スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

投稿(南無阿弥陀仏について)

清森先生へ


「苦笑の独り言」で、親鸞会における「南無阿弥陀仏」理解の誤りが指摘されていましたので、お知らせいたします。


★Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-283.html

Q。
いつもありがとうございます。

「南無阿弥陀仏」の意味について教えて頂きましたが、
結局、高●先生の「南無阿弥陀仏」の理解が、間違っていたのでしょうか?


A。
高●先生の話を直接聞いておりませんし、直接確認をしたわけではありませんが、
少なくとも、公式HPやその記事の元になる「顕正新聞」に書かれた、
「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈する理解は、明かに親鸞聖人や蓮如上人とは異なったものです。

繰り返しますが、蓮如上人著『正信偈大意』を読めば、
「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれております。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

高●先生のような解釈は、どこまでも個人的な「味わい」なわけであり、
「あじわい」と断った上で述べるのであればギリギリセーフですが、
この「味わい」は既にドグマ化され、会員さんに徹底されてしまってますので、
問題は大変深刻だと思います。



★Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-284.html

Q。
今回は根拠が豊富で、壮観ですね。反論の余地のない論文という感想です。
今回のところは、会員にとって、耳にたこができる程、聞かされた内容で、根拠も
知っているものが多いのですが、『教行信証』『尊号真像銘文』については、知らず、
目から鱗の感じになると思います。

ただ、「南無」を「助かった」「救われた」と直訳するのはおかしいことはわかりますが、
「意訳であっても間違いだろうか?」という疑問は残るのではと思います。

いかがでしょうか?


A。
間違いです(苦笑)。

「南無」の元になるサンスクリット語“namas”は、
「腰をかがめる」「おじぎをする」という意味の動詞“√nam”から派生した言葉で、
そこから相手に対して自分を「お任せする」「帰依する」という意味が出てきます。

浄土真宗では所謂「報恩感謝の念仏」が言われていますが、
これを阿弥陀仏に対する「お礼」などと言うのは全くおこがましい話です。

この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し続け、
自らの口から出る「本願招喚の勅命」の念仏を聞きながら、
「勅命にしたがひて召しにかなふ」生き方をし、
間違いなく極楽浄土に往生し成仏することこそが、
何もすることができない私達が、
阿弥陀仏の御恩に報いる最高の「報恩感謝」です。

阿弥陀仏の本願を無駄にしないこと以上の、
「報恩感謝」は存在しません。

§10の注3であげた蓮如上人『御文章』の言葉は、
全てそのような意味の言葉です。

既に、親●会における念仏不要論に対する批判がなされていますが(※)、
そういう点でも、親●会ドグマは二重三重に複雑に、
沢山の間違いを積み重ねているような気がします。

また後で、浄土真宗の大行論、念仏の位置づけの話で、
このことに関しては詳しく解説する予定ですが、
§10の注3で挙げた蓮如上人の言葉は、
とても大切ですので、しっかり何度も読んでください。


※以下の記事を参照

清森問答質疑応答164

同親鸞会教義の相対化・76(投稿)



★Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-285.html

Q。
いつもありがとうございます。
今回はちょっと内容が難しく、特に親●会で長年聴聞している人にはわかりにくい気がしました。
もうすこしわかりやすく、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」の違いについてまとめて頂けませんか?


A。
そんなに難しかったですか?
親●会関係者じゃない方には、
すんなりわかってもらえたんですけどね~(苦笑)。

繰り返しになりますが、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」は、
この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し、
阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」ものであり、
衆生が、阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」ものであり、
阿弥陀仏の「選択本願」であり、
衆生が間違いなく、極楽浄土に往生する「正定の業因」です。

「帰命無量寿如来」も、「阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり」
と蓮如上人が解釈されていますから、全く同じ意味です。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。


わかりやすく図にしてみました。
    ↓


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因




一方、親●会の「南無阿弥陀仏」は、
「帰命無量寿如来南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈していることから明かなように、
「救われた」「助けられた」後に限定されたものです。

したがって、「救われた」「助けられた」状態になるまで、
「南無阿弥陀仏」しませんので、
衆生が、「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」こともなく、
阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」こともありません。

そして、そのような衆生が、阿弥陀仏の「選択本願」によって、
極楽浄土に往生することはありませんので、
親●会の「南無阿弥陀仏」は、
衆生が永久に「救われた」「助けられた」にはなれない「南無阿弥陀仏」です。

これは、明らかに善導大師や親鸞聖人や蓮如上人と異なった「南無阿弥陀仏」であり、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ではありません。


こんなもんで、よろしゅうございますでしょうか?
スポンサーサイト

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。