かろうとするから雑修と言われるのです。(20願、自力の信心)

 それも日によって心が変わり安心できない。
 お勤めをサボったりすると、阿弥陀様に見捨てられるように感じて、これではなーと不安になっとことはありませんか。
 すると余計に真剣になろう、真面目になろうと反省して、信じようともがく。しかし念仏も、信ずる心も続かない。Sさんも出来ぬと泣かれたのはここでした。


「それは自力だ、その心を捨てて、弥陀に任せよ」と聞かせて頂くが、ではどう信じたら、どう任せたら、どうたのんだらと計らい、疑い、信心を掴もうとするのです。安心したい、楽になりたい、喜びたいと自分の心ばかりこね回し、苦心して悩み苦しみ、遂に阿弥陀様さえも恨むのです。こんなに私が苦しんでいるのにどうして助けて下さらないのですか、どこ向いておられるのかとまで言い出すのです。
 これが宿善の人の心です。調熟の光明のお育てなのです。
 これ皆、阿弥陀様の十劫以来の想像を絶する種々のお育てなのですが、本人は分からないから、「私は宿善が薄いから助からないのだ」などと言ったりするのです。とんでもないことなのです。
「まことに宿善まかせとはいいながら」と蓮如上人が言われる深いみ心なのです。

 そのにっちも、さっちもならない、助かる縁の尽きたどん底に「南無の心」「任せよー」「はよ来いー」「そのままー」が届いた一念に、ああーいらざることをしておりましたー(雑行、雑修、自力の心が振り廃る)と謝り果てて南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏「遠く宿縁を慶べ」の親鸞聖人と一味の信とならせて頂くのです。(18願、他力廻向の信心)
「南無とは本願招喚の勅命なり」と親鸞聖人は阿弥陀様の直の呼び声、有無を言わせぬ仰せ、ハイとなってしまう、信ぜずにおれない呼び声であるとおっしゃています。
 その南無の心に貫かれた一念で疑い心、自力心は無くなってしまいます。



 世界一の名医が「貴方はガンでありしかも末期です。このままにしておれば命はありません。私に任せて下さい、このガンを必ず治してみせます。治せます」と言ったとします。ところが患者は「私がガン、末期?。先生脅かさないで下さいよ。どこも痛くないし、何を食べても美味しいし、よく眠れます。仕事もあるから入院、手術など、どうして出来ますか。それほど言われるなら、健康食品でも食べて、運動もするようにしますよ」と返事しているようなものです。
 病気(悪業煩悩、後生の一大事)の恐ろしさの自覚なく、名医の言葉を信ぜず(疑い)、良いと言われる健康食品(諸善)でなんとかなると勝手に思っている愚かな患者と同じです。
 この患者お見て名医は何と思うでしょうか。
 信じて、任せてくれないことを嘆き、患者の末路が分かるから悲しまれるのです。
 愚かな患者は私達であり、名医は阿弥陀様です。
 十劫以来、御立ちずくめ、浄土で待っておれず迎えに来られたお姿が、ご木像、ご絵像のやるせない大悲のお姿なのです。

 今、阿弥陀様は何と思っておられるでしょうか。
 疑い、逃げ回り、謗っていることを悲しんでおられます。

「八つとせ 益にもたたぬ雑行や 雑修、自力を捨てもせで
 弥陀仏泣かせていたことは ほんに今まで知らなんだ」


 私も、三願転入だから、19願の諸善をやれば宿善が厚くなってゆく、私は活動に頑張っているから宿善が厚い、あの人よりも、そのうちに開発、などと、自分で積み上げ、出来る筈だと考えていたこともあったが、全く阿弥陀様のご苦労を知らず、とんでもない大間違いでありました。
 宿善とは阿弥陀仏が何とか助けんと念じ続け、自分の値打ち、お目当ての機を知らせ、逃げ続け、疑い続け、謗る自力の心、仏敵も浮かび上がらせ、ご照育下された十劫以来のご苦労であり宿縁、仏縁でありました。



