スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

質疑応答193

【質問】


 親鸞会の伊藤健太郎講師のブログで、最近は因果の道理について扱っています。(伊藤講師のブログであることは、本文中に書いてあります)

 下記のエントリで、細い横道から飛び出してきた車にぶつけられたのも自業自得だと書いていますが、これについて清森先生はどのように思われますでしょうか?



愛と哲学の自分探し(生きる意味は結婚?)
http://tetugakuboya.cocolog-nifty.com/test/2009/11/post-1322.html


 自分が過去に行った行為(業)が原因となって、幸福や不幸を生み出すといっても、それは一つの行為が一つの結果を引き起こすという、単純な関係ではありません。過去の業に、さまざまな縁(間接的原因)が重なり合って、原因に応じた果報(運命)を受けると説くのが「自業自得」です。
「自業自得」と思えない事例は、世に少なくありませんが、それは「因」と「縁」を正しく区別しないことから来る誤解です。
 例えば自分が優先道路を走っていたときに、細い横道から無謀な車が、一時停止もせず突っ込んできたとします。こういう場合、相手が飛び出したという行為が、私の災難の原因のように思われますが、その考えは正しいでしょうか。もし運転手が飛び出したという行為が原因であれば、私の前や後を走っていた人も、同じ運命を受けなければならないでしょう。しかし実際には、私だけが事故に遇っています。
 また、たとえ車が飛び出してきても、「飛び出す車があるかもしれない」という「かもしれない」運転をしている人は、事故には遭いません。他の人には無かったものが、私にだけあったことは明らかでしょう。
 私しか持たない原因があったから、私だけが、車が飛び出してくる、ちょうどその時に、その場所を通らなければならなかったのです。
 事故の「因」と「縁」を正しく知れば、「自因自果」だと分かります。この場合、私の過去の悪い行いが「因」で、そこに無謀な運転手という悪い「縁」が結びついて、事故という悪果が現れたのです。飛び出してきたドライバーは、悪い「縁」になったのですから、処罰されるのは当然でしょう。こんな事故が繰り返されないよう、危険運転を厳しく取り締まって、悪い「縁」を減らす努力をしなければなりません。しかし私の事故の「直接の原因」は、あくまで私にあったのです。

 はっきり見える原因と、隠されて見えない原因があることを知らないと、「自業自得」は正しく理解できません。例えば、熱いコーヒーを膝にこぼして火傷をしたとします。火傷の原因は「コーヒー」と言えないこともありませんが、もしこれがアイスコーヒーだったら、火傷はしなかったでしょう。だから本当の原因は「コーヒー」そのものではなく、目に見えない「熱」です。このように、真の原因は目に見えるとは限りませんから、現象の表面だけ見ていては、正確な因果関係は分からないのです。
 先の交通事故でいえば、誰の目にも明かな原因は、飛び出した車ですが、それは悪い「縁」であり、悪果が現れるのを補助する、間接的な原因にすぎません。目に見えない過去の「業」こそが、幸福や不幸を生み出す直接の原因だと教えるのが、「自業自得」の道理です。




【回答】


 親鸞会では、無謀運転の車が突っ込んできて事故に遭うという結果も、自分が過去に行なった行為の結果だと教えられています。
 仏教では、このような事は教えないのですが、これが自業自得だという親鸞会の主張を検証してみましょう。


> 「自業自得」と思えない事例は、世に少なくありませんが、それは「因」と「縁」を正しく区別しないことから来る誤解です。
>  例えば自分が優先道路を走っていたときに、細い横道から無謀な車が、一時停止もせず突っ込んできたとします。こういう場合、相手が飛び出したという行為が、私の災難の原因のように思われますが、その考えは正しいでしょうか。



 事故に遭うというのは一つの物理現象です。その事故を苦しいと感じるのは心の問題になります。仏教で、苦しみの原因は、自分の業だと教えられていますが、偶発的な事故の原因までは論じられていません。

 一般的に考えれば、一時停止すべきところを飛び出してきた車に原因があると言ってよいでしょう。
 安全運転の車同士では事故は起きません。事故が起きるときは、少なくともどちらかが危険な運転をしています。つまり、無謀運転(危険な運転)は事故の原因といって、間違いではないと思います。



> もし運転手が飛び出したという行為が原因であれば、私の前や後を走っていた人も、同じ運命を受けなければならないでしょう。しかし実際には、私だけが事故に遇っています。


 運転手が飛び出したという行為が原因だと、どうして、私の前や後を走っていた人まで、同じ運命を受けなければならないという結論になるのでしょうか?
 実は私も、この論理に騙されていたのですが、よく考えてみると、おかしな話です。

 前や後を走っていた人が、飛び出してきた車にぶつからなかったのは、単に「縁が無かったから」ということです。今回は、たまたま私に縁があったから事故に遇ったのであって、私だけが何か悪いことをしていたから、ぶつけられたとは言えません。


 例えを一つ挙げましょう。

 Aさんが飲酒運転をして、ある電柱に衝突し、その電柱が折れてしまいました。その電柱が折られてしまった原因は何でしょうか?

