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質疑応答186

「静かな劇場」についての質問が途中ですが、先に以下の質問に回答させて頂きます。


【質問】


以下、コメント欄にも書き込ませて
いただきましたが、質問です。

★「飛行機が墜落する」のは物理的な原因によってひき起こるもの。

★「墜落する飛行機に乗って苦しい運命に巻き込まれねばならない」のは
 仏教で教えられる因果の道理(幸せ・不幸についての法則)。

……という理解でしたが、それは間違っているということでしょうか?



【回答】


 この場合、親鸞会では2通りの言い方をします。

1、墜落する飛行機に乗る、という行為が原因で、被害に遭うという結果が起きた。
2、その人の持つ業力によって、墜落する飛行機に乗るという結果が起きた。


 1の場合は、物理的な考え方で言っています。
 仏教の因果の道理では、こういう考え方はしません。

 そもそも、「墜落する飛行機に乗る」とは、どんな行為でしょうか?
 墜落するかどうかは、乗る時点では分かりません。
 だから、「墜落する飛行機に乗る」というのは、実行不可能です。

 一般的に、こういう再現性の無いものを、「原因」とは呼びません。
「宝くじに当たる方法は、当たる宝くじを買うことだ」と言われて納得できるでしょうか?


 2の場合は、仏教の考え方に近い部分もありますが、やはり間違っています。

 私たちの行為は、業(種子)を原因として、生み出されます。
 その人が、「墜落する飛行機に乗りたい」と思うような業を持っていて、たまたま飛行機に爆弾を仕掛けられるのを目撃したら、その飛行機に乗るでしょう。

 こういう場合は、「その人の持つ業力によって、墜落する飛行機に乗るという結果が起きた。」と言えます。しかし、偶発的に起きた事故については当てはまりません。

 私たちは、未来の物理現象を予測することは出来ません。どんなに悪業の強い人だとしても、どの飛行機が墜落するかを予測して乗る、などという芸当は出来ないのです。



 これも繰り返しになりますが、飛行機事故の当事者となっても、遺族になっても、その人に「執着心」という悪業がなければ、苦しみは発生しません。必ずしも、「事故に遭う」=「苦しみ」とは、ならないのです。

 しかし、私たちには必ず執着心があります。執着心があるから人間に生まれてきたのです。執着心が全く無ければ仏ですので、肉体を持つ必要もなくなります。

 仏様であれば、肉体が有っても無くても問題ありませんから、死んだとしても苦しみはありません。仏教で、苦しみを完全に解決したといえるのは、仏になった時なのです。

 ところが、私たちは自力で執着を断ち、仏になることができません。そこで、阿弥陀仏は、私たちを必ず仏にすると誓われているのです。

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COMMENTS

お答えありがとうございます

合掌
お答え、ありがとうございました。

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