 三願建立、三願転入のみ心は、19願からさあやるぞでなく、18願の救いを聞いても、疑っている19願の人や、20願の人も皆、調機誘引、照育して最後に必ず18願の約束通り、南无阿弥陀仏の大功徳を廻向して往生成仏させてみせようのお誓いと頂きます。
 18願の仏正意を聴聞することで19願、20願の自力心を一念で破って頂けるみ教えなのです。
 三願転入は阿弥陀様の調熟の光明のお育てで通らされる心の道、救われて知らされる心の道と思います。やれば助かると説く教えではありません。
 言葉の意味を間違えては、大変なことになってくるのです。



 高森先生は「顕正」124Pに「然るに、わが浄土真宗は、このような19願、20願に当る浄土宗とは違って、18願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意をを弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 喩えば、虎の手本を見せて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎でなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵が描けるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因ともなるものもあろうが、たゆまずアキラメず、信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真実を諦得出来るようになるのである。
 未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に、教家は常に虎の説法をしなければならないのである」

 18願のみを徹底して説けよ、聞けよ、50年前はそう説かれていたのです。三願転入の一文字もありません。

・「廃立とは、廃とは捨てもの、立は拾いもの、ということで雑行雑修自力は、すてものであり、廻向せられるものは名号六字である。」128P

・「自力計度の心は一念開発、信心決定の一念に南無廻向の機によってなくなるが、悪業煩悩は臨終夕べの一念までなくならない。」66P

自力計度の心(暗い心)疑情
南無廻向の心(白い心)
悪業煩悩  (黒い心)衆生性得の機


 南無廻向の機とは何か、皆さんこれまで知っておられましたか。最も大事なことですが知る方は少ないと思います。
「六字御名号のご本尊」にして朝夕礼拝しておりながら六字の心を正しく知らない。「無上甚深の功徳利益の広大なることその極まりもなきものなり」と言いながら、何が甚深か広大か分からない。
 この大慈悲心を抜きに聞いているから、いつまでたってもハッキリしないのです。



○高森先生は「会報」4集32P

『古来、教行信証は三重廃立を開顕せられたものだと言われている。事実、三重廃立以外に「教行信証」の教えはないのである。まさに聖人が一生の心血を注いで開顕したもうた三重廃立の教えこそ釈迦、諸仏、菩薩の出世本懐である。「一向専念無量寿仏」を鮮明に徹底させ、濁流滔滔たる現代人を救う最高の指針ある。これこそ聖人の精神であり、源流遠く大聖釈尊の真実を伝うるものである。
 我々が信心決定して絶対の幸福を獲得するのには必ず、この「捨てもの」と「拾いもの」とを明らかに理解して、捨てるべきものは速やかにこれを捨て、拾うべきものは速やかにこれをとらなければ、絶対に救われることはないということである。』


 こんなにハッキリと正しく書かれています。


 親鸞聖人は「教行信証」の前5巻に18願のみ心、救いを詳しく著され、最後1巻の「化身土巻」に18願のみ心を疑い、19願、20願を信じる人の心を著されてその心得違いを正されています。

 また、高森先生はこうも言われました。
『「教行信証」の前5巻には18願、信後のことが書かれてあり、最後の1巻「化身土」巻に信前の19願、20願のことが書かれてある。なぜ親鸞聖人は信後のことを先に多く書かれたのか、よくよく考えると、こう教えることが私達が信心決定できるから、親鸞聖人はこのように教えられらのです。だからこのように説かねばならない」

 18願の徹底の大切さを教えられた。聴聞の長い人は聞いて知っていますね。



 高森先生は「会報」5集59P

『一体、どこに19願相応の修行をしている道俗が真宗に見当たるのか。どこも20願相応の念仏をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く「あれはまだ19願だ」「あれは20願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相応した行がともなわない人ばかりだから本当の19願、20願の行者は真宗の道俗には、いないと言ってよいのだ』
 これも断言して書かれています。その通りです。19願や20願は落第です。