 普通の人は、Aさんに原因があると考えますが、親鸞会では、その電柱に原因があったと教えていることになります。

 なぜなら、Aさんが原因であるとするならば、その前の電柱も、後の電柱も、同じ運命を受けなければならないからです。
 前の電柱も、後の電柱も折られなかったのに、なぜ、この電柱だけが折られなければならなかったのか。それは、その電柱自身に原因があったからです。

 親鸞会では、その原因を「過去の行為」と教えるわけですが、電柱の過去に、どんな行為があったというのでしょうか?
 このような例えからも、親鸞会の「因果の道理」が、いかに理屈に合わないか分かられると思います。



> また、たとえ車が飛び出してきても、「飛び出す車があるかもしれない」という「かもしれない」運転をしている人は、事故には遭いません。他の人には無かったものが、私にだけあったことは明らかでしょう。


 「飛び出す車があるかもしれない」と思って運転していたら、事故に遭わないと言えるのでしょうか?
 優先道路を走っていて、細い横道から突っ込んでくる無謀な車を避けるなんて芸当は、普通の人間には不可能です。



>  私しか持たない原因があったから、私だけが、車が飛び出してくる、ちょうどその時に、その場所を通らなければならなかったのです。


 この前の文で、「かもしれない」運転をしている人は、事故に遭わないということを例に挙げて、「他の人には無かったものが、私だけにあったことは明らか」だと説明しています。
 つまり、「かも知れない」運転をしていると、車が飛び出して来ないということでしょうか?

 伊藤講師の説明だと、私が、車が飛び出してくる時に、その場所を通らなければならなかったのは、私が「かも知れない」運転をしていなかったから、ということになります。

 これが理屈に合わないことは、皆さん分かられると思います。

「飛び出す車があるかもしれない」と思って運転していても、していなくても、同じように車は突っ込んできます。しかし、突っ込んできた車に、全速力でぶつかって大事故になるか、急ブレーキをかけて軽い事故で済むかという違いが現れてきます。

 つまり、「飛び出す車があるかもしれない」と思って運転していないからといって、車が飛び出してくる時に、その場所を通るという結果になる訳ではありません。



>  事故の「因」と「縁」を正しく知れば、「自因自果」だと分かります。この場合、私の過去の悪い行いが「因」で、そこに無謀な運転手という悪い「縁」が結びついて、事故という悪果が現れたのです。


 結局、親鸞会の論理は、

A「どんな結果にも、必ず自分に原因があるはずだ。」
        ↓
B「だから、偶発的な事故であっても、必ず自分に原因があるはずだ。」
        ↓
C「偶発的な事故でさえ、自分に原因があるのだから、
  どんな結果でも、自分に原因があるのだ。」

 ゆえにAは証明された。


という事を言っているのです。

Aを前提に論理を進めていけば、Aが証明されるのは当たり前です。



> 飛び出してきたドライバーは、悪い「縁」になったのですから、処罰されるのは当然でしょう。こんな事故が繰り返されないよう、危険運転を厳しく取り締まって、悪い「縁」を減らす努力をしなければなりません。しかし私の事故の「直接の原因」は、あくまで私にあったのです。


 仏教では、このように縁を変えるように努力しましょう、という方向では教えません。あくまで、原因は自分の業なのですから、その業を変えるという方向で教えられるのです。


>  はっきり見える原因と、隠されて見えない原因があることを知らないと、「自業自得」は正しく理解できません。例えば、熱いコーヒーを膝にこぼして火傷をしたとします。火傷の原因は「コーヒー」と言えないこともありませんが、もしこれがアイスコーヒーだったら、火傷はしなかったでしょう。だから本当の原因は「コーヒー」そのものではなく、目に見えない「熱」です。このように、真の原因は目に見えるとは限りませんから、現象の表面だけ見ていては、正確な因果関係は分からないのです。


 こういう喩えを出すのであれば、以下のようにしたら良いと思います。

 例えば、事故に遭って苦しんだとします。私たちが苦しむ原因は「事故」と言えないこともありませんが、もしこれがお釈迦様であったら苦しまれることはなかったでしょう。だから本当の原因は「事故」そのものではなく、目に見えない「煩悩」です。このように、真の原因は目に見えるとは限りませんから、現象の表面だけ見ていては、正確な因果関係は分からないのです。


 親鸞会では現象の表面しか見ていないので、仏教でいう因果関係が分からないのでしょう。



>  先の交通事故でいえば、誰の目にも明かな原因は、飛び出した車ですが、それは悪い「縁」であり、悪果が現れるのを補助する、間接的な原因にすぎません。目に見えない過去の「業」こそが、幸福や不幸を生み出す直接の原因だと教えるのが、「自業自得」の道理です。


 この辺りも、細かく言えば間違いです。
 過去の「業」ではなく、現在の「業」が原因で苦しみが生み出されます。

 現在の「業」は、過去の行為によって生み出されますが、過去の行為が「直接の原因」ではありません。


 天親菩薩がまとめられた唯識学によれば、私の感じている世界は、私の業から生み出されます。一人一人、業が違いますから、感じている世界も違います。
 物質的には同じ世界に住んでいても、感じ方が違えば、違う世界に住んでいるといっても良いでしょう。
 中には幸せな世界に住んでいる人もいます。苦しみの世界に住んでいる人もいます。それは業によって生み出されているのです。

 例えば、嘘をつく人は、周りの人も嘘をついているように感じます。だから他人を信用できず、常に不安で苦しまなければなりません。嘘が発覚して、罰を受けることが「悪果」ではないのです。

 どんなに物質的な世界が変わっても、それを見ている私の業が変わらなければ、幸福や不幸の度合いは変わりませんので、「業の報いからは逃れることが出来ない」と教えられるのです。

 なお、仏教で教えられる六道などは、地面を掘っていったら実際にある世界ではなく、業によって見える世界を喩えで示されたものです。

スポンサーサイト

COMMENTS

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。