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質疑応答187

【質問】

(続きです)

①.この著者(ブログ「静かな劇場」)が説いている因果の道理の解説(9月29日~10月17日記事)は、

お聖教に即してどこまで正しく何が間違っているとお考えになりますか?


【回答】


 このブログの管理人が、以下のように書いています。

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/43d098a9e5e10812f04ac7c8e8e96f21


1人殺すという因が、1回自分が殺されるという結果を引き起こすものならば、
10人殺した人は、死刑に遭って、あと残り9人分、
100人殺した人は、死刑に遭った後、あと99人分、
殺したその結果をどこかで受けるのでなければ、論理が一貫いたしません。

結果というのは、因の後に来るものです。しかし、肉体は死刑に遭ってすでに終わっているので、結果を受けるとしたら、肉体の命の終わった後、ということになります。

それが後生です。



 1人殺せば、1人殺した分の報いを受け、10人殺せば、10人殺した分の報いを受ける。このような考え方を「一因一果」と言います。
 親鸞会では、「一因一果」の考えで、因果の道理が教えられているようですが、仏教では、この「一因一果」の考えは間違いだと説かれています。

 仏教で、私たちの苦しみを生み出す原因とされるのは、阿頼耶識に収まっている業(種子)であると教えられています。「過去の行為」そのものではありません。
 同じ行為を繰り返せば、それに関する業(種子)の力は強くなります。だから、縁が来たときに発生する結果も大きくなります。

 しかし、何回の縁が来るかは分かりません。1回しか縁が来なければ、結果として現れるのも1回ですし、100回の縁が来れば、結果も100回現れます。

 1回結果として現れれば、それで清算されて終わりではないかと思う方もあるかも知れませんが、そうではありません。私たちは、苦しいときには迷いが生じて、更なる悪業を造りますので、ますます酷い結果を受けるようになっていきます。

 ただし、苦しい結果が現れたときに、その原因は自分の悪業にあったと諦かに見て、それを懺悔したならば、その悪業は消えると説かれています。これを「懺悔滅罪」と言います。

 難しい話になりますが、苦しみという結果を受けなくても、法を聞くことにより懺悔することができれば、その悪業は消えるため、結果は現れません。ですから、「悪い行いをしたら、必ずその結果を受けなければならない」というのも厳密には間違いです。


 身近な例を挙げると、タバコは肺がんの原因と言われます(これは仏教的な因果ではありませんが)。タバコを吸い続ければ、他の要素も加わって、肺がんになってしまいます。

 しかし、肺がんが発見されて、それに驚き、二度と吸わないと決意すれば、治療に成功したあとは、次の肺がんには罹らないでしょう。

 また、タバコの害を諭され、それに納得してタバコを止めれば、肺がんに罹らないで済むかも知れません。

 もちろん、肺がんになったことでヤケになって「どうせ死ぬんだから、何本吸っても同じだ!」と吸いまくれば、ますます肺がんがひどくなり、苦しむことになります。

 いずれにしましても、1本タバコを吸ったからといって、必ず肺がんに罹るという教えではないのです。


 そういうわけで、一応、理論上は悪業を消すことも可能なのですが、私たち凡夫に懺悔など出来ませんから、悪業を造り続けて、苦しみから逃れることが出来ないと理解されて結構です。
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