「いないと言ってもよいのだ」皆さんや、私のことですよ。実行できない、と言われていることを良く覚えて続きをお読み下さい。



 しかし今はどうですか。どう説かれていますか。
 35周年あたり(15年前)から、前と変わってきた。
 三願転入が強調され出した。


「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。我々に19願、20願はいらぬ、18願だけでいいと公然と言う学者もいるが、皆、三願転入を根基として書かれている。御和讃もそうだ。十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19願20願を通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」
(平成18年4月30日の教学講義で聞きました)

「化身土巻」の三願転入を、これが親鸞聖人の教えの全てように言われ、従仮入真と強調して「19願、20願は絶対に通らなけらばならない獲信の道程」と言われています。
 まず19願の諸善から真剣にやらねば信仰は進まない。
 親鸞会の活動(人集め、お金集め等)を強く勧められます。
 前に教えられたことと同じでしょうか、よく読み比べてみて下さい。
 明らかに違っていますね。
 だから「会報」が廃版になった原因かなと思いましたが、違っているでしょか。



○どうしてこうなったのか。

 大沼氏の盗作をしているうちに、反対に心を盗まれてしまったのでしょうか。
 16冊を読んでそう思えてきましたが、無理な邪推でしょうか。
 高森先生のお話、書かれたものの元は大沼氏からの引用、盗作が余りにも多いのに驚きます。
「求道の縦、横の線、卒業がある、決勝点がある」も一緒でした。

「深い御心です」など言っている人は何も知らない人です。


・大沼氏「広大難思の大慶喜」241P
『この三願転入をせず、第18願だけでよいと言う人は、二尊や聖人より偉い人なのです。阿弥陀さまは、いらない願を建てられたか、釈尊は不要な説法をされたのか、聖人自らの体験が三願転入であるが、他の道を通って聖人と同じ報土に往生ができるでしょうか』

・大沼氏「八万の法蔵は聞の一字に摂る」113P
『「化土往生できるか」なんて言えば「われわれのような者は自力の修行が出来ないから、化土に行かれるものか。化土へ行くのは、自力の修行をした人が行くのだ」と言う人がいるだろうが、あなたは自力が出来るか、出来ぬかやってみたことがありますか。ーーーー
まだあなたは、19願の入り口ですよ』

・大沼氏「昭和の歎異鈔」322P
『たとえば、買い物の荷物を子供が持つと言ったとき、持てないことを承知の上で親が荷物の下に手をすけ、子供は真っ赤な顔をしてーーーー』
『自力一杯19願をやって出来ないと知らされた者が次の20願へ行く。階段です』と譬えられています。



 これ皆、高森先生からも聞いた内容ですね。
 まだまだ、こんなものでありません。いかに影響が大きいか、分かってこられましたか。
 だから次のような発言になってゆくのです。



 高森先生は「雑行、雑修、自力の心を振り捨てる」をこう言われました。

「捨てるべき雑行がどんなものか分からねば捨てられないから、雑行を知らねば成らない。知るためにはやらねばならない。子供が重い荷物を持てると自惚れていたら、持たせないと持てたのに、の不満はなくならない。持たせて始めて無理と分かる。納得する、文句言わない。親にまかせる」

 この話に納得して何十年も諸善(活動)をして来ましたが、この話こそ大問題でした。
 自力の善根功徳を積み上げて、これで後生の一大事が助かるか無理かやってみようということになります。
 19願は死ぬまで求道、臨終来迎に遇わねば助かりません。しかも18願の本願を疑いながらの自力の善根功徳ですから、出来る人は化土往生と説かれています。
 これを求めていることになりますよ。

 だから親鸞聖人はこれら19願、20願の人に「和讃33首」を創られ「仏智疑う罪深しーーー」「仏智不思議の弥陀の御誓いを疑う罪、咎を知らせんとあわわすなり」と教えておられます。
 私は18願、六字の心を知って、何ということを何十年もやってきたのか、人に勧めてきたのか、愕然としました。「仏智疑う罪」を知ったからです。
 六字の心を明らかに説かれず、知らないから、罪悪深重、無常の命なのに真仮廃立の心が分からず、方便さえやっておればいつか真に入るのだろうと漠然とやっていただけでした。貴方はどうですか。

