スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答191

【質問】


 親鸞聖人が、煩悩を慎むように仰ってると教えて頂きましたが、煩悩具足の私たちに、煩悩を慎むことが出来るのでしょうか?
 親鸞聖人に反論するつもりはありませんが、親鸞会では「煩悩は減りもしなければ無くなりもしない」と教えていただいてきましたので、疑問に思いました。



【回答】


 親鸞会では教えられませんが、唯識学では煩悩に2通りあると教えられます。


現行の煩悩…いわゆる三業に現れている煩悩
種子の煩悩…現行の元となる煩悩


 現行の煩悩とは、腹を立てるとか、人を恨むとか、金に執着するとか、そういう三業に現れているものを言います。これは三業ですから、人それぞれ違いますし、この煩悩が強い人もいますし、弱い人もいます。
 また、よく腹を立てていた人が腹を立てなくなるというように、煩悩が弱くなるということもあります。一時的ならば、無くすこともできます。

 しかし、どんなに煩悩が無くなったように見える人でも、縁がくると、また煩悩が吹き上がります。これは、その元となる種子の煩悩があるからです。この種子の煩悩は自覚できません。
 私達が煩悩具足と言われるのは種子の煩悩があるからです。これが無くならないと仏にはなれません。信心決定した人は、この種子の煩悩を、阿弥陀仏のお力によって滅していただき、仏になることができるのです。(信心決定した時に滅して頂くのではありませんので、信心決定と成仏は違います)

 ちなみに親鸞会では、煩悩を三業で教えていますので、それは「現行の煩悩」です。それを、「減りもしなければ、無くなりもしない」というのは間違いです。

 親鸞聖人が慎むようにと仰った煩悩は、この「現行の煩悩」であると考えられます。この「現行の煩悩」さえ、「どうせ無くならないのだから、無くす必要はないのだ!」と言っている人がいたら、それは単なる怠慢であって、仏教の全然わかっていない人です。

 覚如上人や蓮如上人も、煩悩が薄くなるという言い方で教えられています。


●かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。(執持鈔・正信偈大意)

 ちなみに、該当部分の現代語訳を読むと、「この光の縁に会う衆生にあっては、それまで自分が沈んでいた無明の闇がようやく薄らいでゆくのである。」(「親鸞全集5・現代語訳」真継信彦著・法蔵館)となっています。


 衆生の煩悩悪業が、阿弥陀仏の光明に照らされて、無明の昏闇うすくなり、本願の名号をきくと説かれていますが、ここで薄くなると言われている無明は、名号を聞く前のことですから、一念で晴れる疑情のことではありません。
 無明とは煩悩のことを指しますが、「種子の煩悩」が薄くなるとは考えられませんので、「現行の煩悩」の意味だということになります。

 いずれにしましても、親鸞聖人は、煩悩を慎むように教えられているのですから、「現行の煩悩」と「種子の煩悩」をゴッチャにして、「煩悩はどうせ無くならないのだから、慎む必要はないのだ!」ということがあってはなりません。親鸞聖人は、そういう人に近づいてはならないとも仰っています。
スポンサーサイト

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。