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質疑応答203

【質問】


 親鸞会では化土について教わった記憶がほとんどありませんが、親鸞聖人は、なぜ化土について説かれたのでしょうか?



【回答】


 親鸞聖人が化土について教えられているのは、教行信証の化土巻です。化土巻は、文字数でいえば教行信証の3割以上を占めており、非常に重要な教えであることに間違いありません。

 ここで親鸞聖人は、化土往生を、19願・20願の往生として説かれています。話が複雑になりますので、今回は19願の往生に絞って説明したいと思います。親鸞聖人は19願の位置づけについて、以下のように書かれています。


●しかるに濁世の群萠・穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なる者は甚だもって難く、実なる者は甚だもって希なり。偽なる者は甚だもって多く、虚なる者は甚だもって滋し。ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく所有海を化したまふ。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引摂の願」と名づく、また「至心発願の願」と名づくべきなり。(化土巻)

 このように親鸞聖人は、外道を離れ、仏門に入った人の中に「真なる者」「実なる者」は非常に少なく、「偽なる者」「虚なる者」が非常に多いと説かれています。
 そこで、「偽なる者」「虚なる者」を真実に導くために誓われたのが19願であると教えられています。

「偽なる者」「虚なる者」は、口では「浄土に生まれたい」と言っていても、心では「真実の浄土」に生まれたいとは思っていません。本当の浄土とは、私達の煩悩が喜ぶような世界ではないからです。


●大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなけん。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。(真仏土巻)

 私達は楽しい世界を浄土だと思っていますが、楽しいことがあれば、楽しみが終わったときに苦しみを感じます。苦しみを感じる世界は浄土ではありません。だから、浄土は楽しみを断じた世界だと説かれています。

 ここでいう楽しみとは、煩悩の楽しみです。浄土は「浄らかな世界」という意味であり、仏教で「浄らか」というのは、「煩悩の穢れがない状態」を指しますから、浄土に煩悩の楽しみがないのは当然のことです。

 このような「真実の浄土」に生まれたいという心が起きない人に対しては、方便として、私達が生まれたいと思うような世界としての浄土が説かれています。これが化土に当たります。



 親鸞聖人は、化土のことを「辺地懈慢」とも仰っています。
「辺地」とは、境界線のある世界という意味で、誰でも自由に入ることのできない世界です。
「懈慢」の「懈」は懈怠ということで、怠惰な世界。「救われるまでの辛抱だ」と思って頑張り、「救われたら楽をしよう」と思っている人の行く世界です。
「慢」は「キョウ慢」ということで、自分たちの世界以外の人を見下す心があるので、このように言われます。

 以前、親鸞会館のことを「この世の浄土だ」と言っている人がありましたが、「この世の化土」と言ったほうが正しいと思います。
 また、親鸞会の殆どの人が想像している浄土は、「化土」であると考えられます。

 もちろん、こんな世界に生まれさせることが仏教の目的ではないのですが、「偽なる者」「虚なる者」には、煩悩を離れた世界に生まれたいという心がありませんので、方便として説かれているのです。



 では、化土に生まれるには、どうしたら良いと説かれているでしょうか?
 19願では、「発菩提心 修諸功徳」と誓われています。これは、他人を幸せにしたいという心を起こして、善を修めることです。

 他人を幸せにしようとすると、問題になるのが煩悩です。我欲や怒りに振り回されていては他人を傷つけるばかりで、幸せにすることはできません。そこで初めて「煩悩から離れたい」「浄らかな心になりたい」という願いが起きるのです。



 このことを、親鸞聖人は、次のように仰っています。

●しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利格別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。(化土巻)

 このように、19願の善は、「欣慕浄土」つまり、真実の浄土を願わせるための方便の善であると説明されています。

 当然ながら、いつまでも化土往生のままで良いという教えではありませんので、真実の浄土である報土往生を願う身になりなさいと説かれているのです。



 ですから、真実の浄土に生まれたいと願っている人には、19願の教えを説く必要はありません。親鸞会では、「すべての人に19願から説かねばならない」と教えているようですが、どこに根拠があるのか疑問です。

 しかし、「早く救われて楽になりたい」とか、「浄土に往生したら八功徳水の温泉でゆっくりしたい」とか、「煩悩から離れたいと思わない」というような人には、19願の教えが方便になると親鸞聖人が教えられていますので、19願の教えが全く不要だと考えるのも誤りということになります。
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COMMENTS

No title

>しかし、「早く救われて楽になりたい」とか、「浄土に往生したら八功徳水の温泉でゆっくりしたい」とか、「煩悩から離れたいと思わない」というような人には、19願の教えが方便になると親鸞聖人が教えられていますので、19願の教えが全く不要だと考えるのも誤りということになります。

私にはこのような心しかありませんが、ずっと18願の教えだけを聞いております。
これは間違いという事でしょうか?
「自力の菩提心をまず起こせ。でないと信心獲得できない」ということでしょうか?

No title

がすしつがかり様


 まず、最初にお願いですが、当サイトでは質問はメール(タイトルに記載)にて受け付けておりますので、次回からはそのようにして頂けますでしょうか。
 ご質問につきましては、個人的な聞法求道に関わることですので、数行の文章だけから無責任な返答はできませんし、私が貴方に対して、18願だとか19願だとか言うべきことでもありません。
 ですから、あくまで一般論としてのお答えになることをご了承ください。

 報土往生を願っている人には18願の救いがあり、化土往生を願っている人には19願の救いがあります。
 ですから、報土往生を願っている人が、「私はまだ19願を通っていないから、まずは19願から始めねば」などと思う必要もありませんし、そのような教えは聞いたことがありません。

 しかし、世の中には「私は報土往生なんて興味無い、信じられない」という人もいるわけです。そんな人のほうが多いと、親鸞聖人は仰っています。
 仏教では、そのような人たちに、無理矢理に、18願を強制するということはしないのです。
 そこで、私達の迷った心に合わせられて、お釈迦様は観経を説かれ、阿弥陀仏は19願を誓われたのです。

 ですから、貴方が18願の教えだけ聞いて、報土往生を願う心が起きるのであれば、それに越したことはありませんから、今さら化土往生に逆戻りする必要はありません。


 あとは、言葉の意味の問題になるかと思います。仏教で「浄土」とは、「浄らかな世界」という意味であり、仏教で「浄らか」とは、「煩悩の穢れのない」という意味です。これは仏教の常識です。

 このことを正しく理解された上で、「浄土(報土)に生まれたい」と願っておられるのであれば、まったく問題ないと思います。

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