 真(六字の心)を知らずして仮が仮と分かりません。
 三願転入しなければ助からないなら、「会報」5集55P「一体、どこに19願相応の修行をしている道俗が真宗に見当たるのか。どこも20願相応の念仏をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く、「あれはまだ19願だ」「あれは20願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相応した行がともなわない人ばかりだから本当の19願、20願の行者は真宗の道俗には、いないと言ってよいのだ」

 これでは誰も助からないことになりますよ。
 大矛盾でありませんか。出来ないことを勧めていることになるからです。
 実際、活動、財施は勧めても、20願の念仏を勧めていますか。あなたの支部長、幹部の方は念仏称えておられますか。
 講師部時代、上司も講師部も念仏の人は見かけませんでした。これで講師部も20願の行人でないから、18願の願海へ絶対に転入出来ないことになります。助かりませんよ。

 高森先生自身が19願、20願の通りやって18願の世界に救われた「体験」を聞いたことはありません。
 高森先生の獲信の18歳の「体験」は「華光誌」に載っており、何度も読みましたが、19願、20願の行をしたと書いてありません。
 高森先生が22歳の時「華光社」から出版された「獲信の記録」も読みましたが、5名の方、皆さん生々しく語られ、高森先生のお母さんまで実に詳しく語っておられます。
 高森先生から19、20願の行や三願転入を勧められたなど、どこを読んでも書いてありません。「そのまままかせよ必ず救う」の18願、六字のみ心を聞かれたのです。
 なぜ「体験」の本を出版したのですか。今は隠すのですか。
 しかも本の最後には伊藤先生の「仏敵」と「華光誌」の購読まで紹介し勧めてあります。なぜですか、おかしいですね。



「体験」がよほど都合が悪いのか、最近は言わないようですが、前はよく聞きました。顕正新聞にも出ていました。
「自信教人信」自らの獲信を語り、阿弥陀様の救いは真実であること、その喜び、広大なご恩を話して、お救いの法を説いてゆく、これが本当の説法ではないですか。
 これを皆さん心から聞きたいと願っておられるのではありませんか。

 ゆったりとした会場、安心な弁当、綺麗な宿泊所、広い風呂、高価な絵画、これを楽しみに参詣されるのでしょうか。
 力の入れるところ、心のかける所が違っていませんか。
「一人なりとも人の信を獲るべきならば、身をすてよ。それすたらぬ」。蓮如上人のご催促です。
 皆さんの不満の声が聞こえてきますよ。



●現在の親鸞会の最大の問題はここにあります。


 また高森先生は「善を力一杯やってこそ、悪しか出来ない自己が分かる」とも言われました。私もそうかと思って、悪人と分からない原因はここだと信じていました。これが真実の自己を知る鍵だと思いました。
 では分かったでしょうか。何十年やって本当の自分の値打ちが分かったでしょうか。30年40年講師部の道で精進してる人からも聞いたことがありません。誰か言われでしょうか。
 そんなことが分かる自分でしょうか。素直に認める私ですか。
 自分の座っている座布団は自分では持ち上げれないのです。
 自惚れ一杯の私が、地獄行きの極悪人と知らされたでしょうか。
 やればやるほど、やったー、目標を達成した、俺はやってるぞー、自慢心が一杯でないでしょうか。
「仏願の生起本末を聞く」これ以外に真実の自己を知らされる道はないのです。仏智で照らされないと見えてこない私なんです。

 私も母から親心を聞いて、親不幸の57年であったと思い知らされました。心配のかけ通し、思い続けていてくれているのに、それなのに私は自分のしたい放題の人生を過ごし、一体、1年に何日親のことを思ったことがあったろうか。
 自分勝手で、恩知らず、もらう物はもらい、利用する鬼、餓鬼の心しかない私とやっと気付く大馬鹿者でした。
 親の心を聞いて、知って、ようやく親不孝者、五逆の者と分かったのです。

