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親鸞会教義の相対化・1(質疑応答33)

 ある浄土宗の方に、アニメ等をお貸ししていたところ、以下のような感想を頂きました。御本人の了解の上で、紹介させて頂きます。
 
          *           *           * 

清森義行様


貴重な本やアニメを沢山ありがとうございました。
あらためて御礼申し上げます。

遅くなりましたが、頂いた高森先生の本や仙波さんの本を読ませていただいて、
アニメも見させていただきました。

以下に、感想を述べさせていただきます。


清森さんの仰っていたように、仙波さんの本もアニメも、
きちんと高森先生の本に忠実に作られていました。

浄土宗でも「私達の法然様」というアニメがありますが、
単に生涯を単純にトレースしただけで、教義面が反映されていないのですが、
あれだけ内容を凝縮して思想面にまで踏み込んでアニメにするのは流石だと思いました。


「こんなことが知りたい」も全部読ませていただきましたが、
こんだけ明晰で一貫してて、切れ味鋭くてわかりやすい一般向けのマニュアル本は、
浄土宗にはありませんし、作ろうともしていませんから、
僕達若いものが、見習っていかなければならないと思いました。


ただ、高森先生は信心に導く過程としては明晰で一貫しているのですが、
典拠や資料論の怪しい所や、高森先生個人の排他性を投影している所とか、
デジタルで極端な二元論で、いろんな複雑な要素を単純化しすぎている所が、
問題なのではないかなと思いました。

【法然上人における神道の位置づけ】 を以前まとめたことがありますが、
本当に絶妙なバランス感覚距離感なんですよね。

これを踏まえて、もう少し寛容な親鸞聖人像というものの構築も可能ではないかなと思うんです。
やっぱり「対機説法」ですしね。

単純化・明確化というのは、わかりやすい反面、
幅というか、柔軟性や現実対応性を失う危険もあるのではないかなと思うんです。

= = = = = = = = = = = = = = = 

【法然上人における神道の位置づけ】

『一百四十五箇条問答』には、

 神に後世申しそうろう事、いかん。
 答う、仏に申すには過ぐまじ。(49)

(訳)
 神に生まれ変わった後の世を頼むのはどうでしょうか。
 答 仏に頼むのに過ぎるものがありません。

とあって、神に後世を頼むのではなく仏に頼むべきだとしますが、

 念仏を行にしたる物が物詣はいかに。
 答う、苦しからず。(92)

(訳)
 念仏を行にしている者が、神社に参詣するのはどうでしょうか。
 答 さしつかえありません。

とありますので、法然上人は神社に対して参拝することを
特に厳しくは、いましめてはおられないと思います。

さらに、

 神仏に参らんに、三日一日の精進いずれかよくそうろう。
 答う、信を本にす。幾日と本説なし。三日こそよくそうらわめ。(55)

(訳)
 神と仏にお参りするのに、三日と一日の精進では、
 どちらがよいのでしょうか。
 答 信を根本とします。幾日ということは出典がありません。
 三日の方こそよいのに決まってます。

という問答もありますので、
法然上人は、神仏習合という当時の状況を踏まえて、
あえて無理な押し付けはしないで、
最終的に念仏をするように持っていくように
教えを説いていったのではないかと思われます。




この法然上人の立場は『津戸の三郎へつかわす御返事』の、

 この世のいのりに、仏にも神にも申さん事は、
 そもくるしみ候まじ。後世の往生、念仏のほかにあらぬ行をするこそ、
 念仏をさまたぐれば、あしき事にて候え。
 この世のためにする事は、往生のためにては候わねば、
 仏神のいのり、さらにくるしかるまじく候なり。(昭法全p.504)

(訳)
 この世をよりよく過ごせるように仏や神に祈ることは、
 差し支えありません。けれども後生の往生を目指して、
 お念仏以外の行を修することは、お念仏を妨げますから、
 よろしいことではありません。
 この世でのご利益のために祈ることは往生のためではありませんので、
 仏や神に祈りを捧げても格別不都合なことではありません。

という言葉や、『鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事』の、

 このよのいのりに、念仏のこころをしらずして、
 仏神にも申し、経をもかき、堂をもつくらんと、(中略)
 せめてはまた後世のために、つかまつらばこそ候わめ。
 その用事なしとおおせ候べからず。
 専修をさえぬ行にてもあらざりけりとも、
 おぼしめし候べし。(昭法全p.504)

(訳)
 お念仏を称えず、その意義も知らないままに、
 この世をよりよく過ごせるように仏や神に祈念し、
 写経をし、お堂を造ろうとすることは、(中略)
 少なくとも後の世の極楽への願いを発すきっかけになるならば、
 それも結構なことでしょう。
 その必要はない、などとおっしゃってはいけません。
 専らお念仏を称えることの妨げになってしまうほどではないと
 お思いになって下さい。

という言葉からも明らかであると思います。

もちろん『浄土宗略抄』に、

 祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、
 たれかは一人として病み、死ぬる人あらん。(昭法全pp.604-605)