 自分の値打ちは自分で考えるのでなく、阿弥陀様がどう見ておられるか、仏智に見抜かれた自己を聞かねば正しく分からないのです。
 聴聞に極まるのです。

「やらねば分からない」こんな話に乗せられて、「人集め、お金集め」の活動を頑張っていれば、やがて真実の自己が分かると思いますか。このままでは大変な後悔を残すと思います。



 しかも大沼氏は親鸞会のような活動をすることが19願の行者だからやれとは書いていません。
 18願の聞き損ないだから、そこに座わらず他力になるまで聞けと勧めています。
 ここにも高森先生の独自の三願転入の解釈が刷り込まれているのです。最近、大沼氏を「化土往生の安楽椅子を説いた親玉です」と非難している親鸞会支部長(講師部)の通信を読みました。

 都合のいいところだけ利用して最後はこうです。
 自分の間違いは一切認めず、謝罪せず、相手を非難する、これで皆さんついてゆけますか。



「宿善論争」は「どちらが真実か」分かります。
 本願寺の指摘はその通りです。

(本願寺)「親鸞会では未信の人は宿善の薄い者であるから、信心を獲得するためには自力の善根を積んで厚くしなければならないという」
「当流では他力の信心を獲るためにまず自力諸善を積まねばならないという説示はない」
「宿善とは親鸞聖人が{たまたま行信(信心)を獲ば遠く宿縁慶べとあるように遇法獲信の現在から過去をさかのぼって宿善のお陰であると、その由縁を喜ぶものである。将来の獲信のために積まならないという方向で語られるものではない」

 本願寺は真仮、自他力廃立のみ教えに立って、18願の仏意を述べているのです。正しい指摘です。


(親鸞会)「親鸞聖人のみ教えに善の勧めは有るのか、無いのか」
 これは、三願転入の19願の諸善のことを問題にしているトンチンカンな質問なのです。19願は諸善が勧められているのは当然です。
 いかに噛み合わないことを聞いているか、六字の仏智を頂いてみると、こんな私にもハッキリ分かるのです。
 それを「返答求めて」といいながら本願寺に押しかけて座り込みまでしたのですから、本願寺の方で呆れて、話にならない団体だと、無視されたのが本当だと思います。
 それを返答が無い、勝った、勝ったとはお粗末千万でした。本願寺は100年1000年経とうと返事はしないと思います。
「三重廃立が親鸞聖人のみ教え」、高森先生も昔は書いおられた、皆さんここをよく考えてみれば分かることなのです。
 そして高森先生はこの後、三願転入に力をいれて説かれ、今日のようなってきたのです。


「自力一杯求めたら、自力無効と知らされる、まず諸善を励め」と、19願、20願を頑張ればやがて18願に「入れるように思わせる解釈、教え方」をしておられます。
 どんなに否定しても、会員さんに聞けば事実と分かります。30年間のSさんもそれを信じ、苦しまれました。
「三願転入の根拠を示して教えている、真実を説いている」と言っても18願の阿弥陀仏の本願を正しく説けないようでは、正しい教えではありません。
 18願に当益(往生成仏)は誓われてないとか、若不生者は「信楽」にしてみせるのお約束と言ったり、次々と間違いが明らかになっています。これで18願に転入されるでしょうか。
 何時になったら正しい六字の心を聞けるでしょうか。疑問です。

 母の言う通り、前と話が明らかに違ってきています。
 今のまま求めてゆけばどうなるか、何より、Sさんが身をもって教えてゆかれました。
 自分の後生の一大事です。今こそこれまでの求道を振り返って、今後どうするか静かに考える時ではないでしょうか。



 親鸞会は「親鸞聖人のみ教えを徹底する以外にあってはならない」と公言し、会員さんはそれ一つを誇りとして厳しい道を歩んでこられました。私もこの心で共に求めた同志の一人です。
 しかし、ここまで曲がってしまいました。
 本当に残念です。
 信じていたものを疑うのは苦しいでしょうが、真実かどうか、今こそ熟慮して下さい。私も何ヵ月かかって悩んだ末にようや決心がつきました。
 そんな簡単ではないのです。しかし求めれば真実に必ず出会えます。
「今ここで私が」救われる六字なのです。



 長い文章になってしまい恐縮です。
 そうかと思われる方、、善知識を誹謗していると憤慨される方もあることも承知しています。
 母は「今は言われることが変わられたが、高森さんのお陰で聞かせてもろうた。恩があるでなー」と言ったことを忘れません。私もです。仏教のイロハから聞かせて頂いたのです。釈尊の出世本懐は阿弥陀仏の本願以外にないと。
 だからこそ、十劫より待っておられる阿弥陀様のご恩を思えば書かずにおれませんでした。
 私は何と思われてもかまいませんが、「六字の呼び声」だけは聞いて頂きたい、知って頂きたい。これしかありません。

「あわれ、あわれ存命のうちに、皆々、信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心しばらくも止むことなし」
 蓮如上人の御遺言を胸に刻んで終わらせて頂きます。



 若し、読むだけでなく、聞きたいこと、相談したい事などございましたら遠慮なく仰有って下さい。聞かせて頂いたことで迷惑はおかけ致しません。
 私は毎日仕事に出かけますので、日中は時間がとれませんが、事は後生の一大事、出来る限り最善を尽くします。

〒918-8134
福井市下莇生田町27-1-32嶋田久義

メールアドレス simahisayoshi@yahoo.co.jp


電話090-2375-8256

●時間昼12時10分から12時30分まで
夜8時から9時まで

(これ以外の時間は難しいと思います)

○もっと詳しく知りたいと思われましたら
増井悟朗先生の「念仏の雄叫び」(法蔵館)をお勧め致します。
スポンサーサイト

COMMENTS

親鸞会を「退会」されたい方は「浄土真宗親鸞会被害家族の会掲示板」を参考にされてみて下さい。

No title

6字の呼び声を読んで何ともいえない気持ちだ。
自分が高森先生の説法や教学講義で聞いてたときとは違う感覚になる。
後生の一大事、阿弥陀仏の本願が物凄く気になる。
同時に、いまさら仏教なんて面倒くさいなんて心も正直ある。
今度は別の亜流にだまされるなんて御免だ・・なんてことまで思ってしまう。
求めるにしても今でなくてもいいだろう、さすがにまだ死なないだろうとも思ってる。
救われないんだろうな自分は。

No title

親鸞会やめてもまだ後生の一大事とか言ってるのって可愛そうだね。

No title

個人情報を公開しての投稿ということは、嶋田氏の覚悟が相当なものであることが
窺える。
親鸞会側は、本気で真実を明らかにする意志があるならば、誠意をもって公然と
反論(“破邪”)すべきだろう。

ネット工作員って本当にいるんですね。それにしても品の無いコメントを書かれるんですね。よほどこの投稿を読まれたくないんですね。でも、あなたを生んで育てたご両親は、こんなコメントを書かせるためではないと思いますよ。良心があるならば、二度と下品なコメントは書かないで下さい。

もんく

嶋田元講師が堂々とオープンにしてるのになぜ親鸞会は反論しないのですか。捏造だから見るな?ですか。会員は見なくとも、専門家ならば破邪するのが親鸞学徒じゃないんですか。

No title

嶋田さま
あなたさまの「多くの人に伝えたい」という気持ちは十分に理解しているつもりのものです。
しかし、やはり多くの人の反応は、あなた様が何を聞かせてもらい、何をよろこんでいるかの部分よりも、暴露であり、比較であり、興味のようです。

あなた様ご自身の体験・喜びを、等身大の言葉でつづっていただければ、他の人がどうなるかは、あとはあなた様の仕事ではないと思います。
あなた様に出来る仕事を、他の方に見ていただくことのほうが、肝心なことが伝わるような気がします。
凡夫の仕事とは・・・

今後のご活躍を期待しております。

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。