(訳)
 神や仏に祈ることによって病気も治り、命も延びるというならば、
 どうして一人でも病気になったり死んだりする人がいるであろうか。

と述べておられるように、積極的に神に対して祈ることを
勧めているわけではありませんし、

『念仏往生義』に、

 いたずらに神仏にいのらんよりも、一すじに弥陀をたのみて二心なければ、
 不定業をば弥陀も転じ給えり、決定業をば来迎し給うべし。
 無益のこの世をいのらんとて大事の後世をわするる事は、
 さらに本意にあらず、後世のために念仏を正定の業とすれば、
 これをさしおきて余の行を修するべきにあらざれば、
 一向専念なれとはすすむるなり。(昭法全p.504)

(訳)
 むやみに(阿弥陀様以外の)仏や神に祈るよりも、
 いちずに阿弥陀様におすがりして心に裏表がなければ、
 阿弥陀様は往生のためとはならない行をも往生の行へと転じてくださり、
 必ず往生が叶うお念仏の行を修める人ならば
 なおのこと来迎してくださるのです。はかないこの世での利益を祈り、
 何よりも大事な後生のことを忘れてしまうのは、
 決して本意ではありません。
 (阿弥陀様は)後生のためにはお念仏を正定の業とされたのですから、
 それをさしおいて他の行を修めるべきではありません。
 だからこそ、ひたすらお念仏を勤めなさいとお勧めしているのです。

とあるように、それがお念仏の妨げになるような場合は
厳しくいましめておられます。


僕は、法然上人は「念仏をお称えしていく」という核の部分さえ
しっかりと押さえていたならば、
それ以外のことに関しては、かなり寛容であったと思います。

『一百四十五箇条問答』において法然上人は、

 酒飲むは罪にてそうろうか。
 答う、まことには飲むべくもなけれども、この世の習。(57)

(訳)
 酒を飲むのは罪になるのでしょうか。
 答 本当は飲んではならないものですが、この世の習いなので・・。)

と述べておられます。これは、当時の仏教者が
基本的には飲んではいけなかった酒に対して、
一般の人々の心情を察して、微妙な答えをされたものであると思います。

法然上人は、神様に頼ってしまうという行為も、
酒を飲むのと同じように人間の性として受け取っていったような気がします。

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それに念仏申すことの軽視は、上田さんだけに限った問題ではなく、
高森先生や親鸞会に共通する問題のような印象を受けました。

「こんなことが知りたい」の2巻(41)では、

「念仏が必要不可欠の条件と思うのは、とんでもない誤解」
「唯心独達の法門が根底から破壊されてしまう」
「救いと関係ない」

と述べておられますが、

 往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、
 御念仏そうろうべし。

 わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、
 仏の御恩をおぼしめさんに、
 御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、
 世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう。
 よくよく御案そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)


往生を不定におぼしめさん人・・信前・・自力の信心
    ↓
【他力信心を獲た時=信心決定した時】=自力と他力の水際
    ↓
わが身の往生、一定とおぼしめさんひと・・信後・・他力の信心


という過程において共通して「励む」べき念仏を軽視しているのは、
やはり問題があるのではないかなと思います。



これに関連して、親鸞会では悪役の紅楳先生ですが、
紅楳先生の主張を改めて読んでみると、

親鸞会では、価値のある念仏を信心決定後の報恩感謝に限定して、
それ以前の信前の段階で、念仏以上に、
六波羅蜜(特に布施!)とか聞法(高森先生に限る!)を、
重視して、それによって「宿善」を厚くして、
信心獲得のための補助にしていくようなプロセスを説いていて、
それが 親鸞聖人とは違う。

という主張をしておられていて、これは全くその通りだと思いますし、
上記の親鸞聖人の言葉にピタリと一致すると思うんです。

ところが、それに対して高森先生は、
「本願寺は善を勧めていない!」というように主張を歪曲して、
それに対して答えているような気がします。

= = = = = = = = = = = = = = = 


あとこれは、清森さんはご存知かもしれませんが、

聖光上人が親鸞聖人と同じ時期に法然上人の下にいなかったことは以前申しましたが、

体失・不体失往生の論争に関しても、
証空上人も、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていますし、
ましてやアニメのような「念仏申していたら死後に往生できる」という主張は、
証空上人には全くありません。

もちろん、これは浄土真宗的には「伝統」なのかもしれませんが、
今の時代に、つまらない宗我見に捉えられて縄張り争いするべきでないと思うし、
広く一般の人を相手に教えを説き広めていくというのであれば、
まずはきちんとした事実に立つべきで、捏造した情報の上で、
教えを説いていくようなことは、避けるべきなのではないかなと思いました。

そうしていかないと、きちんと文献に当たって確認された時に、
信頼を著しく損なってしまうのではないかなと思います。




部外者の気ままさから、言いたい放題申しましたが、
やっぱり高森先生は現代の浄土門では、
トップクラスの信心の明晰さを持った巨人だと思うし、
高森先生が監修した本やアニメは、そこらのものとは一線を画す、
鋭さと明晰さがあると思います。

アニメには続きがあるということでしたので、
またお会いすることができる時がありましたら、
三巻以降もお貸しいただけたら、有難く存じます。


本当に清森さんとお話させて頂きたいことは山ほどあるし、
上田さんにも、本当に冗談抜きで、一度直接会ってみなければと思います。

本当にありがとうございました。


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